偽りの幼稚園児





               【四六】

「ぼ、僕、『ろりこん』なんかじゃないよ。それに、えっちじゃないもん」
 囃し立てられた伸也の方も、愛子が口にした言葉の意味がちゃんとはわからないのだろう、なんとなく自信なさげに反論する。
 そこへ雅美が
「美鈴お姉ちゃん、『ろりこん』てどういう意味?」
と、こちらは初めて耳にした言葉の意味を、葉月から脱がせたセーラースーツをポールハンガーに掛けるために立ち上がろうとする美鈴のスモックの裾を引っ張って雅美が真剣な顔で尋ねる。
「変な言葉を口にしちゃ駄目よ、みんな。もう、ほんとに困った子たちなんだから」
 伸也よりも小っちゃいどころか、本当は一回り以上も年上の、それも、成人男性のキャミソール姿を目にしてロリコン呼ばわりもないもんだわと胸の中で苦笑しながら、奈緒はわざと真剣な顔になって園児たちをたしなめた。
「はぁい、ごめんなさい、先生」
 注意されて、もともと本心から伸也のことを責めているわけではなく、最近になって聞き覚えた(少し性的な意味合いを含んでいそうで、それを口にすると大人たちが慌てることが多い)言葉を口にしてまわりの大人の反応を楽しむだけのつもりだった愛子は、ちろっと舌を突き出しながら屈託なく応じた。
 が、当の葉月は、自分に向けられた伸也の視線を痛いほどに感じ、訳もなく頬を赤らめてどぎまぎしてしまうのだった。

               *

「葉月のことはママにまかせて、園長室に行ってくるよ。来賓のみなさんに挨拶しておきたいし、計画のことで相談もあるから」
 美鈴たちの手でスモックに着せ替えられた葉月の姿を見ながら、皐月が薫に言った。
「いいわ、葉月のことは渡辺先生と私にまかせておいて」
 薫が軽く頷く。
「じゃ、頼むよ」
 皐月はすっと体の向きを変えたが、薫の側から離れる寸前に
「例の件、真由美さんと相談して、細かいところまできちんと詰めておくよ」
と、声をひそめ、少し照れくさそうな様子で言ってから、部屋を出て行った。
「え、ええ、お願いね」
 こちらも照れくさそうにしながら、けれど、これ以上はないくらいとびきりの笑顔で言って、薫は皐月を見送る。

「渡辺先生、雅美、今日はここがいい。雅美、このお部屋で遊びたい」
 皐月が出て行ってすぐ、雅美が奈緒にせがんだ。
 特別保育は、成育度合いもばらばらで限られた人数の園児を対象としているため、園児は各々の教室で時間を過ごすのではなく、その時々の状況に合わせて特別保育担当の教諭が適切と判断した部屋を使うことになっている。夏休みが始まってすぐの頃は小集会室で本の読み聞かせや昔話のDVDを観て過ごすことが多かったのだが、園児たちも毎日同じことの繰り返しにはいささか飽きてきていて、目新しいことを求めてうずうずしているのが実情だ。そんなところへ葉月が入園してきて、これまで扉を閉めたまま使われていなかった部屋が特別年少クラスの教室として解放されたものだから、雅美を含め園児たが興味津々といった様子になるのは、ごく自然な成り行きだ。
「雅美ちゃんはこう言ってるけど、他のみんなはどうかな? みんながよければ、この部屋で葉月と遊んであげてほしいんだけど?」
 奈緒の代わりに薫が応じて、園児たちの顔を見渡した。
 むろん、園児たちに異存はない。
「じゃ、決まりね。玩具箱に入っているオモチャや、小物入れの中の物を自由に使っていいから、葉月と仲良く遊んであげてね」
 園児たちの反応を確かめて、薫は満足そうに頷いた。
 それに対して奈緒が気遣わしげに
「でも、いいの?」
と問い返す。
 だが薫は
「もちろん、構いませんよ。ここは私たちだけの部屋じゃなく、ひばり幼稚園の教室の一つなんですから。他の教室と同じように、今週の特別保育を担当なさっている渡辺先生さえよろしければ子供たちの好きなように使ってもらって構いません」
と、にこにこ笑って応じるだけだった。
「そう? だったら、そうさせてもらうわね。これから一週間どうやって子供たちと過ごせばいいか、正直、ちょっと考えあぐねていたところなのよ。じゃ、せっかくの親子水入らずのところをお邪魔して申し訳ないけど、お言葉に甘えて部屋を使わせてもらうわね、葉・月・ち・ゃ・ん・マ・マ」
 最後の方を奈緒は冗談めかして言って、二人はひとしきり笑い合った。

「それじゃ、ボールで遊ぼ。転がってくるボールを受け止めて、次の人のところへ転がすのよ」
 薫と奈緒のお許しが出るとすぐ美鈴は、自分も含め五人の園児をそれぞれ五角形のかたちになるよう並ばせて床に座らせ、玩具箱から取り出した布製のボールを雅美に向かって転がした。
 雅美は受け止めたボールを伸也に向けて転がし、ボールを受け止めた伸也は葉月に向けて転がす。
 おむつで丸く膨らんだお尻を床におろし、左右に開いて前方に突き出した両脚のちょうど真ん中に転がってきたボールを受け止めようとした葉月だったが、両手を差し出すタイミングが遅れて、おむつカバーに包まれた股間にボールが当たる。
 もともと体を動かすのが得意な方ではない葉月だが、幼児が転がす布製のボールを受け止められないとは自分でも思っていなかった。
 それでもすぐに気を取り直して、股間に当たっているボールを掴んで愛子の方へ転がそうとするのだが、掴むことさえままならない。布製のボールは妙に柔らかいため表面がふにゃふにゃして掴みにくいのは事実だが、年少クラスの雅美でさえきちんと受け止めたり転がしたりできているのだから、自分にできないわけがない。そう思って何度も掴もうとするのだが、どうにもままならない。
 とうとう葉月は掴むのを諦め、両手の掌でボールを包み込むようにして愛子の方へ押し出した。
 だが、両手の力の配分が上手にできていなかったのだろう、ボールは、あらぬ方向へ転がってしまう。
 それを愛子が体を傾け、腕を伸ばしてかろうじて受け止めた。
「ボール遊び、特別年少さんの葉月ちゃんには難しかったかな。でも練習すれば上手になるから大丈夫よ」
 愛子はそう言って慰めるのだが、それが却って葉月を惨めにさせる。
 ボールはそれから美鈴に戻り、雅美、伸也の順に渡って、再び葉月に向かって転がってきた。
 今度こそと葉月は両手を突き出したが、ボールは右手の甲に当たって方向を変え、手の届かぬ所へ転がって行ってしまう。
「大丈夫だよ。愛ちゃんも言ってたけど、練習すれは上手になるから」
 思わぬ所へ転がってしまったボールを伸也がさっと立ち上がって拾いに行き、優しく葉月に手渡した。
「あ、ありがとう、伸也お兄ちゃん」
 葉月には、そう言うのが精一杯だった。
「ちゃんとありがとうを言えて、葉月ちゃんはお利口さんだね」
 伸也が少し面映ゆそうに言う。
「さ、今度は上手にできるかな。真っ直ぐ転がすのよ」
 愛子に促され、両手で受け取ったボールをおずおずと床に置いた葉月は、すっと息を吸って、ボールに添えた手を前方に突き出した。
 が、手の指がボールの表面を滑り、勢いなく転がり出したボールは途中で止まってしまう。

 葉月がボールをちゃんと受け止められないのも上手に転がせないのも、知らぬ間に服用させられ続け、数日前から量が増えた選択性筋弛緩剤が原因だった。
 この筋弛緩剤には、脳から筋肉に伝えられる指令を神経端で遮断することによって筋肉の昂奮を抑制して力を出なくさせる作用がある。と同時に、筋肉の状態の変化を脳に伝える機能も抑制されるため、手や足に触れた物の感触を脳に伝えることもままならず、ひいては、指先を巧みに動かさなければならない動作をすることが難しくなってしまう。このような、筋力の弱体化と指先の細かな動作の困難化とが相まって、転がってくるボールを受け取ったり、狙った場所に向けてボールを転がすといった、少し慣れれば幼い子供にも難しくない動作が、今の葉月には極めて難易度の高い動作になってしまっているのだ。

「もういちど転がしてみようね。みんなでボール遊びをするのは葉月ちゃんが上手にできるようになってからにするから、さ、たっぷり練習しましょ」
 途中で止まってしまったボールを拾い上げ、葉月の脚の間に置いて、愛子が言った。
 愛子の言葉に、園児たちが葉月の側に寄って来る。
「じゃ、転がす練習からしてみようか。葉月ちゃん、体は大きいけど、力は弱いみたいだから、ボールがおかしな所へ行っちゃってもいいつもりで、思いきり転がしてごらん」
 愛子たちにからかわれてばかりの伸也だが、体を動かすのは得意なのか、葉月に対して真っ先にアドバイスをする。
 言われるまま葉月は両手でボールを押し出すのだが、さきほどと同じくらいの距離を転がっただけで止まってしまう。
「転がす前に、手を体の方に近づけてごらん。それから、力いっぱい手を振ってみて」
 伸也は葉月の手首を掴んで体の方に引き寄せさせた。
 そこへ、愛子が
「親切そうに言ってるけど、葉月ちゃんの手を触りたいだけじゃないの、『ろりこん』の伸也君は。あ〜あ、すぐそばに年上の『ないすばでぃ』な私がいるっていうのに、ほんと、見る目がないんだから」
と茶々を入れる。
「僕、『ろりこん』じゃないってば」
 そんなふうに和気藹々の雰囲気で、葉月のボール遊びの練習は続いた。

               *

 自分よりもずっと年下の園児たちに励まされながら練習を続ける葉月。
 発育途上の子供なら、こつをつかんだり、ちょっと慣れたりすれば上手になるものだが、薬剤によって神経伝達の機能を阻害されている葉月の場合、いくら練習しても結果につながることはない。
 それでも、たまたまなのだろうが、何十回目かの練習で、狙った方向にボールが転がった。
「よかったね、葉月ちゃん」
「上手だよ、葉月ちゃん」
「もうすぐ、みんなと遊べるね」
 園児たちが口々に言う中、自分よりも一回りも年下の園児たちに『指導』されてボールを延々と転がし続け、そんな簡単なことができない自分に心折れそうになりながらも、邪気のない園児たちに励まされるまま練習を続け、ようやく狙った方向に転がるボールに、葉月は知らず知らずのうちに安堵の表情を浮かべていた。
 が、安堵の表情が絶望の表情に変わるのに、さほど時間はかからなかった。
 葉月のセーラースーツと一緒にポールハンガーに掛けておいた薫のスーツのポケットから、ピピピという電子音が鳴り響く。
 薫はスーツのポケットをまさぐってスマホの警告音を止め、園児たちがボール遊びをする前に片付けておいたおねしょシーツを再び床に敷いた。
 唇を噛みしめ肩を震わせてうなだれつつ、葉月は薫の様子をちらちらと窺い見る。
 床に敷いたおねしょシーツの隅に新しいおむつとベビーパウダーの容器、それにお尻拭きの容器を置いてから、薫は葉月の側に歩み寄った。
「お姉ちゃんたちやお兄ちゃんに遊んでもらうのに夢中でおしっこも教えられないなんて、まだまだ赤ちゃんね、葉月は」
 腰をかがめ、すっと目を細めて薫は言った。




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