偽りの幼稚園児





               【四三】

 美里は、美鈴がひばり幼稚園に入ってすぐに夫と離婚していた。
 もともと美里は輸入業を営む資産家の親のもとに生まれ、家業を継がせるべく親が婿養子として迎え入れることを決めた男性と結婚して美鈴が生まれたのだが、妊娠期間中に夫が不倫に走り離婚を決意したものの、家業の継承や財産の分与といった様々な問題が絡み合う調停や裁判のせいで思わぬ時間がかかり、ようやく離婚に至ったのが、美鈴が幼稚園に入園する時期に重なってしまったのだった。離婚に伴ういざこざから美里は極度の男性不信に陥り、二度と結婚などすまいと決心して、家業を自分が継ぐ覚悟を固めた。これまで家業には携わってこなかった美里だが、離婚に端を発したいざこざを乗り切って精神的に逞しくなったことに加え、生まれながらに才覚を持ち合わせていたのか、美里が手がけるようになってから家業は一段と発展し、まずはめでたしとなったのだが、そうなると今度は輸入業という事情もあって寸暇を惜しんで世界中の取引先との交渉に時間を割かざるを得なくなり、美鈴に構ってやれる時間をつくるのが難しくなってしまっていた。そんな美里を(自分の理念に従って)あれこれと支え、親身になって相談に応じ、美鈴をきちんと育てる手助けをしたのが紗江子だった。そうしているうちに家業も少しずつ他の者にまかせられるる部分も増えてきて、これまであまり美鈴に構ってやれなかった埋め合わせをするかのように、なり手のないPTA役員にも自ら進んで立候補し、美鈴が年長クラスに上がった今年度は喜んでPTA会長を引き受けていた。
 そのような経緯があって美里は紗江子に対して絶大な信頼を寄せるようになり、プロジェクトの件でもPTAを率先してまとめあげ、他の保護者に対する根回しも進んで行う等、今や美里は紗江子にとって、なくてはならない協力者になっていた。
 そんな仲だから、美鈴の願いを紗江子が伝えたとしたら、それを美里が拒むわけがなかった。
 更に紗江子は、美鈴の胸の内も見透かしていた。
 紗江子や他の教諭たちの助けがあったとしても、忙しい母親に構ってもらえる時間も限られていて、美鈴は随分と寂しい思いをしてきた。今となっては書店の椅子に座ってゆっくり本を読んでもらったり、なにかと美里に甘えることもできるが、寂しかった頃の記憶が消えることはない。そんな美鈴だから、母親の姿を求め、泣きそうになりながら母親にすがりつく葉月の姿に年少クラスの頃の自分の記憶を重ね合わせ、子供心に、葉月のことがとても不憫に感じられていた。その感情が葉月のことを妹のようにいとおしく感じさせるのは、ごく自然な成り行きだ。そういった美鈴の胸の内を見透かしてのこともあって、紗江子は美鈴の願いを聞き入れてやろうとしているのだった。

               *

 ステージ上の椅子に美鈴と並んで座る葉月を、二人の後ろに立つ皐月と薫が見守って、式は淡々と進行していった。
 そうして最後の、教諭と園児による園歌の斉唱。
 伴奏を担当する教諭がピアノをボロンと鳴らすと、客席の教諭と園児、ステージ上の美鈴が一斉に椅子から立った。
「さ、葉月ちゃんも立つのよ。葉月ちゃんはまだ園歌を習ってないから今日はみんなが歌うのを聴いていればいいけど、座ってちゃ駄目よ」
 美鈴は、どうすればいいのかわからず椅子に座ったままの葉月の手を引いてその場に立たせ、いかにも年長者然とした口調で言った。
 葉月が立つのを待って、ピアノの伴奏が始まる。

 異変が起きたのは、前奏が終わり斉唱が始まってまもなくの頃だった。
 おどおどした様子で園歌を聴いていた葉月が、あっと小さな声を漏らし、下半身をぶるっと震わせたのだ。
 葉月の様子をすぐ後ろで見守っていて異変を察した皐月と薫が無言で目配せを交わし、皐月はステージの袖口に姿を消した。
 皐月がいなくなると同時に、薫は葉月が座っていた椅子をステージの脇に移動させ、葉月のすぐ側に寄り添い立って
「もう少しだけ我慢するのよ。パパがちゃんとしてくれるから大丈夫よ」
と耳打ちをした。
 そうしている間に園児たちも異変に気づいたようで、途中で歌うのをやめ、葉月と薫の方を見ながら互いにひそひそと囁き交わし始めた。
 と、不意に葉月が薫にしがみつき、弱々しくかぶりを振った。
 次の瞬間、薫のスーツのポケットからピピピという電子音が鳴り響いて、ピアノを弾いている教諭が伴奏を中断する。
 薫がポケットからスマホを取り出し画面をタップして電子音を止めると、大集会室が静寂に包まれた。
 そこへ、自宅マンションにあるのと同じ白鳥型のオマルを抱えた皐月が戻ってきて、抱えてきたオマルを葉月の両足の間に置いた。
 その直後、葉月のオーバーパンツのクロッチ部分に薄い滲みがじわっと広がり、両脚の間から雫が一つ二つと滴り落ち、雫がオマルの底に当たって飛沫になって飛び散る、ぴちゃんという音が静寂を破る。
 オーバーパンツやショーツを脱がせている暇はない。
 皐月は葉月の肩を押さえるようにして、パンツを穿いたまま半ば強引にオマルに跨がらせた。
 滴り落ちる雫が次第に増え、ぴちゃんぴちゃんいっていた音が、いつしか、たぱぱぱという連続した音に変わる。
「ぇ……ぇえん……ふぇ、ふぇえん」
 教職員や来賓や園児たちの視線を一身に集め、やむことなく溢れ出るおしっこで布おむつとショーツとオーバーパンツを濡らし、おむつでもショーツでも這い取れなかったおしっこを両脚の間からオマルに滴らせる葉月の目から涙がこぼれ、唇を震わせて泣き声が漏れる。
 支え棒を握ってオマルに跨がる葉月の傍らに美鈴が歩み寄って、涙に濡れる葉月の顔を自分の胸に押し当てさせて、優しく頭を撫でた。
 薄い胸板を通して美鈴の鼓動が葉月の頬に伝わる。
 体温が高い幼児特有のあたたかな手で頭を撫でられる感触がなぜだか心地いい。
 葉月は支え棒から手を離し、オマルに跨がったまま美鈴の胸にすがりついた。
「恥ずかしくないよ。葉月ちゃんは幼稚園に入ったばかりの特別年少さんだから、おもらししちゃっても、ちっとも恥ずかしくないよ。それに、ほら、ちゃんとオマルに跨がっておしっこできてるんだもん、おもらしなんかじゃないよ。まだ小っちゃいのにオマルでおしっこできて、葉月ちゃんはお利口さんだね。お利口さんだけど、みんなに見られておしっこするのが恥ずかしいのかな。だったら、おしっこが終わるまで、お姉ちゃんがこうしていてあげる。お姉ちゃんの胸で顔を隠してあげる。これなら恥ずかしくないよね? だから、おしっこ出しちゃおうね」
 制服が涙で濡れるのも構わず、美鈴は自分の胸元を葉月の顔に押し当てたまま、何度も何度も葉月の頭を撫でた。
「美鈴ちゃん……美鈴お、お姉ちゃん、葉月、葉月……う、ぅえーん」
 気がつけば葉月は自分よりもずっと年下の美鈴のことを『お姉ちゃん』と呼んで甘えるように頬を薄い胸板に押しつけ、声をあげて泣きじゃくっていた。

 皐月と薫が葉月におむつではなくショーツを許したのは、こうなることを見越してのことだった。
 身長が一メートル六十センチほどある葉月が特製の制服に身を包み、特別年少クラスの女児として幼稚園に入園しても、他の園児たちが不思議に思い、警戒するのは当たり前のことだ。事情を知る教諭や保護者からそれらしい言葉で説明され上辺ではわかったようなふりをしても、心の底では納得できずにいても仕方ない。けれど、園児たちの目の前で葉月がおもらしをしてしまったとしたら、事情はまるで変わってくる。トイレに間に合わないからとせっかくオマルを用意してもらったくせに、それもちゃんと使えず、オマルに跨がってパンツを濡らしてしまい泣きじゃくる葉月の姿を間近で見たとしたら、葉月が幼い新入園児だということを園児たちもすんなり受け入れるに違いない。
 皐月と薫は、葉月を園児たちに馴染ませるために、ショーツを許したのだった。
 そしてまた、紗江子は、年長クラスの中でも一番しっかりしていて面倒みがよく、妹をほしがってたまらない美鈴を入園式での葉月の世話係に指名することで、葉月を、体は大きくても自分では何もできない特別年少さんの女の子に仕立てるつもりだった。
 三人の目論見通り、いつしか葉月は園児たちにとって、おしっこを教えることもできず泣きじゃくりながらパンツを濡らしてしまう、自分たちが面倒をみてやらなければ何もできない、手のかかる女の子になりさがっていた。

 この後、葉月の粗相のせいで特別入園式は園歌斉唱の途中で閉式してしまったのだが、園の関係者に葉月を披露し、園児たちに葉月を受け入れさせるという目的は充分に達成されたと言っていいだろう。

               *

 大集会室の後片付けは他の教諭たちにまかせ、皐月と薫は葉月を、普段は使っていない八畳ほどの部屋に連れて入った。
 部屋の扉には『とくべつねんしょうクラス ひよこ組』と記したプレートが掛かっている。
 本来、ひばり幼稚園には年長、年中そして年少の三クラスしかない。そこに葉月を迎え入れるために特別に設けたのが特別年少クラスのひよこ組で、ひよこ組の教室としてあてがわれたのが、普段は使っていないこの部屋だった。もっとも、ひよこ組の教室というのは建前にすぎず、園の本来の業務から離れて葉月の保護者としての役割に専念することになった皐月と薫が葉月の世話をするために幼稚園内にしつらえた、もうひとつの『はづきのおへや』というのが実際のところだ。現に、その部屋は明るい色合いの壁紙を貼って、(鈴本服飾商店を通して取り寄せた)子供向けの家具を据え、葉月の世話に必要なこまごました物まで取り揃えた育児室に改装してあった。

「やっぱり葉月にはパンツはまだ早かったみたいね。さ、おむつをあててあげるから、ここにごろんしてちょうだい」
 部屋に備え付けの箪笥から取り出したおねしょシーツを床に敷き、予め何組か用意して大振りの衣装籠に入れておいたおむつとおむつカバーをおねしょシーツの上に敷き重ねて、薫が葉月に言った。
「で、でも……」
 葉月は力なくかぶりを振って後ずさる。
「ふぅん、おむつはいやなんだ。じゃ、仕方ないわね」
 薫はわざと大げさに肩をすくめてみせ、素っ気なく続けて言った。
「いいわ。だったら、そのままでいなさい。そのまま、パンツも穿かず、おむつもあてないままでいればいいわ。そうね、、小っちゃい子は窮屈なのを嫌がって裸ん坊でいるのが大好きだから、そうすればいいわ」
「い、いや!。葉月、裸ん坊はいやなの!」
 葉月は今度は激しくかぶりを振った。
 おもらしでショーツもオーバーパンツもショーツの内側のおむつもびしょびしょに濡らしてしまった葉月は、他の園児たちが大集会室から出て行った後、オーバーパンツから滴るおしっこで床や廊下を濡らしてしまわないようにと下着を脱がされ、下半身を裸に剥かれて今いる部屋まで連れて来られていた。薫の言う通り今からずっと下半身が裸のままでいて、タックで目立たなくしているペニスを何かの拍子で園児に見られでもしたら。
「だったら、おむつの上にお尻を載せてごろんできるわよね」
 声こそ優しいが、有無を言わさぬ口調で薫は言った。
「でも、おむつは……」
 葉月は身をすくめて首をうなだれるばかりだ。
 と、そんな葉月の手を薫が引っ張って部屋から連れ出し、廊下に追いやった。
「いつまでもぐずぐずしてばかりじゃどうにもならないでしょ? いいわ、そのままお友達と遊んでらっしゃい。美鈴お姉ちゃんも雅美お姉ちゃんも葉月のこと可愛がってくれるわよ。だから、ほら」
 葉月を廊下に一人残し、薫は内側から扉を閉めて鍵をかけてしまう。




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