偽りの保育園児



    第七章 〜初登園の朝〜

               【一】

 そうして、いよいよ、葉月が保育園に行く日の朝がやって来た。
「葉月ちゃんはもうおっきしてるかな。それとも、まだおねむかな」
 かちゃりという微かな音と共にドアのノブがまわり、まるで遠慮する様子もなく皐月が葉月の部屋に入って来た。
 七月終わりの太陽はもうかなり高い所まで昇っているようで、レースのカーテン越しに差し込んでくる光が眩しい。けれど、葉月が頭まですっぽり毛布の中にもぐりこんでいるのは、その眩しさに耐えかねてのことでは決してない。
「……葉月、まだ眠いの。もう少し寝かせてよ、お姉ちゃま……」
 起床時間になったのに、(そうしないと皐月からどんな折檻を受けるかしれたものではないため)保育園に通うようになったばかりの幼女の口調を真似て、まだ眠気が残っているからと言い訳をし、なかなか起きようとしない葉月。
 だが、葉月がなかなか起きようとしない本当の理由を、皐月は前もって知っていた(もっとも、本当の理由を皐月が知っているということを、葉月自身は気づいていないのだが)。

「いつまでもぐずってちゃ駄目よ、葉月ちゃん。今日から保育園なんだし、せっかく水無月のおばちゃまがバスで迎えに来てくれるんだから、もう起きなきゃ。最初の日から遅刻だなんて、お友達に笑われちゃうわよ。それに、水無月のおばちゃまに迷惑をかけることになるでしょ」
 保育園の園章が入ったジャージを着た皐月は、毛布の端に指をかけて、あやすよに言った。これまでは路線バスで通勤していたからマンションを出る時はブラウスにスカートといういでたちだったが、今日からは葉月のお伴を兼ねた添乗係として保育園の通園バスでの通勤になるため、最初からジャージ姿だ。
「……だ、だって、まだ眠いんだもん……それに、なんだか体がだるいし……」
 葉月は毛布越しのくぐもった声でそんなふうに言い訳を繰り返してから、少し間を置いて、おそるおそるといった様子で続けて言った。
「……葉月、今日、保育園お休みしたい。体がだるくて動けないから……」
 それに対して、皐月の方は、葉月がそう言い出すのを予想していたかのような平然とした口調で
「ふぅん、体がだるいんだ。お熱があるのかな、葉月ちゃん」
と言ったかと思うと、毛布の端を葉月の首のあたりまで捲り上げ、自分の手の甲を額に押し当てた。
 咄嗟のできごとにはっと体を固くする葉月。
 だが皐月はいたって落ち着き払った様子でしばらく待ってから、わざと怪訝そうな表情を浮かべて、問い質すような口調で話しかけた。
「あら、おかしいわね。お熱はないみたいよ、葉月ちゃん。本当に体がだるいの?」
 まるで胸の内を見透かされてしまいそうな皐月の視線に、身をすくめるばかりの葉月。
 弟のそんな様子をじっと窺ってから、皐月は訝しむような表情を更に深くして言った。
「お熱がないとすると、お腹が痛いのかしら。ひょっとしたら寝冷えかな。じゃ、今度はぽんぽんの具合をみてみようね」
 怪訝そうな顔つきながらも口調はわざと優しく言って、皐月は毛布を強引に剥ぎ取った。
「やだ、駄目!」
 葉月は悲鳴をあげて毛布を押さえようとするのだが、もう手遅れだ。
 夏用の毛足の短い毛布を剥ぎ取られ、子供用ベッドのマットの上に重ねた敷布団に体を丸めるようにして横たわる葉月の姿があらわになった。

「ふぅん、そういうことか。体がだるいっていうのは嘘だったのね? それに、まだ眠いっていうのも嘘なんでしょ、葉月ちゃん? 本当は、敷布団に広がった黄色い地図を見られるのが恥ずかしくて、それで嘘をついちゃったってことよね、葉月ちゃん?」
 皐月は、向こうをむいた皐月の横顔をちらと見おろしてから、おもむろに視線を動かし、葉月のお尻の下にうっすらと広がるシミに目を留めると、わざと大げさに頷いた。
 昨夜、屈辱と羞恥に満ちた入浴を終えた葉月が着せられたのは、パイル地の生地でできたパフスリーブワンピースのナイティだった。ワンピースとはいっても、裾が膝まで届くわけではなく、せいぜい、お尻の膨らみが全て隠れるか隠れないかといった丈しかなくて、その下にショートパンツを組み合わせて穿くといったタイプの、キッズ向けのナイトウェアだった。ショートパンツの下にはクロッチ部分にナプキンを装着した女児用ショーツを穿かされているから、夏の夜、下腹部はじっとり蒸れて仕方ないのに、上半身は、ワンピースの裾がふわりと丸みを帯びたシルエットになっているせいで、ちょっと体を動かすだけで空気をふくんでふわふわ揺れ、男物のパジャマとは比べようもないほど頼りない着心地のナイティだ。
 昨夜は、夕飯の後すぐ浴室に連れて行かれたものだから、皐月の手で白いおしっこと普通のおしっこを念入りに搾り取られ、頭にシャンプーハットをかぶせられた幼児さながらの姿でこれでもかというくらい丹念に体を洗われて浴室を出た時でも、まだ宵の口という時刻だった。なのに、「小っちゃな子は夜更かしをしちゃいけないのよ」と皐月に言われ、幼い女の子の部屋そのままにしつらえられた『葉月のお部屋』に連れて行かれて、花柄のシーツに包まれた敷布団を敷いた子供用のベッドに横たわらされた上、ベッドのすぐ横に置いた椅子に腰かけた皐月が読み聞かせる絵本の童話を耳にしているうちに、いつのまにかうとうとし始め、知らぬ間に眠りについてしまった葉月だった。
 いや、童話を聞いているうちにいつしか眠ってしまったというのは、厳密に言えば正しくはない。時刻もまだ早いし、明日になったら保育園に通わされることになるのだと思うといたたまれなくなり、到底心安らかに眠りにつける状態ではなかった。なのに葉月がいつの間にか深い眠りに墜ちてしまったのは、なかなか寝ようとしない葉月に皐月が与えたホットミルクのせいだった。
 ベッドの上に上半身を起こした葉月は、皐月から手渡されたカップに躊躇いがちに口をつけた途端、すーっと鼻を抜けて口中に広がる心地よい香りに思わず溜息を漏らしたものだ。それに加えて、舌の上に広がる上品な甘み。おそらく、気持ち落ち着かせる作用のあるハーブで香り付けをして、レンゲのハチミツを溶かしたのだろう、心が昂ぶって寝つけない時にはぴったりの飲み物だった。葉月は、気がつけば一口二口とミルクを飲み進め、やがてカップが空になった頃にはすっかり気分が落ち着いて、皐月が再び童話の読み聞かせを始める中、いつしか穏やかな寝息をたて始めたのだった。



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