偽りの幼稚園児





               【四十】

「ええ、本当に奇遇です。偶然とはいえ葉月の顔もおぼえていただけたでしょうし、明日から何かとよろしくお願いします」
 幼稚園で美里の姿を見かけた時に葉月がどんな顔をするのか想像してみてくすっと笑いながら、皐月は恭しく頭を下げた。
 そして、いまひとつ事情を飲み込めないでいる美鈴が、特別製の制服に身を包んだ葉月と幼稚園で会った時にどんな顔をするのかどんな様子をみせるのかを想像して、もういちどくすっと笑う。
 ――というようなことがあって、自分たちが子供だった頃に思いを馳せ葉月の胸の内を察した皐月は、葉月を更に手懐けるには優しく本を読み聞かせてやることが効果的であることを薫に告げたのだった。

「じゃ、最初はこの絵本にしようね。本当はママのお膝の上に座らせて読んであげたいんだけど、葉月は体の大きな赤ちゃんだから、そうすると、本が見えなくなっちゃうの。だから、これで我慢してね」
 薫は葉月を脚を開き気味にしてお尻を床にぺたんとつけさせて座らせ、そのすぐ横に正座で座ると、葉月の体を自分の方にもたれかけさせて絵本を広げた。
「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが……」
 薫が、葉月の様子を窺いながら絵本を読み始める。
「ママ、ご本、読んでくれるの。葉月も、ママに、ご本読んでもらうんだよ」
 葉月はうっとりした表情になり、そこにはいない美鈴の顔を思い浮かべて嬉しそうに呟いた。

               *

 幼児期の思い出の空白を埋めるように葉月は薫に何度も何度も本を読んでくれるようせがんだ。
 一度読んだ本でもかまわず、その内容ではなく、「母親に読んでもらう」という行為そのものを求めて、何度もせがんだ。
 そうして、せがまれるまま、薫は何度も絵本を開く。
 そんなことを繰り返しているうちに、葉月の下半身がぶるっと震えた。
 そのことに気づいた薫は絵本を床に置き、
「出ちゃいそうなんでしょ? トイレへ連れて行ってあげようか? それとも、オマルがいい?」
と、葉月の耳元に囁きかけた。
 だが葉月は、
「いや。葉月、ご本なの。ママのご本なの」
と、薫にもたれかかったまま小さく頭を振るばかりだ。
「おむつを汚しちゃってもいいの?」
 薫は少し意地悪く訊いてみる。
 葉月はそれには答えず、
「葉月、ご本なの。美鈴ちゃんみたいに、ご本なの」
と繰り返すだけだった。
「いいわ。じゃ、続きを読んであげる」
 薫は、床に置いた絵本を改めて手に取り、途中まで読んでいたページを開いた。
「うん、ご本」
 葉月は満面の笑みを浮かべ、安心したような声で言った。
 成人の身でありながらおむつを汚してしまう羞恥や、恋心を抱いた相手の手でおむつを取り替えられる屈辱よりも、薫にもたれかかって絵本を読んでもらうことで空白の思い出を作り直し、おむつを濡らして薫の手を煩わせることで薫との結び付きを確かめたいという願いの方を、葉月は選んだのだ。
 薫には、葉月の心の在りようの変化が手に取るようにわかる。
 わかっていながら、わざわざ「トイレへ連れて行ってあげようか?」と訊いて葉月に言葉で答えさせたのは、葉月自身に自分の心の在りようがどんなふうに変わってしまったのかを改めて確認させるため。

「きつねとうさぎが、もりのなかで、きれいなはなを……」
 薫が再び絵本を読み始めてしばらくした頃。
 ピピピという電子音が鳴り響いた。
 スマホの画面をタップして電子音を止めて首を巡らせた薫の目に写ったのは、陶然とした表情を浮かべる葉月の顔だった。
 薫は声をかけようとしたが、どこにも焦点が合っていない虚ろな目をした葉月が
「葉月、ママにご本を読んでもらいながら、ちっちなの。葉月、ご本を読んでもらって、おむつにちっちなの」
と甘えたような声で呟く様子を見て、再び絵本を読み始めた。
「葉月、ご本を読んでもらいながら、ちっちなの」
 おしゃぶりを咥えたまま繰り返し呟く葉月の唇の端からよだれが首筋へ伝い流れ、真新しいロンパースの胸元にうっすらと滲みをつくった。
 葉月の手が無意識に動いて、ガラガラを振る。
 からころ。からころ。
 かろやかな音色と薫の読み聞かせの声が混じり合って、真夏の午後の気怠い空気を穏やかに揺らす。

               *

「そろそろ出ちゃったかな。じゃ、おむつを取り替えようね。ガラガラを持ったままだと這い這いできないから、立っちして、ここまで歩いてらっしゃい」
 手にしていた絵本を収納棚に戻し、おねしょシーツを床に敷いて薫が言った。
 頬を赤らめながらも、嫌がるそぶりをみせずに葉月が小さく頷いた。他人の目がある場所ならともかく、薫や皐月しかいない所では、もうすっかり薫の言いなりだ。いや、言いなりというよりも、ショッピングモールから帰ってきてからは、むしろ自分からねだってそうしているようにさえ思える。
 言われるまま葉月はゆっくり立ち上がり、覚束ない足取りで薫のもとへ歩み寄った。葉月の歩き方が覚束ないのは、ぐっしょり濡れた布おむつが下腹部の肌や腿にべっとりまとわりついて歩きにくいことに加え、おむつを濡らすことに奇妙な悦楽を覚えるようになり、そのせいでペニスが疼いてしまうためだが、おむつでおしりを丸く膨らませたスカート付きロンパースを着ておそるおそる歩みを進めるその姿は、ようやく伝い歩きができるようになったばかりの幼女そのままだった。
「いいわよ。じゃ、ここにごろんしてちょうだい」
 薫は葉月が後ろに倒れてしまわないよう背中に手をまわし、ゆっくりお尻をおろさせて、その場に寝かせた。
 それから薫は葉月の足元に膝をつき、ロンパースのブルマー部分の股間に四つ並んでいるスナップボタンを外しながら
「どうしてこんな所にボタンが付いているのか、葉月はわかる?」
と尋ね、少しだけ間を置いて
「わかるわよね? 初等教育科の大学生の葉月だったらわかるわよね?」
と、悪戯っぽい笑みを浮かべて続けて言った。
 薫との結び付きを強めるためにおむつを汚してしまったけれど、羞恥心は残っている。葉月は口をつぐんで顔を赤く染めることしかできない。そして、その羞恥心が、奇妙な愉悦を更にくすぐる。
「ずっとおむつをしてなきゃいけない赤ちゃんがおむつを汚しちゃった時、おむつを取り替えやすいにように、こんな所にボタンが付いているのよ。このボタンを外して、こうすれば、ほら」
 ロンパースの股間に並ぶボタンを四つとも外した薫は、ブルマー部分の前布をおへその方に捲り上げた。
 おむつカバーが丸見えになる。
「ね、こうすれば、いちいち脱がせなくてもおむつを取り替えられるでしょ? だから、ずっとおむつの赤ちゃんの葉月にはお似合いのお洋服なのよ」
 薫に言われ、恥ずかしさに耐えかかねて葉月はおしゃぶりをぎゅっと噛みしめる。
「そうよ、おむつを取り替えてあげる間、そんなふうにおしゃぶりをちゅうちゅうしているといいわ。それと、これもね」
 これもねと言って、薫は葉月の手首を握ってガラガラを振らせた。
「よくお似合いよ、おむつの赤ちゃんには」
 ガラガラの音を聞きながら、薫はおむつカバーの腰紐をほどき、股ぐりのスナップボタンを外して前当てを両脚の間に広げ、横羽根を左右に広げた。
 お尻を床にぺたんとつけた座り方で、タックによって後ろ向きに固着されたペニスからおしっこが溢れ出るものだから、あらわになった動物柄のおむつは、特にお尻のあたりがぐっしょり濡れている。
 薫は葉月の足首を右手でまとめ持って高く差し上げ、濡れたおむつを手元にたぐり寄せて、代わりに、予め用意しておいた新しいおむつを敷き入れた。もう何度も経験していることだというのに、新しいふかふかの布おむつが肌に触れる感触に慣れることはない。想像できないほどの柔らかな感触が、葉月の羞恥心を煽りたてる。
 薫の右手が伸びて、お尻拭きが葉月の下腹部に押し当てられる。
「ぁん……」
 ひんやりした感触に、葉月は腰をびくんと震わせ、おしゃぶりを噛みしめた。唇の端からよだれがこぼれ出て、頬を伝い流れておねしょシーツに滲みをつくる。
 お尻拭きを持った薫の手は、特にお尻の谷間、ペニスの先端のあたりを執拗に動きまわった。お尻拭きがペニスの先を撫でさするたびに葉月はその場から逃れでもしようとするのか腕を振り、ガラガラのかろやかな音が鳴り響く。
 しばらくして薫はお尻拭きをベビーパウダーに持ち替え、こちらもやはりペニスの敏感な部分を攻めたてた。
 からころ。からころ。葉月が振るガラガラのかろやかな音色とベビーパウダーの甘い香りが広がって、『はづきのおへや』はすっかりベビールームになってしまう。
「んん……」
 葉月はますます強くおしゃぶりを噛みしめ、こぼれ出る涎でおねしょシーツの滲みか増える。
 薫はパフをベビーパウダーの容器にしまい、葉月の両脚の間を通して股あてのおむつをあてた。ペニスの先端に柔らかなおむつが触れ、思わず葉月は内股になって左右の太腿を擦り合わせてしまう。なんだか、自分の股間にペニスがあることが無性に疎ましく思えてくる。
 薫は差し上げていた葉月の足首をおねしょシーツの上に戻し、もじもじと擦り合わせている両脚を軽く開かせて横あてのおむつをあて、おむつカバーの左右の横羽根をおへそのすぐ下で重ね合わせてマジックテープで留めて、その上に前当てを重ねて位置を調節してからマジックテー部で留め重ねた。それから、股ぐりのスナップボタンをぷつっと留めて腰紐を結わえ、股ぐりから出ているおむつをおむつカバーの中に優しく押し込む。
「さ、できた。おとなしくしていてお利口だったわね」
 薫は葉月の脇の下に手を差し入れて上半身を起こさせ、ツインテールに結わえた髪を優しく撫でつけた。
「もういちど、ご本?」
 口のまわりをよだれでべとべとにしながら、葉月は期待に満ちた顔で訊いた。
「そうね、葉月はご本が大好きだから、もっと読んであげたいわね。でも、これからママ、お洗濯をしなくちゃいけないの。お出かけしている間もお家に帰ってきてからも、葉月、たくさんおむつを汚しちゃったでしょう? だから、お洗濯しておかないといけないのよ。ご本はパパに読んでもらいましょうね」
 薫はあやすような口調で応えた。
「葉月、ママと一緒がいい。ママと一緒にいる」
 葉月は一瞬の迷いもなく言い、薫のブラウスの袖口をぎゅっと掴んだ。
「いいわ。じゃ、ママがお洗濯するところを側で見ていてね。葉月が汚しちゃったたくさんのおむつを洗濯するところを」
 薫は、おねしょシーツの隅に置いたぐっしょり濡れたおむつと葉月の顔を交互に見比べ、面白そうに言った。
 言われて葉月は頬を赤く染め恥ずかしそうにしつつも、こくりと頷く。
「だけど、その前に、せっかくのロンパースがよだれで汚れちゃわないようにしておかなきゃね」
 薫は、涎でべとべとの葉月の口のまわりをハンカチで拭い、ロンパースの胸元をよだれかけで覆った。

               *

「よかったわね、いいお天気で。これなら夕方までに乾きそうだわ」
 ベランダに張った洗濯ロープに幾つもパラソルハンガーを掛けながら、誰にともなく薫は呟いた。
 薫の言う通り、八月の太陽は眩く、夕方までの数時間で、お日様の光を浴びた布おむつはふかふかに乾くことだろう。
「せっかくだから、葉月にも手伝ってもらおうかしら。ママがするのを見て、同じように、おむつを干してちょうだい。葉月が汚しちゃったおむつをね」
 ハンガーを掛け終えた薫は、洗ったばかりのおむつでいっぱいの洗濯籠を葉月の足元に置き、葉月が持っているガラガラをエプロンのポケットにしまって、洗濯籠から布おむつを一枚つかみ上げ、パラソルハンガーに吊り留めた。
 葉月も躊躇いがちに洗濯籠からおむつを一枚つかみ上げ、見よう見まねでバラソルハンガーに吊り留める。
 これまで葉月は、食事の準備も掃除も洗濯も全て皐月にまかせきりで、家事などまるでしたことがない。それが、初めての家事が、自分の汚したおむつを干すことだなんて。
 葉月の胸に恥辱の念がわきおこり、それがまた、妙にペニスを疼かせる。
「そうそう、上手よ、葉月。こんなにきちんとママのお手伝いをできるなんて、本当に葉月はお利口だわ」
 薫は次のおむつをつかみ上げながら、優しく葉月に微笑みかけた。
 皐月が構えるスマホの画面に写る、のどかな夏の日の光景。
 一見したところでは、それは、若い母親と幼い愛娘が織りなす、微笑ましいけれど何の変哲もない、ごくありふれた光景にすぎない。まだおむつ離れができずにお尻を丸く膨らませたロンパースを着ておしゃぶりを咥えた幼い娘の性別と年齢を除いては。

 波乱に満ちるであろう幼稚園生活の始まりを明日に控え、頬を撫でる風と眩い夏の光を受けて、束の間の穏やかな時間の流れに身をまかせるかりそめの母娘の姿もまた、『思い出のアルバム』の貴重な一齣としていつまでも残り続けるに違いない。




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