偽りの幼稚園児





               【四八】

「じゃ、こっちへ来て、私の隣に座ってちょうだい」
 授乳用ブラのカップを元に戻し、ブラウスの乱れを整えながら薫は言った。
「うん、わかった。――ここでいいの?」
 呼ばれてすぐにこちらへやって来た雅美は、薫のすぐ隣にちょこんと座った。
「いいわよ、それで。雅美ちゃん、上手に膝を揃えて座れるなんて、とってもお利口さんなのね」
 きちんと正座をする雅美の様子に、薫は相好を崩す。
「雅美、お姉さんだもん。小っちゃい子のお手本にならなきゃいけないんだもん」
 雅美は得意そうに胸を張ってみせる。
「それじゃ、そのままにしていてね。少しの間、そのまま動いちゃ駄目よ」
 薫は言って、横抱きにしている葉月の頭を雅美の腿の上に載せ、そのまま床に寝かせた。
「え……!?」
 突然の事に目をぱちくりさせる雅美。
 驚く雅美をよそに、薫は葉月の通園鞄から哺乳瓶を取り出した。特別配合のミルクを満たした哺乳瓶だ。
「葉月は体が大きいから、私のおっぱいだけじゃ足りないのよ。だから、おっぱいの後、これも飲ませてあげるの。せっかくだから、ミルク飲み人形で遊ぶのが好きな雅美ちゃんに飲ませてもらおうと思うんだけど、どうかな?」
 薫は、通園鞄から取り出した哺乳瓶を雅美の目の前に差し出した。
「飲ませてあげる! 雅美、葉月ちゃんに哺乳瓶でミルク飲ませてあげる!」
 不思議そうな表情から一転、雅美はぱっと顔を輝かせて哺乳瓶を受け取った。
「よかったわね、葉月。雅美お姉ちゃんにミルクを飲ませてもらえて」
 薫はそう言ってすっと立ち上がり、雅美が葉月にミルクを飲ませる妨げにならないようにと、二人の側から離れた。
「ほら、ミルクだよ、葉月ちゃん。お腹が空かないように、たくさん飲もうね」
 雅美は哺乳瓶を二度三度と葉月の目の前で振ってみせてから、ゴムの乳首を葉月の唇に押し当てた。
 自分よりもずっと年下の幼女の手で哺乳瓶からミルクを飲まされる屈辱に胸を押し潰されそうになりながらも、葉月はゴムの乳首を咥えてしまう。
 葉月の頬が動くたびに、哺乳瓶の中でミルクの表面に細かな泡ができる。
「上手に飲めてお利口さんだね、葉月ちゃんは」
 雅美は右手で哺乳瓶を支え持ち、左手で葉月の前髪を優しく撫でつけた。

 しばらくの間はそうしておとなしく哺乳瓶のミルクを飲んでいた葉月だが、残りのミルクが三分の一ほどになった頃、突然、哺乳瓶の乳首をぎゅっと噛みしめた。
 唇の端からミルクが溢れ出て、顎先から首筋に伝い流れ、よだれかけに吸い取られて薄い滲みになる。
「どうしたの、葉月ちゃん?」
 哺乳瓶を支え持ったまま気遣わしく雅美が尋ねるが、葉月は絶望的な表情を浮かべて、ただ弱々しくかぶりを振るだけだ。
「ひょっとしたら、お腹が痛くなっちゃったのかな」
 呟きながら心配そうにする雅美の目の前で葉月は下半身を震わせ、力なく目を閉じた。
 ボール遊びの時と同様、薫のスーツのポケットからピピピという電子音が鳴り響く。
「哺乳瓶のミルクを飲みながらおむつを濡らしちゃうなんて、葉月ちゃん、ミルク飲み人形みたい」
 何があったのか察した雅美はにこっと笑って言った。
 まるで邪気のない雅美の声に却って羞恥を煽られる。
「あ、そのまま哺乳瓶を持っていてね。雅美ちゃんにミルクを飲ませてもらいながらおむつを取り替えちゃうから」
 スマホの警告音を止めた薫は、葉月のお尻の下におねしょシーツを敷き広げながら言った。
「雅美ちゃんは哺乳瓶を持ってなきゃいけないから、今度は私がガラガラであやしてあげる」
 薫がおねしょシーツを敷き広げるのを待って、ガラガラを手にした美鈴が葉月のすぐ側に膝をついた。「私はお腹をぽんぽんしてあげる」
 美鈴の向かい側に膝をついて、愛子が明るく言う。
「じゃ、僕は、葉月ちゃんがこぼしちゃったミルクを拭いてあげる」
 伸也は葉月を挟んで雅美の向かい側に膝をつき、よだれかけの端で葉月の頬と顎を綺麗に拭ってやった。
「やだ、葉月、ミルク飲み人形なんかじゃない。ミルクを飲みながらおむつを汚しちゃう人形なんかじゃない」
 葉月は弱々しく言った。
 開いた口からミルクがこぼれ出て、せっかく綺麗に拭いてもらった頬と顎が再びうっすらと白く濡れてしまう。
「駄目だよ、ミルクを飲みながらお喋りしちゃ。お喋りは、いい子でミルクを飲んでからにしようね」
 伸也は優しく言い聞かせ、もういちどよだれかけの端で葉月の顔を拭った。
「そうよ。お喋りしながらだとミルクがこぼれちゃうし、ミルクに空気が混ざって、げっぷが出ちゃうのよ。だから、お利口さんでいい子にしようね」
 愛子は、葉月のお腹を掌で何度も優しくぽんぽんと叩いておとなしくさせる。
「ほら、聞いてごらん、可愛い音だよ。葉月ちゃんみたいな小っちゃい子は、こんな音が大好きでしょ? 大好きな音を聞いて、大好きなミルクを飲んで、大好きなママにおむつを取り替えてもらおうね」
 美鈴は、葉月の耳のすぐ横でガラガラを振った。
 園児たちの声には微塵の邪気もない。
 邪気のない四人の声にあやされ、却って羞恥がじわじわと募ってくる。
「は、葉月、ミルク飲み人形なんかじゃない。葉月、赤ちゃんなんかじゃない。葉月、葉月、幼稚園のお姉さんなんだから」
 ミルクがこぼれるのを気にする様子もなく、葉月は涙声で訴えかけた。
 けれどそれが成人男性としての羞恥の表わし方ではなく、幼稚園に入園したばかりの幼い女の子の羞じらいの表現だということに、葉月自身は気づいていなかった。
「やれやれ、こんなに優しいお姉ちゃんやお姉ちゃんにあやしてもらっているのにむずがるなんて、本当に手のかかる子だこと」
 薫はわざとらしく困ったように言い、葉月のスモックの裾をおへその上に捲り上げた。

 入園式の最中の粗相に加え、薫に授乳してもらい、雅美の手で哺乳瓶のミルクを飲ませてもらいながらおむつを汚してしまうその様子は、園児たちに葉月のことを、スモックとおむつカバー姿で年少クラスの女の子の腿に頭を載せておねしょシーツに横たわり、上級生にあやしてもらっているくせに泣きじゃくる新入園児の幼女そのものとして受け入れさせるに充分だった。
 いくら自分たちよりも体が大きくても、園児たちにとって葉月は今やすっかり、幼稚園に入ったばかりの手のかかる女の子でしかなくなっていた。それも、当分の間はおむつ離れも難しそうな、幼稚園に入るにはまだちょっぴり早い、赤ちゃんのような女の子。いつまでも年少クラスの雅美には追いつけそうにない、自分では何もできない女の子。
 誰もが、つい構ってやりたくなる、つい世話をやきたくなる、つい面倒をみてやりたくなる、ついあやしてあげたくなる、手はかかるけれどいとおしい女の子。
 いつしか葉月は、そんな無力な存在として園児たちに受け入れられていた。

               *

 昼休みの後は、園児たちが楽しみに待っていたプールの時間だ。
 本来、昼休みの後は昼寝の時間に当てられているし、限られた人数しかいない特別保育ではプールを使わないことになっているのだが、葉月が入園したら園児たちがあれこれ構いたがっておとなしく昼寝などしないだろうという紗江子の判断のもと、今日から一週間、特別にプールの使用が許可されたのだった。
 美鈴と愛子、雅美の三人が、手提げ袋に入れて各々の教室に置いておいた水着を手にして部屋に戻ってきた。
 慣れた手つきでスモックから水着に着替えた女の子たちは、三人とも揃ってフレアビキニの可愛らしい水着だ。
 三人が着替え終わってしばらくしてから、こちらは自分の教室で着替えてきた伸也が海水パンツ姿で部屋に戻ってきた。

「なぁんだ、祐也君も私たちと一緒に着替えればよかったのに。せっかく大人な私の『ないすばでぃ』を見せてあげようと思ってたのにさ」
 海パン姿で現れた伸也に、『へい、かも〜ん』のポーズを決めた愛子が言った。
「あのさ、愛ちゃん。僕たち、もう、年中さんと年長さんなんだよ。いつまでも葉月ちゃんみたいな小っちゃい子じゃないんだから、男の子と女の子が一緒に着替えられるわけないでしょ」
 照れくさそうにしながらも、愛子に向かってぴしゃりと伸也は言った。
 虚勢を張っているというわけではないものの、本心から愛子に注意しているというよりも、どことなく別の意図がありそうな様子だ。
「なに、いい子ちゃんぶってるのよ、伸也君てば。どうせ、葉月ちゃんにいいところを見せたいだけなんでしょ」
察するところを愛子がずけっと口にする。
「そ、そんなわけないだろ。ぼ、僕は、ただ、小っちゃい子のお手本にならなきゃいけないんだよって、言ってるだけなのに」
 即座に伸也が言い返す、
 けれど愛子の指摘はまんざら的外れでもないようで、伸也の顔にさっと朱が差した。
 愛子は伸也に背中を向け、葉月の側に歩み寄って声をかけた。
「いい? あんな『けだもの』で『ろりこん』の伸也君なんかに近づいちゃ駄目よ。葉月ちゃんみたいな可愛い子、どんなことをされるかわかったもんじゃないんだから」
 愛子は葉月に向かってそんなふうに言うのだが、くすくす笑いながらだから、本心でないことは明らかだ。
 一つ年上の愛子が伸也のことをからかっている様子がありありだった。
「さ、伸也君みたいな『へんたいさん』は放っといて、葉月ちゃんも着替えようよ」
 愛子に調子を合わせて、美鈴が葉月を促す。
「で、でも……」
 葉月にしてみれば、まさかプールに入ることになるなんて思ってもみなかった。
 葉月は助けを求めるようにおそるおそる薫の顔を見た。
 だが薫にとって、この状況は、紗江子や奈緒たちと前もって打合せをして仕組んだ、意図的なものだった。
 しかし薫はそんなことおくびにも出さず、
「みんながプールなのに一人だけお部屋じゃ寂しいわよね。だから、ちゃんと用意しておいてあげたわよ」
と、しれっとした顔で言い、スモックを入れてきたのと同じ手提げ袋から、厚手の生地でできた股がみの深いショーツのようなものをつかみ出した。
「さ、これが葉月の水着よ」
 薫は、厚手のショーツのようなものを両手で広げ持ち、園児たちの目の前に差し出した。
 それは、まだおむつの外れていない子供に水遊びをさせる時に穿かせる、幼児用の水遊びパンツだった。
 表面が防水性の生地でできていて、内側の股間の部分が厚手の吸水帯になっており、おしっこを外に漏らさないのと同時に、水がパンツの中に入ってこないように股ぐりが二重のギャザーになっていて、幅の広いゴムでウェスト部分をぴっちり締めつけるようになっている、一見したところではおむつカバーのようにも見える、(おむつ離れの練習をする幼児に穿かせる)トレーニングパンツによく似た水遊びパンツだ。
 葉月の体に合わせたサイズに仕立ててある幼児用の水遊びパンツだった。




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