ママは私だけの校医さん



   《2 予期せぬ出会い》


 なるべく他の患者と顔を会わさないよう、真衣は、午後の診察がない土曜日の、それも受付終了間際に鈴木医院を訪れることにしている。もちろん、三度目の通院になる今週もそうするつもりだった。
 だが、そんな予定は、まるで予想もしていない形で潰えてしまうことになるのだった。

 いよいよ今週も金曜日。週末のどこか浮き浮きした感じと、明日はまた恥ずかしい診察の日だという陰鬱さとが入り混じった、なんともいいようのない気分を抱いて学校から帰ってきた真衣は、玄関のドアに鍵を差し入れた直後、奇妙な表情を浮かべて体の動きを止めた。差し入れた鍵をまわしても手応えがないのだ。
(あれ、鍵が開いてる? ひょっとしたら、朝出かける時にかけ忘れたのかな)真衣は一瞬そう思ったが、今朝は優と一緒に玄関を出て、ちゃんと鍵をかけたのを二人で確認したことを思い出し、小さくかぶりを振った。
(まさか、泥棒?)今度はそう思って体をすくめた真衣だが、おそるおそる家の中の様子を探ろうとしてドアに耳を寄せた途端、隙間からいい匂いが漂い出てきたことに気がついて奇妙な表情を浮かべた。
「だ、誰かいるの!?」
 鼻をひくつかせてしばらく逡巡していた真衣だが、やがて意を決した顔つきになってすっと息を吸い込むと、さっとドアを引き開け、玄関の中を覗き込むようにして大声を張り上げた。内気なところのある真衣とはいえ、小さい頃から母親に代わって家事を取り仕切ってきたから、家の一大事かもしれないという時は、開き直って度胸も据わる。
 しかし、虚勢は必要なかった。
「ああ、真衣かい? おかえり」
 一瞬の間があって廊下の奥から聞こえてきたのは、どこかのほほんとした優の声だった。
「え? お、お父さんなの? どうしたのよ、随分早いじゃない」
 思いもしなかった声の主に、真衣はあからさまな安堵の表情を浮かべつつも、どこか戸惑ったような声で応じた。
「ああ、四月も後半になれば仕事も落ち着くからね。しばらくの間、金曜日は残業をさせない方針なんだよ、会社として」
 廊下の一番奥にあるダイニングルームのドアが開いて優が姿を現し、悪戯めいた笑みを浮かべて続けた。
「それに、今日は特別なんだ。大事な話があるし、真衣に会って欲しい人がいるから、仕事を午前中で切り上げてきたんだよ」
「私に合わせたい人? それに、大事な話? わざわざ会社を早退けしてまで、どういうことなの、お父さん?」
 下駄箱に革靴をしまってスリッパに履き替えた真衣は、廊下を歩きながら、要領を得ない顔で優に訊き返した。
「すぐにわかるよ。さ、こっちに来て御挨拶しなさい。真衣のためにクリームシチューまで用意して待ってくれているんだから」
 優はダイニングルームのドアを改めて大きく引き開けた。
 途端に、玄関の外でも嗅いだいい匂いが、真衣の体を包み込まんばかりに廊下へ漂い出る。

「え、鈴木先生……!?」
 大好物であるクリームシチューの匂いに誘われるようにしてダイニングルームに足を踏み入れた真衣は、胴の長い鍋を丁寧に掻き混ぜている人物の顔を目にした途端、短い驚きの声をあげたきり、言葉を失った。
「おかえりなさい、佐藤さん――ううん、真衣さん。お父様から真衣さんはクリームシチューが好きだと教えてもらったから、時間をかけて煮込んでいたのよ」
 こちらはまるで驚いた様子もなくそう言ってにこやかな笑みを浮かべたのは、見慣れた白衣ではなく、若やいだワンピースと花柄のエプロンを身に着けた美幸だった。
「びっくりしたかい? ま、家に帰ってきたら、自分の通っている高校の校医さんがいるんだから、そりゃ、驚くのも無理はないだろうな」
 優は、鳩が豆鉄砲をくらったような真衣の顔を見ておかしそうに言い、そのすぐ後、なにやら含むところのありそうな口調でこう付け加えた。
「ところで、真衣は一目で鈴木先生のことがわかったみたいだね? でも、校医の先生と顔を会わせる機会なんてあまり頻繁にあることじゃないと思うんだ。まだ高校に入ったばかりだから、せいぜい、健康診断の時くらいしかないと思うんだけど、でも、真衣はすぐにわかったんだよね。学校以外の所で何度か会ったことでもあるのかな?」
「あ……う、ううん……そんなこと……」
 優に言われて、自分が驚きのあまりまずいことを口走ってしまったことに気がついた真衣だが、まさか、おねしょの治療のために土曜日ごとに鈴木医院を訪れているとも言えず、言葉を濁すばかりだった。
 それに対して優は、わざとのほほんとした調子でこう言った。
「ま、いいさ。せっかくシチューをつくってもらったんだから、早速ご馳走になろうじゃないか。少し早い夕飯にするから、さ、着替えておいで」
「う、うん……」
 今の真衣には、曖昧に頷くのが精一杯だった。




「どう、お味は?」
「あ、あの、すごくおいしいです。……自分でつくることもあるけど、学校から帰ってきて急いでつくるもんだから煮込みの時間が足りなくて、どうしても材料どうしの味がばらばらになっちゃうんですけど、このシチュー、材料がみんな一つになって、それに、チーズとミルクがたっぷりで、あの、とにかくおいしいです」
 着替えを終えてダイニングルームに戻り、美幸がよそってくれたシチューを口にふくんだ真衣は、全てお見通しといわんばかりの優の視線を意識しないよう、わざとおおげさに頷いてみせた。
「そう、よかった。真衣さんが気に入ってくれるかどうか、それだけが心配だったのよ」
 少し冷たい感じのする白衣とは対照的なエプロン姿ながら、穏やかな口調でそう言う美幸のにこやかな笑みは、診察室で見るのとまるで同じだった。
「よかった、どうやら仲良くやれそうだね。これで一安心だ」
 テーブルの向こう側にある椅子に座って二人の様子をじっと見守っていた優が満足げに頷いた。
「じゃ、今から大事な話をするから、真衣、よく聞いてなさい。あ、でも、せっかく鈴木先生が丹精込めてつくってくれたシチューが冷めるといけないから、食べながらでいいよ」
 いつになく真剣なその口調に、それまでなるべく目を合わせないようにしていた真衣も、思わず優の顔を見てしまう。
 それと同時に、美幸が真衣の隣に腰をおろした。
「単刀直入に言うよ」
 並んで座っている二人の内でも特に真衣の顔をじっと見て優は言った。
「父さん、鈴木先生――美幸さんと結婚することにしたんだよ。そのことを真衣に話すために、美幸さんに家に来てもらったんだ」
「……!?」
 驚きのあまり真衣は手にしていたスプーンをシチュー皿の中に取り落としてしまった。クリーム色の飛沫が飛び散る。
「あ、大丈夫、真衣さん? 火傷はしてない?」
 美幸が椅子から腰を浮かし、シチューの飛沫の付いた真衣のブラウスの胸元にオシボリを押し当てた。
 真衣はのろのろと美幸の顔を振り仰ぐしかできないでいる。
「父さんとしても、たっぷり時間をかけて真衣に説明するつもりだったんだけど、でも、仕事の都合でどうしても急がなきゃいけなくなって、それで、こんな形で話すことになっちゃったんだ」
 ほんの少し間を置いてから、再び優が口を開いた。
「父さんと美幸さんがおつきあいを始めたのは、今から二年くらい前だったかな。次長になる前から販路拡大のために問屋さんと共同で営業をかけていた病院や診療所の中に鈴木医院もあってね、最初は院長先生といろいろ話していたんだけど、途中から美幸さんが窓口になって、それで、仕事の話をしているうちにどちらからともなく意気投合しちゃってさ」
 そこまで言って優は真衣の反応を確認しようとして口をつぐんだが、待つほどもなく言葉を続けた。
「美幸さんには弟さんがいて、そちらが鈴木医院を継ぐことになっているんだ。ただ、少し年が離れているから、弟さんが医大を出て研修を終えて戻ってくるまでの間、美幸さんが副院長として医院を切り盛りしていたんだよ。でも、その弟さんも昨年の春から鈴木医院に帰ってきて、美幸さん、今は、木曜日と土曜日の午前の診察だけを受け持っているんだ。それで、父さんが迷いながらも結婚を申し込んだら、もう仕事から離れても医院が困ることはないからって快く承諾してくれてね。父さんは再婚、美幸さんは初婚だけど、そんなこと気にしないって言ってくれて。ただ、急に新しい母親ができるってことになると、年頃の真衣が戸惑うだろうし、真衣が成人するまでは結婚を待っていようかってことになったんだけど……」
 もういちど優は真衣の様子を覗い、ひょいと肩をすくめて続けた。
「……ところが、先々週の月曜日、専務から直々にドイツへの出張を命じられちゃってね。うちの会社、ドイツの製薬会社と提携話を進めているんだけど、今ドイツへ行ってる担当者がどうも向こうの担当としっくりいかないみたいで、その代わりに行ってこいってことなんだよ。出発は明後日、来週の月曜日で、期間はおよそ二ヶ月ほどになるかな」
「……来週の月曜日に出発!? でも父さん、そんなことちっとも言ってくれなかったじゃない。だいいち、先々週の月曜日に専務さんから話を聞いといて、今まで黙ってるなんて……」
 驚きの連続に、真衣は今にも泣き出しそうになりながら弱々しい声を絞り出すのが精々だった。
「今まで黙っていたのは悪かった。ただ、ちょっと考えなきゃいけない事情もあったものだから」
「何よ、考えなきゃいけない事情って?」
「専務から話を聞かされた後、父さんも迷ったんだよ。会社からの命令だし、やり甲斐のある仕事だから担当したい気持ちはやまやまだけど、二ヶ月間も真衣を独りぼっちにして大丈夫なのかどうか。それで、先々週の土曜日、相談にのってもらおうと思って美幸さんのところへ行ったんだ。土曜日なら午後は休診で、ゆっくり話せるからね。で、昼前に車を駐車場に駐めたところで、医院のドアを開ける真衣の姿に気がついたんだよ。なんだか思い詰めた表情だったから声はかけなかったんだけど」
「あ……」
 真衣の口から言葉にならない言葉が洩れた。
 先々週の土曜日といえば、初めて鈴木医院を訪れた日。その時の様子を父親に見られていたのだ。しかも、診察してくれた美幸と父親とは結婚話も進めている仲。真衣がなぜ鈴木医院を訪れたのか、美幸が優に話していても不思議ではない。いや、むしろ、詳しく話していない方がおかしい。
「これまで真衣にはいろいろ苦労させたね。父さんが仕事で忙しいものだから、小さい頃から家事を一切まかせきりにしていたし、町内会の寄り合いに出てもらったこともあったっけ。それに、高校入試が近づいた時に熱を出して苦しんでいる真衣を父さん、どうにもしてあげられなかったし、本当にすまないと思っている。――中でも一番すまなく思っているのは、初めて生理を迎えた時のことなんだ。母さんのいない真衣は、どうしたらいいのか父さんにも聞けなくて、保健室の先生や仲のいい友だちのお母さんに相談して自分で処置したんだってね。後から担任の先生との保護者面談で聞いて、父さんは随分と胸をいためたんだよ」
 優は真衣の顔を正面から見た。
「だから、今度は、もう二度と同じような苦労を真衣にさせるわけにはいかないんだ。今度こそ、困っている真衣の相談相手になってちゃんとしてあげなきゃね」
 優が口にした『今度こそ』というのがおねしょのことを指しているのは明かだった。
(やっぱり、お父さんに知られてたんだ)真衣の頬に朱が差した。
「でも、さっき言った通り、仕事も放ってはおけない。今みたいな御時世、他の会社に少しでも後れを取ったが最後、どうなるかしれたものじゃないからね」
 優は、真衣のブラウスに付いたシチューの飛沫を綺麗に拭き取ってオシボリをテーブルに戻す美幸の横顔をちらと見た。
「それで、あれこれ迷ったあげく、美幸さんに無理をお願いすることにしたんだよ。正式に結婚するのはまだ先のことにしても、父さんが出張している間だけでも真衣と一緒に暮らしてやってもらえないだろうかって。それで、いろいろ相談にのってやってもらえれば助かるんだけどってね。――ま、いつかきちんと入籍して本当の家族になる前の予行演習みたいな感じになればいいなという気持ちもあったんだけど」
「もちろん、私には断る理由なんてなかったわ。いつか私の可愛い娘になってくれる真衣さんと一緒に生活できるなんて、むしろ私の方からお願いしたいくらいだもの」
 再び椅子に腰をおろし、今度はテーブルクロスを布巾で綺麗にしながら、それまで優に説明を任せていた美幸が口を開いた。
「そ、そんな……そんなこと、急に……」
「あ、そうそう。このことも忘れずに言っとかなきゃね。副院長の座は今週の月曜日、正式に弟に引き継ぎ済みなのよ。木曜日と土曜日の診察も弟にまかせることになったから、もう私は鈴木医院の業務からは完全に解放されたってわけ。もともと弟が独り立ちするまでの繋ぎみたいなものだったから、医師っていう仕事にも未練はないし、これからずっと真衣さんの面倒をみてあげられるわよ」
 どう応じていいか言葉に詰まる真衣をよそ目に、美幸はこともなげに言った。
「で、でも、だったら、明日の診察は?」
「そのことなら心配しなくていいわ。今日からこのお家で暮らすんだけど、真衣さんのカルテやデータシートのコピーはちゃんと持ってきているの。それに、簡単な検査キットもね。だから、わざわざ医院へ行かなくてもいいのよ。お家で診察できるんだからね。言ってみれば、私は今日から真衣さんのお母さんを兼ねた専属のお医者様ってわけ。――あ、でも、『お母さん』はまだ早いかな」
「き、今日から!? 困ります、そんな急な……」
 思ってもみなかった事の成り行きに、真衣は思わず金切り声をあげてしまう。
「だけど、お父様は明後日から出張なのよ。その日になって私がこのお家に来ても二人の関係がぎくしゃくしてしまうから、お父様がまだお家にいる間に馴染んでおいた方がいいと思わない? ま、診察は、カルテもデータシートも原本は医院に置いてあるから、私がお家でしなくてもいいんだけど。なんなら、弟に電話しておこうか? 明日、真衣さんがそっちに行くから丹念に診察してあげてねって」
 真衣の動揺とは対照的に、美幸の方は落ち着き払ったものだ。
「い、いえ、それは……」
 医大を出て研修を終えた後一年しか経っていないということだから、美幸の弟はまだ二十歳台だろう。三十歳台半ばの女医である美幸からおねしょの治療を受けるのも羞恥の極みなのに、まだ若い異性の医者に診察されるなんて。とはいえ、他の医院に転院しようにも、どこへ行けばいいのかまるで心当たりはない。
「だったら、いいわね」
「……」
 優しい口調ながらもそう決めつける美幸に、もう何も言い返せない。いつの間にかどこにも逃げ場のない状況に自分が置かれたことを認めざるを得ない真衣だった。



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