ママは私だけの校医さん



   《4 深夜の目覚め》


 誰かがごそごそしている気配に真衣が目を覚ました。
 反射的に窓の方に目をやったが、薄いカーテン越しに差し込んでいるのは、まばゆい日差しではなく、月の冷たい光だった。
「あ、目が覚めちゃった? 起こさないように気をつけていたんだけど、ちょっと注意が足りなかったかな」
 呟くようにそう言う声の主は美幸だった。
 真衣は手の甲で瞼をこすって、声のする方にのろのろと顔を向けた。
 と、視線が美幸の姿をとらえる前に、捲り上げられた掛布団が目に映る。いや、まだ焦点が合わずどこかぼんやりした視界に飛び込んできたのは、掛布団だけではなく、お腹の上までたくし上げられたナイティもだった。そして、ナイティの裾にかかっている美幸の白い手。
「な、何……!?」
 真衣は慌てて体を起しかけた。
 だが、
「駄目よ、おとなしくしていてちょうだい」
という美幸の声が聞こえると同時に両肩を敷布団に押しつけられてしまう。
「何をしているんですか、先生!? 私のパジャマを捲くり上げて何をするつもりなんですか!?」
 思わぬ事態に真衣は金切り声をあげて身をよじった。
 しかし、両肩を押さえつけられてしまっている姿勢では、どうすることもできない。
「何も、ひどいことをしようってわけじゃないのよ。だから暴れないでちょうだい。ただ、おむつを取り替えてあげるだけなんだから」
 ベッドサイドで腰をかがめた美幸は、怯えの色をに満ちた瞳でこちらを見上げる真衣に向かって、にこりと笑って言った。
「おむつを……!?」
 真衣は思わず鸚鵡返しに聞き返し、その直後、自分で口にした『おむつ』という言葉に頬を赤らめてしまう。
「前の診察の時に見せてもらった問診票によると、真衣さんはいつも五時半ごろに起きているんだったわよね。ちなみに、今は夜中の一時なんだけど、こういう時間に目を覚ますことはないの?」
「あ、ありません。大体いつも十一時過ぎに寝て、五時半までそのままです。夜中に目を覚ましたことなんてありません」
 美幸に言われ、自分でもその言葉を口にした真衣は、知らぬうちに、おむつに包まれた下腹部に意識を集めていた。そこには、眠りにつく直前に身に着けた新しい紙おむつのさらっとした肌触りとは異なる、じっとりと湿っぽい感触があった。それがおねしょのせいだと直感した真衣は、抵抗する気力も失って、震える声でそう応えるのが精一杯だった。
「ということは、毎日、夜中におむつを濡らしちゃっても、それに気がつかないで朝までぐっすりってわけね。――でも、よかった、一緒に寝ておいて。そうしてなかったら、おしっこの重さを量る時、とんでもないミスをしでかすところだったわ。だって、眠りについて二時間ほどしか経っていないこんな時間に出ちゃうんだったら、朝までにもう一度か二度しくじっても不思議じゃないってことよね? そうだとすると、朝になってから紙おむつの重さを量っていたんじゃ、夜尿二回分とか三回分とかの重さを量ることになっちゃうじゃない? そんなじゃ、膀胱の大きさにおよその見当をつけるにしても、信頼性のある測定なんて期待できないものね?」
 真衣がおとなしくなるを待って肩からそっと手を離した美幸だったが、ふと何かを思い出したかのような顔つきになると、自分が着ているネグリジェの胸元を前方に突き出して更に深く腰をかがめた。
「あ、そうそう。おむつを取り替えてあげる前にちょっと確認しておきたいんだけど、ここ、ネグリジェの胸のところを見てちょうだい。そう、ここよ」
 真衣の顔を真上から覗き込むような姿勢を取った美幸は、自分の胸元を人差指で指し示した。
「ここが濡れてるの、わかるかな? ちょうど、おっぱいの先のあたりなんだけど、蛍光灯をつけなくてもお月様の光だけで見えるよね? だって、今夜は満月だし、ネグリジェはこんなにびしょびしょに濡れちゃってるんだもの」
 思いがけない美幸の言行に真衣は要領を得ない表情を浮かべながらも、美幸が指し示すあたりに目を向けた。
 眠る時はブラを着けないのが癖になっているのだろう、薄手のネグリジェの生地を通して、形のいい乳房のみならず、ぴんと勃った乳首が透けて見える。一瞬、上向き加減の乳首に目が釘付けになりそうだったが、こちらの様子をしげしげ眺めている美幸の視線に気づいた真衣は、慌てて顔をそむけた。
「どう? 何か心当たりはない?」
 慌ててそっぽを向いてしまった真衣の視線の先に尚もネグリジェの胸元を突き出して、美幸は念を押すように言った。
「……知りません……」
 心当たりがまるでないわけではない。けれど、正直に答えるのも躊躇われ、ついつい口ごもってしまう真衣。
「そう、知らないの。なら、仕方ないわね」
 美幸は含むところのありそうな口調でそう言うと、ベッドの枕元に置いていた携帯電話を掴み上げた。
「真衣さんを寝かしつけて私もすっかり寝入った後のことなんだけど、急に真衣さんの体がもぞもぞ動き出して、それで目が覚めたのよ。で、そのまま様子を見ていると、真衣さんたら、私が腕枕をしてあげている姿勢そのまま、すっと顔を近づけてきてね。その後、ちょっとびっくりするようなことを始めたわけ。そのことを目が覚めた後も憶えてるかどうか確認しようと思って、一応、ケータイの動画機能で撮影しておいたの。ほら、これがそうよ」
 美幸は携帯電話の画面を真衣の方に向けて、動画再生のボタンを押した。
 待つほどもなく、美幸と真衣の姿が画面に映し出される。左腕で真衣に腕枕をしたまま右手だけで携帯電話を支え持って撮影したのだろう、時おり画面が揺れるが、二人の姿は鮮明にとらえられていた。
 画面の中で、美幸の腕に頭を載せ、それまで上向きに寝ていた真衣が、ゆっくりと体をよじり、美幸の横顔を覗うような姿勢になったかと思うと、そのままじわじわと体を寄せ、遂には、顔を美幸の胸元に埋めてしまった。しかし、そのままじっとしているわけではない。画面がアップになると、美幸の胸元に顔を埋めた真衣が何かを探るように少しずつ顔の位置を変えているのがわかる。そして、ようやく目的の物を探り当てたのか、意識があるわけでもないのにふっと微笑んだかと思うと、ネグリジェ越しに、美幸の乳首を口にふくみ、あろうことか、そのまま、ちゅうゅうと吸い始めたのだ。

「もういちど訊くわね。真衣さん、私のネグリジェの胸元が濡れている理由に心当たりはない?」
「……」
 改めて問い質されても、真衣には、どう答えていいかわからない。
「それと、もうひとつ確認しておきたいことがあるの。大事なことだから、よく思い出してちょうだい」
 動画の再生を止めた携帯電話を手にしたまま、美幸は真剣な面持ちで言った。
「夜尿が始まってから今まで、目が覚めた時にお布団やシーツが濡れていることはなかった? ううん、おしっこで濡れちゃってるのは別にしてよ。お尻の方じゃなくて、顔のあるあたりが濡れていることがなかったかどうか、それを知りたいの」
「あ、あの、お、おねしょが始まった頃のことはよく憶えていません。でも、最近のことなら……」
 真衣は、画面に映し出された自分の痴態に頭の中が真っ白になりそうだったが、美幸の真剣な表情に促され、顔を羞じらいの色でいっぱいにしながら弱々しく応じた。
「……あります。ううん、ありますっていうより、毎日、そんなです。朝になって目を覚ますと、毎日決まって掛布団のシーツや枕が濡れているんです。それで、鏡を見たら、唇の端に涎の跡があって……わ、私、おねしょでお布団を汚すだけじゃなくて、涎を垂らして枕まで汚すようなだらしない子になっちゃったんです。ほんと、どうしようもないほどだらしのない子に……」
 恥ずかしい告白だった。相手が医師である美幸でなかったら、真衣は本当のことを口にしていないだろう。
「違うわよ。だらしがないから眠っている間に涎を垂らしてお布団を汚しちゃうんだって思っているのなら、それは違うわよ、真衣さん」
 美幸は軽く首を振って、いたわるように言った。
「え……?」
「さっきの動画を見てわかったんじゃないの? 真衣さんが毎晩お布団や枕を濡らしちゃうのは、ただ単に涎が垂れるからってだけじゃないのよ。真衣さんはね、毎晩、枕カバーや掛布団のシーツに唇を押し付けて、ちゅうちゅう吸っているのよ。だから、濡れちゃうの。今夜は私が添い寝をしているから私のおっぱいを吸ったんだけど、これまでは独りぽっちで寝ていて相手がいないから、シーツや枕カバーしか吸う物がなかったのね」
 美幸は真衣の髪をそっと撫でつけると、携帯電話の画面を再び真衣の方に向け、
「一緒に寝て、真衣さんがどうしてそんな行動を取るようになったのか、およその見当がついたわ。さっき途中で止めた動画の続きを見てごらんなさい。そこにヒントが隠されているから」
と囁きかけてから、改めて動画再生のボタンを押した。
 輝きを取り戻した画面の中、しばらく美幸の乳首を吸い続けていた真衣の表情が不意に変化した。一心不乱にネグリジェ越しに乳首を口にふくんでいた真衣だが、それまで閉じていた瞼が急に開いたかと思うと、そのすぐ後、とろんとした目つきになって再び両目を閉じると同時に、なんとも表現しようのない笑みを浮かべたのだ。そうして、力まかせに美幸の乳首を吸っていた唇の動きが幾らか遅くなり、それこそ幼い子供が母親に甘える時さながら、美幸の胸元に自分の額をそっと押し当てる。
「真衣さんの表情が変化してすぐは、それがどういうことなのか、私にはわからなかった。でも、じきに、ふと思いついたことがあったの」
 美幸がそう言うと同時に動画の再生が止まった。
「それを確かめるために、私は撮影を中断してケータイを枕元に戻したのよ。――真衣さんのおむつの具合を確かめようとすると、ケータイを持ってられなくなるから」
「……」
「私の勘は当たったわ。真衣さんの表情が変化したその瞬間こそが、おしっこが溢れ出した瞬間だったのよ。真衣さんが私の胸に顔を埋めている間、私はギャザーの隙間から指を差し入れて、おむつ中の様子を調べてみたの。そしたら、どんどんおしっこが溢れ出てきて紙おむつの内側を濡らしていたのよ。もっとも、吸収帯がちゃんと吸い取ってくれたおかげで外へは漏れ出さなかったけどね」
 そこまで言って、美幸は思わせぶりに軽く頷いてみせた。
「それで、確信したの。真衣さんの夜尿については、やっぱり、心理的な要因が大きいんだって。でも、心配することはないのよ。精神的な病気とか神経系統の傷害とか、そんな怖いものじゃないから。ただ、ちょっと――」
 美幸はそこでちょっと間を置き、くすっと笑って続けた。
「――ちょっと、赤ちゃん返りしちゃってるだけなんだから」
「あ、赤ちゃん返り!?」
 美幸の口を衝いて出た思ってもみなかった言葉に、真衣は思わず聞き返してしまう。
「赤ちゃん返りって……下の子が生まれてお兄ちゃんやお姉ちゃんになった上の子が、母親の愛情を独占する下の子に嫉妬して自分も赤ちゃんになりたいって駄々をこねる、あの赤ちゃん返りのこと……ですか?」
「よく知っているわね。ま、家庭科の保育の単元でも習うから知っていても不思議じゃないけど。そう、その赤ちゃん返りのことよ、私が言っているのは」
「でも、でも……私には弟や妹なんていないし……」
「赤ちゃん返りするのは、なにも、下の子に対する嫉妬だけが原因ってわけじゃないのよ。とにかく、両親、とりわけ母親にべったり甘えたいという気持ちが高じて自分じゃどうしようもなくなって抑制が利かなくなり、とうとう赤ちゃんみたいな行動を取るようになった状態が赤ちゃん返りなんだから。下の子への嫉妬は、ちょっとしたきっかけに過ぎない場合もあるの。だから、真衣さんみたいに、一人っ子でも赤ちゃん返りしちゃうケースも珍しくないのよ、実は」
 美幸は軽く首を振って説明した。
「だけど……だけど、私には母がいないんですよ。いくら甘えたくても、甘える相手がいないんですよ。なのに……」
 真衣が、どことなく恨みがしい口調でぽつりと言った。
「そうね。たとえ赤ちゃん返りしても、真衣さんには、思い切り甘えさせてくれるお母様はもういない」
 美幸はもういちど真衣の髪を撫でつけてから、紙おむつ越しにお尻をぽんと叩いて言った。
「だから、おねしょなのよ。赤ちゃん返りしてべったり甘えたくて仕方ないのに、誰も受け止めてくれない。だから、おねしょが始まっちゃったのね。赤ちゃん返りしてもお母さんが甘えさせてくれない子供が手をつけられないくらい駄々をこねたり、無意識のうちにおもらしをしちゃうようになるのとのと同じで」
「そんな……だって、私、もう高校生なんですよ。手のかかる小さな子供なんかじゃありません。どうして、今になってなんですか? どうして、高校入試を控えた大事な時期にそうなっちゃったんですか? どうして、お母さんが恋しくてたまらなかった子供の時にじゃなかったんですか? そんなの、理屈に合いません」
 真衣は唇を「へ」の字に結んで言い返した。
「それは、むしろ、逆なのよ。『高校入試を控えた時期なのに』じゃなく、『高校入試を控えた時期だからこそ』なの。真衣さん、勉強に身を入れすぎて体調を崩しちゃったんだったよね。熱にうなされている間、どれほど苦しかったでしょうね。そして、どれほど寂しかったことでしょう。こんな時、お母さんがいてくれたら――ついそう思っても不思議じゃないわ。人生の中でもそう何度もないくらい大事な時期に大変な目に遭って、そんな時にこそ、誰かの暖かい手が必要なのよ。誰かの胸にすがりついて涙が涸れるまで泣きたくなるのよ。だから、その時に真衣さんの赤ちゃん返りが始まったのね。そうして、かなえられない願いの捌け口として、おねしょも始まった。『お母さん、私、まだおねしょの治らない赤ちゃんなんだよ。なのに、どうして私のこと構ってくれないの? どうして、よしよしってしてくれないの?』そんな気持ちがふつふつと湧き上がってくるのを止められなかったんじゃない?」
「……」
「辛い言い方になるけど、お母様が生きていらして真衣さんを際限なく甘えさせてくれていたら、たとえ赤ちゃん返りしたとしても、すぐにおさまっていたのかもしれない。それがかなわないからこそ、真衣さんの赤ちゃん返りがこんなに長く続いているんでしょうね。そして、それに伴う夜尿も」
 美幸は片方の眉を僅かに吊り上げた。
「ううん、でも、お母様がいらっしゃらなくても、赤ちゃん返りがおさまるチャンスは無いこともなかったのよ。高校に入学した時こそ、真衣さんの気持ちの向けようによっては赤ちゃん返りから抜け出す絶好の機会だった筈。お母様が青春時代を過ごした高校に自分も進むことで、『お母さんが歩んだ道をこれから私が辿り直すんだ。そして、お母さんが生きられなかった未来を私が代わりに生きていくんだ』ひたすら未来をみつめる、そんな気持ちになることができたなら、過去にすがりつこうとする赤ちゃん返りの状態から抜け出せていたんじゃないかしら。なのに、真衣さんはそうしなかった。お母様が今の自分と同じ年代の時を過ごした学舎に足を踏み入れた途端、まるでお母様の胸に抱かれたかのように感じたからなのか、不安定な未来と向かい合うのではなく、お母様への追憶に浸るという、甘い匂いを漂わせる蜜にべっとりまとわりつかれて逃げ出すことのかなわない罠に堕ちる途を自ら選んでしまったのよ」
「……」
「真衣さん、あなたはどうしたい? お母様恋しさのあまりいつまでもおねしょが治らなくておむつ離れできない赤ちゃんでいたい? それとも、辛い現実と向かい合える大人になりたい? 選ぶのは自分よ」
「……いつまでもおねしょが治らないなんて、そんなの我慢できません……」
 真衣は固い表情で言った。
「本当にいいのね? 本当に、未来に向かって自分の足で歩いていけるのね? 辛いこともいっぱいあるけど、本当にそれでいいのね?」
 美幸は真剣な眼差しで真衣の顔をみつめた。
「……私、もう高校生なんです。小っちゃい子供じゃないのに、赤ちゃん返りだなんて、そんなの……」
 本当にいいの?と繰り返し訊かれて躊躇いを覚えた真衣だったが、様々な思いを振り払うように何度か左右に首を振ると、潤んだ瞳で美幸の顔を見上げた。
「わかった。真衣さんは私に助けを求めて医院を訪れてくれた大事な患者さん。そして今は、義理とはいえ、かけがえのない愛娘。私が真衣さんの赤ちゃん返りを絶対に治してあげる。だから、私を信頼してちょうだい。どんなことがあっても私を信じて、どんなことでも私の指示に従ってちょうだい。――できるわね?」
「……」
 事ここに至って否はあり得ない。真衣は美幸の言葉を受け容れるしかなかった。
 そうすることで二度と引き返せぬ人生の回り道に足を踏み入れる結果になるとは思いもせずに。



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