偽りの幼稚園児





               【四一】

 そして迎えた、葉月の『初出勤』の日。
 アルバイトの初日だから確かに『出勤』なのだが、そんなふうに考えている者は、葉月自身も含めて一人もいない。
 本当のところは、記念すべき『初登園』の日だ。

「これでよし、と。じゃ、おむつをあててあげるから、あそこにごろんしてちょうだい」
 日に一度だけ許されるトイレを済ませて部屋に戻ってきた葉月に改めてペニスタックを施した薫が、ベッドの上に準備しておいた新しいおむつを指差して言った。
 それに対して葉月は
「葉月、今日から幼稚園でしょ? おむつで幼稚園、恥ずかしい」
と、薫の顔色を窺いつつ弱々しく首を振る。
 それは、成人男性の羞恥の表現ではなく、幼い女児の羞じらいの仕草だった。
「だって仕方ないでしょ? 一昨日も昨日もしくじってばかりだったんだから」
「で、でも……」
 首をうなだれて、葉月は薫の顔を上目遣いに見上げた。
「……いいわ、じゃ、パンツにしましょう。でも、一度でもしくじったら、その後はずっとおむつよ。いいわね?」
 今にも泣き出しそうにしている葉月に根負けしたかのようにやれやれと溜息をついて薫は軽く頷き、箪笥の引出しから女児用のショーツを取り出した。
「じゃ、ママの肩に手を置いて片方ずつ足を上げてちょうだい」
 薫は葉月の足元に膝をついてショーツのウエストを両手で広げ持ち、葉月が両方の足を順に股ぐりに通すのを待って膝のあたりまで引き上げたが、そこで手を止めてしまう。
「……どうしたの、ママ?」
 葉月が不安げな表情でおそるおそる尋ねる。
「一昨日もそうだったけど、パンツだけじゃ心配だから、ちゃんとしときましょうね」
 不安そうな面持ちでこちらの様子を窺う葉月に薫はさりげなく言い、ベッドの上に準備しておいた新しいおむつを四枚つかみ取ると、葉月の膝まで引き上げたショーツの内側に重ねあてがった。
「恥ずかしいよ、こんなの……」
 ショーツの内側にあてがわれた布おむつを直視できず、慌てて目をそらして葉月は声を震わせた。
「一昨日はおちびりしちゃうかもしれないからっておむつは二枚だけだったけど、もうおちびりじゃ済まなくなっちゃってるでしょ、葉月は。だったら、パンツの中のおむつを増やさなきゃ仕方ないじゃない」
 しれっとした顔で薫は葉月の言葉を遮り、あやすように言った。
「その代わり、パンツの上にオーバーパンツを穿かせてあげる。昨日、葉月がお出かけ先でオーバーパンツを嫌がった時、もう絶対にオーバーパンツを穿かせてあげないわよってママ言ったけど、パンツの中のおむつを四枚に増やしてもいいなら、もういちどオーバーパンツを穿かせてあげるわよ。それとも、おむつをもっとたくさん増やしておむつカバーの方がいいのかしら?」
 言われて黙り込んでしまった葉月は、しばらくそうしていてから、口を開きかけては閉じといったことを何度か繰り返した後、ようやく弱々しい声で言った。
「……オーバーパンツ穿いてもいいんだったら、これでいい」
「うん、わかった。じゃ、ちゃんとしましょうね」
 薫はおむつごとショーツを引き上げて葉月の下腹部を包み隠し、少しずれたおむつを整えてから再び箪笥の引出しを開け、オーバーパンツを取り出して、ショーツと同じようにウエストを両手で広げ持ち、手早くショーツの上に穿かせてしまう。
「はい、できた。これならおむつが見えないから恥ずかしくないわね。これで葉月は幼稚園のお姉さんよ」
 薫は、オーバーパンツの上から葉月のお尻を優しく叩いた。
 薫の言う通り、確かにおむつもショーツも隠れて見えない。けれど、四枚の布おむつの厚みのせいでオーバーパンツのお尻から股にかけてのあたりが丸く膨れてしまっている。それを見ればオーバーパンツの中に身に着けているのが普通のパンツではないことは明らかなのだが、今の葉月に、そんなことに思い至るゆとりはなかった。

               *

 普段なら皐月も薫も、開園の一時間前には出勤して園児たちの登園を待っているのが常だ。しかしプロジェクトの期間中は園長の指示で二人とも葉月の保護者として扱われることになっているため、他の園児たちの登園時間に合わせて葉月と一緒に登園すればよく、帰宅時も、葉月の下園に合わせてということになっている。
 そんな事情があって、皐月の車が幼稚園の駐車場に駐まったのは、あとしばらくで朝のチャイムの時間という頃合いだった。

 車からおり、薫に手を引かれて正門のすぐ前までやって来た葉月だが、紙で作った花で正門が飾りたてられ、すぐ側に『ひばり幼稚園 特別入園式』と大書きした看板が立てかけてあるのを見て、足を止めてしまう。
「特別入園式……?」
 紙製の花の飾りと看板を交互に見比べて、葉月はおそるおそる薫に尋ねた。
「こんな難しい漢字が読めるなんて、葉月はお利口ね。そうよ、今日は特別入園式の日なのよ。他のお友達が四月に入園する時に入園式をしてもらっているのに、今日から入園の葉月が何もしてもらえなかったら可哀想だからって、園長先生や他の先生たちが相談して、葉月だけのために入園式をしてくださることになったのよ。それが、葉月だけのための特別の入園式。夏休みでも、特別保育のお友達が四人登園しているから、その子たちからもお祝いししてもらえるのよ。みんなと同じように入園式をしてもらえて本当によかったわね。――そうだ、せっかくだから、記念写真を撮っておきましょう。パパ、お願いね」
 薫はにこやかな笑顔で説明し、葉月を看板のすぐ側に立たせ、自分もその傍らに身を寄せるようにして、皐月が構えるスマホに笑顔を向けた。。
 胸元に上品なコサージュをあしらったピンクベージュのセレモニースーツを着て大粒の真珠のネックレスを着けた薫は、幼稚園の教諭というよりも、愛娘の入園式に臨む若い母親そのままだった。一方の葉月は、淡いピンクのセーラースーツを着て、これからの幼稚園生活にちょっぴり不安を覚えて母親の手をぎゅっと握る女児。そよ風が吹くたびにセーラースーツの裾が揺れてレモン色のオーバーパンツが見え隠れする様子が可愛らしい、年端も行かぬ幼い女の子だ。

               *

 ところどころで記念写真を撮っているうちに、もうすぐ朝のチャイムが鳴りそうな時間になっていた。腕時計をちらと見て皐月と薫は軽く頷き合って歩き出したが、向かう先は園長室でもなく職員室でもなく、様々な式典や音楽会などの際に使う大集会室だった。
 大集会室の扉には、『特別入園式 みさきはづきちゃん入園おめでとう』と書いたプレートが取り付けてあった。
 朝のチャイムが鳴るのと同時に皐月が先頭に立って扉を開け、大集会室に足を踏み入れる。
 続いて薫と葉月が大集会室に入った途端、大きな拍手がわき起こると同時に、皐月と薫が葉月の側からすっと離れた。
「え……?」
 何が起きたのかわからず、葉月はぽかんとした顔になってしまう。
 そこへ一人の少女が近づいてきて、葉月の手を握った。
 はっとする葉月の目に映ったのは、ショッピングモールの書店で出会った美鈴の顔だった。
「ひばり幼稚園に入園おめでとう、葉月お姉さん」
 まるで物怖じする様子もなく美鈴は言い、くすっと笑ってから言葉を続けた。
「でも、本当はお姉さんじゃないんだよね? 体が大きいから私よりずっとお姉さんだと思ってたんだけど、本当は違うんだよね? 昨日、ママから聞いたよ。なんだか難しい事情があるみたいだけど、難しいことは考えなくていいから、特別年少クラスに入る葉月さんを可愛がってあげなさいって、ママ、言ってた。だから、うんと可愛がってあげるね、葉月お姉さん――ううん、今日から特別年少クラス・ひよこ組の葉月ちゃん」
 そう言って美鈴は葉月の手を引いて歩き出そうとする。
 だが、訳がわからない葉月はおどおどした様子で
「ど、どこへ行くの……?」
と尋ねつつ、足を踏ん張ってしまう。
「ステージを見てみなさい、園長先生が待ってくれてるでしょ? あそこまで連れて行ってあげるのよ。入園式じゃ、年長クラスの子が新入園の年少さんをステージへ手を繋いで連れて行ってあげることになっているの。だから、ほら」
 美鈴は少しばかり強引に葉月の手を引っ張った。
「あ……!」
 美鈴に手を引っ張られて、葉月はよろめくようにしながら歩き出した。
 昨日から薫は、母乳と共に飲ませる特別配合のミルクに混入する選択性筋弛緩剤の分量を少し増やしていた。そのせいで、葉月の手足の筋力はますます衰えてしまっていて、幼稚園児である美鈴に抗うことさえ難しくなっているのだ。
「ふぅん、今日はパンツなんだ。昨日はおむつカバーだったのに、今日は入園式だから、ちょっびりお姉さんの真似をしてみたくなったのかな」
 よろめきがちに足を踏み出しせいで制服の裾が乱れ、オーバーパンツが三分の一ほど見えてしまう。
 美鈴はその様子をおかしそうに眺めながら言って、足取りが覚束ない葉月を気遣うように歩速を緩めた。
 葉月の顔が羞恥でかっと熱くなる。

「やだ、かっわい〜い」
「あんよは上手、ほら、頑張って」
「みんな応援してるわよ」
 美鈴に手を引かれ羞恥に身悶えしながら葉月がステージに向かって歩く間、大集会室のあちらこちらから嬌声があがった。
 普通の入園式なら、ステージに向かって前方に園児の席があって、その後ろに保護者の席が用意してあり、その両側に来賓席と教職員席を設けるという配置にすることが多い。しかし新入園児が葉月しかいない特別入園式では出席者が少ないため、教職員や来賓も、本来なら保護者席になるべき椅子に座り、ごく近い場所から葉月の様子を見守ることになる。見知った顔の葉月が新入園児そのままいかにも頼りなげに、そしていかにも恥ずかしそうに振る舞う様子に、教職員たちが好奇の目を向けるのも無理からぬところだろう。

 園長が待つステージへ上がるには、階段を四段登ることになる。幼稚園児の歩幅に合わせた四段だからさほど高くはないが、最前列に並ぶ椅子に腰かけた園児の視点からなら葉月のセーラースーツを斜め下から覗き込むような格好になってしまうくらいの高さはある。
「体の大きな子が入園するけどびっくりしちゃ駄目よってお母さんが言ってたけど、本当に大きな子ね」
 美鈴に手を引かれてステージに登る葉月の後ろ姿を興味深そうに眺めながら、最前列の椅子に腰かけた年長クラスの女の子が、隣の椅子に座っている、こちらも年長クラスの女の子に言った。
「本当にそうね、あんなに大きな子なのに年少さんの下の特別年少さんなんて」
 隣の女の子も不思議そうな顔で頷く。
 保育園と違い、幼稚園にはきちんとした夏休みがある。とはいえ、様々な事情でどうしても昼間に子供の面倒をみられない保護者がいるのも仕方ないことだから、人数を限定して特別保育を実施している幼稚園は多い。ひばり幼稚園もそういった幼稚園の一つで、というよりも、いろいろな事情を抱えた母子に対して積極的な支援を行うことを主な目的の一つとして紗江子が設立した幼稚園だから、むしろ特別保育には積極的なのだが、今年は例年に比べて希望者が少なく、この夏休みは特別保育の園児を三人受け入れているだけだ。葉月の後ろ姿を不思議そうに眺めて言葉を交わし合っている年長クラスの女の子・富田愛子と年少クラスの女の子・服部雅美、それに、年中クラスの男の子・小林伸也の三人がそうだった。




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