偽りの幼稚園児





               【四四】

 一瞬は何が起きたのかわからず呆然としていた葉月だが、すぐに我に返り、躊躇いがちに扉を叩き、薫の名を呼んだ。
 けれど中から返事がないとわかると、
「開けて、ここを開けてよ、ママ。葉月もお部屋に入れて。ママと一緒がいいの。ひとりぼっちなんていやなんだから!」
と金切り声をあげ、力まかせに扉を叩いた。
 それでもまるで反応はない。
「開けてよ、ママ。お願いだから開けてってば、ママ……」
 最後の方は涙声で葉月は繰り返した。
「ごめんなさい、ママ。もう我儘言わない。いい子にする。だから開けてよ、ママったら……」
 もういつ泣き出してもおかしくない様子で葉月は何度も懇願する。
 そこへ
「どうしたの、葉月ちゃん、こんな所で」
という少女の声が聞こえた。
 実はついさっきから人が近づいてくる気配があり、賑やかな話し声が聞こえてきていたのだが、扉を開けてくれるよう薫に訴えかけることで精一杯の葉月はそのことに気がついていなかったのだ。
 突然の少女の声に驚いて振り向いた葉月の目に映ったのは特別入園式に出席していた四人の園児の顔で、声の主は先頭に立って近づいてくる美鈴だった。
 ただ、入園式の時のちょっぴり澄ました感じの制服姿ではなく、四人とも、セーラースーツからスモックに着替えていた。スモックに組み合わせているのは、信也は制服のハーフパンツをそのまま、美鈴はスパッツ、愛子はホットパンツ、雅美は可愛らしいオーバーパンツといったふうに各々違ってはいるものの、誰も動きやすそうな格好をしている。

 美鈴の顔を目にするなり、みるみるうちに葉月の瞳が潤んでくる。
「美鈴ちゃん……美鈴お姉ちゃん、葉月、葉月……」
 オマルに跨がっていた時は先ず美鈴が葉月を抱き寄せたが、今度は、先に葉月の方から美鈴にすがりついて泣き声をあげてしまう。
 一メートル十センチほどしかない美鈴の胸元に一メートル六十センチくらいの葉月が膝立ちになって顔を押し当てて泣きじゃくる様子は、微笑ましくもあるが、どこか倒錯的で淫靡で艶めかしい雰囲気を漂わせているのも事実だった。
「よしよし、いい子だからもう泣かないの。いったい、どうしたの? ほら、泣いてばかりじゃわからないでしょ? 何があったのか、お姉ちゃんに話してごらん」
 自分よりもずっと体の大きい葉月の背中を撫でさすりながら、自分の方が年長者だと信じて疑わない口ぶりで美鈴は言った。
「おむつ……葉月、おむつ恥ずかしいの。おむつしなきゃ駄目って、ママが言って。でも、葉月おむつ恥ずかしいからいやいやして、葉月、部屋に入れてもらえなくて、それで、それで……」
 葉月は涙をぼろぼろ流しながらたどたどしい口調で訴えかけた。
「わかった。じゃ、お姉ちゃんが田坂先生、あ、いけない、田坂先生じゃないんだっけ、葉月ちゃんママに、葉月ちゃんをお部屋に入れてくれるようお願いしてあげる。だから、大丈夫よ」
 葉月の背中を撫でていたのを、今度は頭を優しく撫でながら美鈴は言った。
 だが、自分よりも体の大きな葉月にすがりつかれて、扉をノックしようにも手が届かない。
 それを助けたのは、美鈴たちに付き添ってやって来た教諭・渡辺奈緒だった。
 今日は葉月の特別入園式があるから、よほど都合がわるくてどうしても出席できない者を除いてほぼ全ての教職員が出勤しているが、夏休みの間は特別保育の園児しか登園しないため、教職員は交代で休みを取ったり研修に参加したりしている。そういった事情のため特別保育の園児は、週ごとに担当を決めて一人ないし二人の教諭で(クラスや組にかかわりなく)まとめて面倒をみることになっている。その今週の担当が、皐月の二年後輩にあたる奈緒だ。
「じゃ、先生が声をかけてみるから、その間、美鈴ちゃんは葉月ちゃんをあやしてあげてちょうだい」
 奈緒は美鈴にそう言い、扉を軽くノックして薫たちに声をかけた。
「渡辺です。聞こえますか、御崎先生と田坂先生――あ、いえ、葉月ちゃんパパと葉月ちゃんママ。みんながどうしても葉月ちゃんと遊びたいというものだから連れて来たんですけど、よろしければ扉を開けていただけないでしょうか」

 しばらく待って、扉が半分ほど開いた。
「あ、あの、は、葉月ちゃんママ。お部屋に入れてもらえなくて、葉月ちゃん、泣いちゃってるの。このままだと葉月ちゃん可哀想だから、お部屋に入れてあげてほしいの。葉月ちゃんが我儘言ったんだったら私が代わりにごめんなさいする。だから、お部屋に入れてあげてほしいの」
 薫を目の前にして緊張しつつも、物怖じする様子を感じさせずに美鈴は言った。
「葉月を庇ってくれるなんて、美鈴ちゃんは本当に優しいのね。でも、優しいだけじゃ本当のお姉ちゃんにはなれないのよ。美鈴ちゃんが葉月の代わりにごめんなさいしちゃったら、葉月は自分がいけないことをしたんだってわからないでしょ? いけないことをした時は自分がきちんとごめんなさいしなきゃいけないの。そういう大事な事を小っちゃい子に教えてあげないといけないのよ、本当のお姉ちゃんは」
 葉月の体を抱き寄せる美鈴の様子を微笑ましく見守りながら、薫は教え諭すように言った。
「あ、そうか。そうだね、うん、わかった」
 薫の教えをすぐに理解した美鈴は、葉月の背中をぽんぽんと優しく叩き、どことなく薫の口調を真似るように言う。
「やっぱり、いけないことをした葉月ちゃんが一番にごめんなさいしなきゃ駄目なんだよ。葉月ちゃんがママにごめんなさいして、それでも駄目だったら、お姉ちゃんも一緒にごめんなさいしてあげる。だから、ママにごめんなさいしちゃおうね」
「で、でも……」
 葉月は美鈴の胸板に顔を押し当てたまま唇を噛んだ。
「ちゃんとしなきゃ駄目でしょ、葉月ちゃん! いけないことをしたらごめんなさいしなきや駄目なの! そんなこともできないんじゃ、いつまでも特別年少さんのままだよ。いつまでも年少さんのお姉ちゃんになれないんだよ。それでもいいの!?」
 いつまでもぐずる葉月を美鈴が叱責した。しかし、ただ厳しいだけではなく言葉の端々に優しさが感じ取れるのは、教諭たちが園児のことを思って叱ったり、自分が母親から叱られたりした時のことを思い浮かべてのことだろうか。
「あ、……ご、ごめんなさい」
 思ってもみなかった美鈴の厳しい様子に、葉月はびくっと体を震わせて許しを乞うてしまう。
「ごめんなさいは、お姉ちゃんにじゃないでしょ? きちんとママにごめんなさいするのよ」
 美鈴は、葉月の体を薫の方に向き直させて、厳しい口調のまま言った。
「……ご、ごめんなさい、ママ。葉月、いい子にする。いい子にするから、お部屋に入れて。お願い、ママ」
 葉月は膝立ちのまま、薫の顔を上目遣いに見上げて懇願した。
「じゃ、もう、おむつを嫌がらないわね? パンツを汚しちゃったくせにおむつはいやだって我儘はもう言わないのね? 約束できるなら許してあげる」
 薫は、美鈴に調子を合わせてわざときつく言った。
「で、でも、おむつは……」
 やはり葉月は言い淀んでしまう。
「どうしてきちんとお返事できないの!? パンツを汚しちゃったんだから、おむつをしなきゃいけないのよ、葉月ちゃんは。お姉ちゃんみたいに年長さんでおむつしなきゃいけないんだったら恥ずかしいけど、特別年少さんの葉月ちゃんだったらおむつしてても恥ずかしくないでしょ? だから、きちんとママにお返事しなさい」
 口調は厳しいのに、美鈴は、目つきも口元も穏やかだった。
「……ご、ごめんなさい、ママ。も、もう、おむつはいやだなんて言わない。いい子にするから、ママの側にいさせて」
 自分よりも一回りも年下の幼女からの叱責をなぜとはなしに心地よく感じる自分に戸惑いを覚えつつも、甘えた口調で葉月は訴えかけてしまう。
「いいわよ。葉月がいい子にするなら許してあげる」
 薫は満足そうに頷いてから、美鈴の顔に視線を転じ、続けて言った。
「じゃ、せっかくだから、葉月におむつをあててあげるところをみんなに見てもらおうかしら。そうすれば葉月も寂しくないし、これから何かあった時みんなに手伝ってもらえるかもしれないものね」
「そ、そんな……」
「やった〜。私、妹もいないし、近所にも小っちゃい子がいないから、赤ちゃんがおむつを取り替えてもらうの見たことがないの。どんなふうにするのか見てみたかったんだ」
 美鈴は薫の提案を聞くなり顔を輝かせ、葉月の言葉を途中で遮り、いかにも嬉しそうに声をあげた。
 ただ、他の女の子たちも口々に嬉しそうに返事をする中、伸也だけは少し困った顔をして押し黙っている。
 そんな伸也の様子を目にして、美鈴が不思議そうに尋ねる。
「どうしたの? 伸也君は、葉月ちゃんがおむつをあててもらうの、見たくないの?」
「だって……」
 伸也はちょっと考えてから口を開き、うっすらと顔を赤らめて言った。
「だって、おむつをあてられるの、男の子に見られるのは恥ずかしいでしょ? 葉月ちゃんは女の子だから」
「やだ、伸也君、やっさしいんだ。いつも、そんなだったっけ?」
 顔を赤くして答える伸也に、愛子が悪戯っぽい口調で声をかける。
「ほらほら、そんなにひやかさないの。入園式の途中でパンツを汚しちゃうような手のかかる特別年少さんでも、葉月ちゃんは女の子。小っちゃなレディに伸也君は気を遣ってあげてるんだから、からかっちゃ駄目よ」
 ますます困ったような顔になる伸也を慮って、奈緒は愛子をたしなめる。
 奈緒にしてみれば他意はなかったのかもしれないが、その言葉は葉月には屈辱だった。今の葉月が、幼稚園の年中さんの男の子からさえ気遣ってもらわなければならない幼い女の子でしかないということをありありと意味しているのだから。

               *

 伸也だけ廊下に残して他の者はみんな部屋に入ることになったのだが、ひとり残った伸也が寂しがらないようにという配慮から、扉は大きく開け放たれていた。
「女の子どうしでも、おむつをあてられるところをじっと見られたら葉月も恥ずかしいから、あまりこっちを見ないで、手を握ってあげたり、声をかけてあげたりして、優しくあやしてあげてね」
 薫は園児たちにそう言ってから、お尻をおむつの上に載せさせておねしょシーツに横たわらせた葉月のセーラースーツの裾をおへその上まで捲り上げた。
「へーえ、綺麗なものね、田坂先生――葉月ちゃんママがしてあげたの?」
 あらわになった葉月の股間をしげしげと眺めて、奈緒が感嘆しきりに言う。
「ええ、笹野先生のところで丁寧に教えていただいたおかげです」
 自分が葉月に施したペニスタックの仕上がりを褒められた薫は僅かに顔を上気させて微笑みつつも、園児たちの様子をちらちら見ながら、気遣わしげな口調で奈緒に言った。
「子供たちがなるべく葉月の下半身に目を向けないように注意しておいてくださいね、渡辺先生。ちょっと見たくらいなら気づかないと思うけど、じっくり見られたら、ひょっとするかもしれませんから」
「わかっているわよ。いずれは子供たちにも伝えることになるかもしれないけど、当面は、葉月ちゃんが本当は男の子だってことを子供たちに知られるのはまずいものね。私たちはいいけど、まだ判断能力に乏しい子供たちがそんなことを知ったら、『性』というものに対して歪んだ知識や感情を持ってしまうでしょうから」
 奈緒は声をひそめて応じた。




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