偽りの幼稚園児





               【三九】

 右の乳房の母乳を飲ませ終えた薫は、いったん授乳用ブラとブラウスを元に戻し、葉月に着せたツーウェイオールの裾をズボン状に変えて、皐月に目配せをした。
 合図を受けた皐月が葉月をベッドから抱え上げ、うつ伏せの姿勢で床におろす。
 その間に薫は壁際に移動して膝立ちになり、改めてブラウスの胸元をはだけた。
 それを見た葉月が立ち上がって薫のもとへ近づこうとするのだが、皐月に背中と肩を押さえつけられて、うつ伏せのまま立ち上がることができない。
「さ、おっぱいが欲しかったら、ここまで這い這いしてらっしゃい。でも、葉月はまだ月齢五カ月の赤ちゃんだから、お手々がしっかりしてなくて、体を持ち上げた這い這いはできないのよ。体を床につけたまま、ほら、ずりずりしてママのことろまで来るのよ」
 薫は膝立ちのまま前屈みになって、授乳用ブラに包まれた乳房を強調してみせる。
「んん……」
 薫に言われるまま、葉月はうつ伏せの姿勢でお腹を床につけた状態で体を捻って足の裏で床を蹴り、前腕(腕の肘から手首まで)で体を引きずるようにして、いわゆる『ずり這い』で少しずつ薫のいる方に進み始めた。
「ほら、頑張って。上手よ、葉月」
 薫は膝歩きで葉月に近づいて声をかけた。
 葉月が上目遣いで見上げると、豊満な乳房が目の前にあった。
 それに力を得て手と足に力を入れてずりっと前に進む。
 だが、葉月が進むのに合わせて薫が後ずさるものだから、葉月の手は薫に届かない。
 そんなことが何度か繰り返された後。
 葉月の動きがぴたっと止まって、もの悲しげな目で薫の顔を見上げる。
 涙に潤む葉月の目を覗き込んで、薫はその場に正座をし、両手を広げた。広げた手を葉月の脇の差し入れて、そのまま、葉月の体を引き寄せる。引き寄せて、うつ伏せだった葉月の体をくるりと仰向けにしてお尻を自分の腿に載せさせ、そのまま横抱きにする。
「ごめんね、葉月の仕草が可愛くて、ついからかっちゃった」
 薫はくすっと笑って授乳用ブラの左側のカップを開いた。
「……っく、ひっく、ふ、ふぇーん」
 葉月はしゃくり上げながら、薫の乳首を咥えた。涙がぽろぽろ溢れ出す。
「いいわ、だっぷり泣きなさい。思いきり泣いて、泣きながらおっぱいを飲んで、ママの赤ちゃんになりなさい」
 薫は穏やかな笑顔で言った。
「ふ、ふぇ、ふぇーん」
 涙を流し、しゃくり上げながらも、葉月は薫の乳首を口にふくんで離さない。
 泣くということがこんなに気持ちのいいことだなんて、葉月はちっとも知らなかった。
 忙しい両親を慮って自分の感情を押し殺し、幼い頃からいろいろなことにじっと耐えてきて、いつしか泣くことを忘れていた葉月。それが、薫との生活が始まった途端、ことあるごとに心がざわめき、気持ちが揺らぎ、ちょっとしたことで感情が抑えられなくなってきて。
 泣き声をあげるたびに、胸にわだかまっていた何かが一つずつ涙と一緒に流れ去ってゆく。感情にまかせて泣きじゃくることで、様々なしがらみから自由になってゆく。感情を爆発させるということが、こんなにも自分を自由にしてくれるなんて知らなかった。泣き叫ぶことでこんなにも気持ちが晴れ晴れするものだなんて思いもしなかった。泣くという行為を自分がこんなにも易々と受け入れ、それどころか、泣くという行為に自分がこんなに浸ってしまうなんて思いもつかなかった。
 手放しで泣きじゃくることで、自分をこんなにも解き放つことができるなんて思ってもみなかった。
 泣きながら薫の母乳を貪り飲み、涙をこぼしながら薫の乳房に顔を埋め、唇の端から母乳を溢れ出させながら薫の乳首を求め、葉月は、これまで味わったことのない愉悦に身悶えしていた。
 葉月はますます薫の虜になってゆく。

 最後に葉月は、一歳くらいの女の子の赤ん坊をイメージしたスカート付きロンパースを着せられ、ツーウェイオールを着せられた時と同じように床に腹這いの状態にさせられたのだが、さきほどの『ずり這い』とは違い、今度は、腕を伸ばした姿勢での這い這いを強要されることになった。
「ほら、あそこでママがガラガラを振って待っているよ。さ、頑張って這い這いでママのところへ行ってごらん」
 皐月が、さきほどと同じく壁際で膝立ちになっている薫を指差して、掌と膝を床につけて四つん這いになっている葉月のお尻を押した。
「ほら、こっちへいらっしゃい。這い這いでここまで来られたら、ご褒美をあげるわよ」
 皐月が葉月のお尻を押すのと同時に、薫がガラガラを振りながら声をかける。
 からころ。からころ。
 プラスチック製の玩具が奏でるかろやか音色に誘われるように、葉月がゆっくり手と膝を前に動かした。
 慣れない這い這いだから体の動きがぎこちなく、後ろに突き出したお尻が大きく揺れる。
 ロンパースのスカートは短くて、這い這いの姿勢だと、ブルマーの部分が丸見えになってしまう。おむつとおむつカバーで丸く膨れたブルマーに包まれたお尻を左右に揺らしながらガラガラの音色を求めて這い進む葉月は、明日から幼稚園に通う幼女でさえなく、乳児と呼ばれるのがお似合いの無力な存在に堕ちてしまっていた。
 そんな葉月の後ろ姿を皐月はスマホで追いかけるのだが、スマホの画面越しでも、葉月の手と足の動きが妙に覚束なく見える。
 体の動きがぎこちないのは、実は、這い這いに慣れていないことだけが理由なのではなかった。
 理由は、ツーウェイオールを着せられた時の『ずり這い』にもあった。選択性筋萎縮剤によって手足の筋肉が弱体化されているところに、腕の力だけで体を引きずるようにして床を這い進んだものだから、今のように腕を伸ばして這い這いするだけの力はもう殆ど残っていないのだ。
 それでも、葉月は這い進むことをやめない。いや、やめられない。
 這い進むことをやめて、薫が再び自分の目の前からいなくなってしまいでもしたら。薫に対する限りない依存心が芽生えてしまった葉月は、そんな不安に急かされて、薫のもとに這い進むことしかできないでいるのだった。
 そして、ようやく。
「よく頑張ったわね、葉月」
 手と足をぶるぶる震わせながらようやく目の前に這い進んできた葉月の体を、薫が両手を大きく広げて抱き寄せた。
 葉月は膝立ちになって、薫の胸に顔を埋める。
「このままおっぱいをあげるのが葉月には一番のご褒美だけど、ついさっき葉月が飲んじゃったから、もうおっぱいは出ないのよ。少しの間、これで我慢していてね」
 薫は葉月の背中を撫でさすりながら、鈴本服飾商店のベッドでおむつを取り替えた時のおしゃぶりを口に咥えさせ、こちらもその時のガラガラを手に持たせて葉月を床に座らせてから、すっと立ち上がった。
「ママ、ママ!」
 薫がどこかに行ってしまうのではないかという不安に怯え、悲しげな声が葉月の口をついて出る。
「そんな心配そうな顔をしなくても大丈夫よ。葉月へのご褒美を取ってくるだけだから」
 そう説明して薫は部屋の一角に据え付けてある木製の収納棚から絵本を何冊か取り出して、すぐに戻ってきた。
「これが、頑張って這い這いできたご褒美よ。葉月、ママにご本を読んでもらいたいんでしょう?」
 持って来た絵本を床に並べ、葉月の頭を撫でて薫は言った。
 葉月の顔がぱっと輝く。
「ご本、嬉しい。ママ、読んで」
 おしゃぶりを咥えているせいで、長い言葉を喋るのは難しい。葉月は、外出前よりもたどたどしい幼児語で嬉しそうに言った。
 母親に本を読み聞かせしてもらっている幼児の姿に葉月が強い憧れを抱いていることを薫に教えたのは皐月だった。

 ショッピングモールの書店から葉月が駆け出した後、店員と別れた皐月は、葉月が慌てて書店を出て行った理由を念のため知っておこうとして児童書コーナーへ向かったのだが――。
「あら、御崎先生じゃありませんか。こんな所で会うなんて奇遇だこと」
 児童書コーナーへ向かった皐月に声をかけたのは、上山美鈴の母親・美里だった。
「あ、上山さん。本当に、こんな所でお会いするなんて」
 皐月は少し驚いた顔で応じた。
 自分が勤めている幼稚園に通う園児の母親に対しては「○○ちゃんのお母さん」と呼びかけることが多いものだが、皐月が美里のことを名字で呼んだのには理由があった。というのも、美里は幼稚園のPTA会長を務めており、そのため皐月も何かと顔を会わせることが多く、自然と名字で呼ぶようになっていたのだった。
「ところで御崎先生、本をお探しのご様子ではなさそうだけど、ここへは何か別のご用事で?」
 日頃から人の細かな表情の変化や感情の揺れ等を把握することに長けている美里が、皐月の様子を伺いつつ思案げな顔で訊いた。
「あ、ええ、さっき、ブルーのサマードレスを来た子がこちらから書店の外へ駆け出して行ったのですが、その子のこと、上山さんはご覧になりませんでしたか?」
 言葉を選びながら皐月は応じた。
「ああ、葉月ちゃんのことかしら。見たどころか、鈴本服飾商店で誂えたらしいサンドレスを着ていたから親しみがわいちゃって、いろいろとお話をしていたんですよ。ただ、美鈴がひばり幼稚園に通っていることを知った途端、なんだか慌てた様子で走って行っちゃって。私も美鈴も呆気にとられていたところなんです」
 美里はちらと美鈴の顔を見て答え、さっきまで葉月が立っていた場所に視線を向けて続けた。
「私、椅子に座って美鈴に本を読んであげていたんだけど、今から思うと、なんだか切なそうな表情をしていたような気がするわね。なんていうか、私に本を読んでもらっている美鈴の様子をじっと見ていて、どう言えばいいのかしら、ええと、ああ、そうそう、切ないというか、羨ましそうな表情をしていたんだわ、葉月ちゃん。自分もお母さんに本を読んでもらいたくて、でも、何か事情があるのか、それが難しくて、ちょっぴり悲しそうな、そんな様子だったかしら。ところで、葉月ちゃんは御崎先生のお知り合いなの?」
 皐月がここへ来たのは葉月のことと関係がありそうだと察した美里は、問われるまでもなく説明した。
 そうか、そういうことだったんだ。皐月には、その時の葉月の気持ちが手に取るようにわかった。
 皐月はすっと息を吸い込み、美鈴の顔を正面から見て
「実はその子が、先日ご説明したプロジェクトにかかわっている子、つまり、葉月なんです」
と言った。
 それを訊いた美里は少し驚いた顔になったが、すぐに、
「そう、あの子が。どこかで聞いたことのある名前だと思っていたけど、そういうことだったのね」
と呟き、いかにも興味深げな表情を浮かべて
「あの葉月ちゃんが御崎先生の――だったなんて、本当に奇遇だこと」
と言って、うふふと笑った。
 プロジェクトの実行にあたっては、皐月の弟である葉月をプロジェクトに参加させるという事実を園児の保護者に事前に知らせておく必要がある。その手順を踏まずに葉月を特別年少クラスの園児としてひばり幼稚園に迎え入れ、葉月が実は十八歳の男性だということが知られたら、園児たちが大混乱に陥るのは明らかで、そうなったら監督官庁の手厳しい指導を拒むことはできない。そのため、紗江子と皐月はPTAの役員を園長室に招き、慎重に言葉を選びながら粘り強い説明を繰り返し行ったのだが、幸いなことに、紗江子たちの方針に異を唱える者はいなかった。もともと、保護者、特に母親は、紗江子が掲げる理念や園の運営方針に賛同して子供をひばり幼稚園に入園させることにした者が大半な上、そんなことには関心がなく、高級住宅地にある幼稚園だからと或る種のブランド志向で子供を入園させた保護者も、紗江子や教諭たち、そして、紗江子の理念に賛同する他の保護者と接するうちに、園の運営方針に対して絶大な信頼を寄せるようになり、紗江子の判断を信奉するようになってゆく者が殆どだった。そんな保護者の中から選ばれたPTA役員が紗江子の主導するプロジェクトに異を唱える筈がなかった。説明においては、皐月の弟である十八歳の男子大学生・葉月が特別年少クラスの女児としてプロジェクトに参加することも伝えたのだが、その件に対しても反対はなく、むしろ、好奇の念にかられた興味深そうな声の質問が寄せられるばかりだった。ただ、特別年少クラスの女児園児として迎え入れる葉月が実は男性だということを園児には絶対に知られないようにしてほしいという懸念混じりの要望の声があがったことは付記しておく必要があるだろう。紗江子の理念に賛同する保護者を代表するPTA役員にとっては、葉月の参加はまるで問題のないことだが、まだ判断能力に乏しい園児にとって、少し体は大きいものの手のかかる女児である筈の葉月が成人男性だという事実を受け入れることは容易でなく、下手をすれば園児が登園を拒む事態になるおそれも充分に考え得る。そのような事態になることだけは絶対に避けてほしいというPTA役員の声に対して紗江子が善処を確約したことにより、PTA役員が他の保護者への根回しを担う旨の申し出がなされ、葉月をメンバーとするプロジェクトは保護者からの支持を得ることとなったのだった。




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