偽りの幼稚園児





               【四二】

 葉月を連れてステージに上がった美鈴は、三人とは違って、特別保育の対象には含まれていない。
 ただ、PTA会長である母親が特別入園式に来賓として出席することに加え、何事にも物怖じしない性格がかわれて、葉月をエスコートする役をおおせつかったのだった。
「私の真似をしていればいいのよ。ほら、最初は園長先生にご挨拶して、それから、みんなにも」
 ステージに上がっても何をどうすればいいのかまるで見当がつかずおどおどするばかりの葉月に美鈴は言い、先ず園長に向かってお辞儀をし、それからくるりと体の向きを変えて、客席に向かってお辞儀をしてみせた。
 言われるまま葉月も美鈴を真似てぎこちなくお辞儀をする。
 緊張のあまり必要以上に深々とお辞儀をして、制服の裾がたくれ上がってオーバーパンツがあらわになってしまうのだが、葉月はそのことに気づきさえしない。
「いいわよ、二人とも座ってちょうだい」
 軽く頷いて、紗江子は小さな声で二人に言った。
 美鈴はスカートが乱れないよう制服のお尻を軽く撫でおろしながら、ステージの中央付近に用意している椅子に腰かけた。
 続いて葉月も隣の椅子に腰かけたのだが、慣れないスカートなものだから、裾が乱れて、再びオーバーパンツがあらわになってしまう。
 それを美鈴が椅子から立ち上がり、
「もう、お行儀がわるいんだから、葉月ちゃんは」
とたしなめながらセーラースーツの乱れを整えてやる。
 それは確かに、幼稚園に入園したてで手のかかる年少さんの面倒を甲斐甲斐しくみてやるしっかり者の年長さんの姿だった。

『ただ今より、ひばり幼稚園特別入園式を執り行います』
 美鈴が椅子に戻ると同時に、副園長の声がスピーカーから流れた。
 園児たちも含め、全員がしゃんと背筋を伸ばす。
 そんな中、葉月だけがただ一人、おろおろした様子でまわりの様子を見回すばかりだった。
『開式に先立ちまして、本日ご臨席賜りました来賓の方々をご紹介いたします。まず、当園の園児ならびに職員の健康の維持に関して並々ならぬご協力をいただいております医療法人慈恵会のご代表・笹野美雪様』
 不安に苛まれる葉月の心中などまるで知らぬげに、副園長は来賓の紹介を始めた。
 名前を呼ばれ、どことなく紗江子と似た雰囲気の中年の女性が立ち上がり、眼鏡のレンズ越しにもはっきりわかる鋭い眼光を葉月に投げかけて恭しく頭を下げた。
 美雪の眼光に射貫かれたかのように、思わず葉月は身をすくめてしまう。
『続きまして、園児の制服をはじめとして様々な衣類や雑貨の手配にご便宜をいただいております鈴本服飾商店のご代表・鈴本真由美様ならびに上野香奈様』
 二人揃って立ち上がった真由美と香奈は、美雪とはまた違う、ねっとり絡みつくような視線を葉月に向けながらお辞儀をした。
『そして、当園のPTAを代表して上山美里様』
 最後に名前を呼ばれた美里は、含むところのありそうな目を葉月の下腹部に向けて頭を下げた。
『来賓の皆様は以上です』
 副園長の声に合わせて四人は再び椅子に腰をおろした。
 だが、好奇の目は葉月に向けられたままだ。
『改めて特別入園式を開式いたします。開式にあたりまして、当園の園長・宮地紗江子より皆様にご挨拶申し上げます』
 副園長の声がスピーカーから流れ、紗江子が客席に向かって深々とお辞儀をしてから、演壇のマイクに向かって話し始める。
『まず、公私ともお忙しい中ご臨席賜りました来賓の皆様、本日はまことにありがとうございます。さて、ご来賓の皆様ならびに職員の皆さんもご存じの通り、当園の存続のみならず笹野先生の慈恵会の存続にも関連するプロジェクトが――』

 紗江子の挨拶にも上の空で、来賓の好奇の視線を痛いほど感じながら、葉月は、おそるおそる客席を見わたした。
 そして教職員たちの席の一角に、薫の顔をみつける。
 途端に、薫と離れてステージにぽつりといる自分がひどく孤独な存在に思えてきた。
 なんだか目の前の光景が現実のものだとは思えなくなってきて、自分一人だけがこの場に取り残されてしまったかのような寂しさに包まれる。
 表現しようのない不安に苛まれ、胸がきゅっと締めつけられる。
「ま、ママ……ママのところへ行く。葉月、ママの所へ行くの」
 紗江子が挨拶をしている途中だというのに、葉月は弱々しく呟いて椅子からふらりと立ち上がった。
 セーラースーツの裾が舞い上がってオーバーパンツが丸見えになるが、葉月は意に介さない。
「ママがいいの。葉月、ママの所がいいの!」
 葉月はぎこちない足取りでステージを歩み、階段に向かった。
 そんな葉月の手を美鈴がぎゅっと握った。
 握って、
「入園式の途中に勝手に歩きまわっちゃ駄目よ、葉月ちゃん。ママと離れて寂しいけど、少しだけ我慢しようね。ほら、私が一緒にいてあげるから」
と、それこそ自分よりもずっと年下の子供をあやすかのように宥める。
「やだ、ママと一緒がいいの!」
 葉月は金切り声をあげて美鈴の手を振りほどこうとするが、弱体化した筋力ではそれもかなわない。
 美鈴が困った顔をしていると
「いいわよ、美鈴ちゃん。葉月ちゃんの手を離してあげて」
と、マイクのスイッチを切って紗江子が優しく声をかけた。
「……?」
 無言で問い返す美鈴に対して、
「葉月ちゃんは年少さんよりも手のかかる特別年少さんだから、口で言ってもわからかないこともあるのよ。私がちゃんとしてあげるから心配しなくてもいいわよ」
と、紗江子は平然と応えた。
 その表情からは、まるで困った様子など見受けられない。むしろ、本当の幼女そのまま母親のぬくもりを求めて泣き出しそうにしている葉月の姿に、満足げな微笑みさえ浮かべていた。
「御崎先生と田坂先生、こちらに来て、葉月ちゃんを落ち着かせてください」
 マイクを通さず紗江子は皐月と薫の名を呼んで、手招きをした。
 二人はすぐにステージに駆け上がり、葉月のもとに歩み寄る。
「ま、ママ。葉月を一人にしちゃやだよ、ママ」
 人目も憚らず、葉月は涙声で薫にすがりついた。

『少し想定外の事態になってしまいましたが、せっかくですので、この場を使って改めて説明いたします』
 薫にすがりつく葉月の様子をちらと見て紗江子はマイクのスイッチを入れ直した。
『ご存じの通り、プロジェクトを推進するにあたって、私どもは御崎葉月ちゃんを当園に迎え入れることにしました。そして、プロジェクトのメンバーである葉月ちゃんと田坂先生の結び付きを強くするため、御崎先生を含めた三人に擬似的な家族としての生活を送ってもらっているところですが、つい今しがたご覧いただいたように、今や葉月ちゃんと田坂先生はすっかり強い絆で結ばれるに至っています。この良好な関係を維持するために、以前から申し上げている通り、御崎先生と田坂先生には園の業務から離れ、葉月ちゃんの保護者としての役割に専念していただくことにいたします。その間、お二人にはこれまでと同じように園に出勤してはいただきますが、園における業務は行わず、葉月ちゃんの保護者が保育参観に訪れているというような扱いとし、また、園におけるお二人の呼び方は鈴本代表からの提案に基づき、『葉月ちゃんパパ』と『葉月ちゃんママ』といたします。教職員の皆さんはその点をご承知いただき、適切な対応をお願いします。また、来賓の皆様におかれましては、プロジェクトの趣旨をご理解いただいた上で今後もご協力いただけますよう伏してお願いする次第です。――以上の説明をもちまして、私からのご挨拶に代えさせていただきます』
 凜とした声でそう言って紗江子は客席に向かって再び深々と頭を下げた後、演壇から離れてステージの縁に歩み寄り、目の前にいる三人の園児に優しく言って聞かせた。
「今のお話、みんなには難しかったわよね。退屈させちゃってごめんね。でも、とっても大切なお話だったのよ。みんなには後で、もっとわかりやすく担任の先生から説明してもらうから、ちゃんと聞いておいてね。ただ、それでも、やっぱり難しくてわかりにくいかもしれないの。そんな時は無理にわからなくてもいいけど、でも、どうしても一つだけ約束してほしいことがあります。それは、葉月ちゃんを可愛がってあげてほしいってこと。葉月ちゃんはみんなより体は大きいけど、でも、特別年少クラスのお友達なのよ。三人の中じゃ、これまでは年少クラスの雅美ちゃんが一番下でみんなの妹だったけど、これからは、葉月ちゃんが一番下で新しい妹になるのよ。雅美ちゃんもちょっぴりお姉さんになるんだから、葉月ちゃんのこと、可愛がってあげてほしいの。約束できるかな?」
 紗江子が話し終えると、三人は少し不思議そうな顔をしながらも、揃って大きく頷いた。
 特に、年少クラスの中でも体が小さく同じ組の園児からも妹扱いされている雅美は瞳をきらきら輝かせて
「雅美、お姉さん? うん、葉月ちゃんのこと、可愛がってあげる。雅美、お姉さんだから、妹になる葉月ちゃんのこと、うんと可愛がってあげる」
と、殊更大きく頷いていた。
 三人の様子に紗江子は満足そうに頷き、おもむろに踵を返すと美鈴の側に歩み寄って
「今日はいろいろと葉月ちゃんの面倒をみてくれてありがとう、美鈴ちゃん。葉月ちゃんのお世話係、美鈴ちゃんにお願いして本当によかったわ。雅美ちゃんたちにも話したけど、これからも葉月ちゃんのことお願いね」
と労った。
「ありがとうございます。園長先生に褒められたってママに言ったら、ママ、とっても喜んでくれると思います。私の方こそ、葉月ちゃんのお世話係をさせてもらってありがとうございました」
 美鈴は大人びた口調で応じたが、その直後、もじもじした様子で続けて言った。
「……あの、園長先生にお願いがあるんですけど、聞いてもらえますか?」
「あら、どんなことかしら。今日のお礼も兼ねて、私にできることなら聞いてあげるわよ」
 紗江子は僅かに首をかしげて言った。
「……あの、私、夏休みの特別保育に入ってないんだけど、どうしても、愛子ちゃんや優子ちゃんと一緒に特別保育に混ざりたくなって、えと、その、私、一人っ子なんだけど、ずっと妹が欲しくて、でも、パパがいないから妹ができなくて、でも、どうしても欲しくて、それで、葉月ちゃんのお世話をしてたら、体は私より大きいけど、でも、お母さんに甘える葉月ちゃんがとっても可愛くて、葉月ちゃんのこと妹みたいに思っちゃって、それでずっと葉月ちゃんと一緒にいたくて、それで愛子ちゃんや優子ちゃんが羨ましくて、だから……」
 日頃は年長クラスの中でもしっかり者の美鈴が照れくさそうに言葉を探し探し言う様子が、紗江子にはとてもいとおしく思えた。
「いいわよ、美鈴ちゃんを特別保育に参加させてもらえるよう、お母さんにお願いしてあげる。お母さんもきっとわかってくれるわよ、美鈴ちゃんの気持ち」
 言葉を探す美鈴の肩にそっと手を置いて、紗江子は優しく言った。
 途端に美鈴がぱっと顔を輝かせる。
「大丈夫よ、きっと」
 もういちどきっぱり、紗江子は言った。




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