ママは私だけの校医さん



   《8 変わり果てた整理箪笥》


 真衣が脱衣籠に手を伸ばそうともせず首をかしげていると、浴室のガラス戸を開ける音に気づいたのか、美幸が姿を現した。
「シャワーは終わっみたいね。ちゃんと時間をかけてお利口さんだったわね、真衣ちゃん。でも、どうしたの? 何をそんなに考え込んでいるのかしら? 早くパジャマを着ないと風邪をひいちゃうわよ。あ、そうか。真衣ちゃん、ママに着せてほしいのね。そうよね、パンツはママが穿かせてあげたんだから、パジャマも着せてあげなきゃいけないわね。でも、それならそう、おねだりしてくれればいいのに。電器屋さんのトイレでおねだりしたみたいに可愛らしくおねだりしてくれればいいのに」
 外出着からエプロン姿に着替えた美幸は、体にバスタオルを巻き付けただけの格好で脱衣籠を前に佇んでいる真衣を、相変わらず子供扱いして言った。
 それに対して真衣はなんとも言えない嫌な予感を覚え、弱々しい声で訊き返す。
「どうして? どうして、ナイティなの? こんな時間にどうしてナイティなの?」
「どうしてって、だって、真衣ちゃんは毎晩これと同じパジャマを着て寝ているでしょ? ボトムスとセットになっているパジャマは窮屈だし、丈の長いネグリジェは手間がかかるから、丈の短いこんなパジャマを着るんだって話してくれたじゃない。――ほら、これを着ける時に手間がかからなくて便利だからって」
 真衣の問いかけに美幸はにんまり笑い、脱衣籠に入れておいたナイティを持ち上げると、その下に折りたたんで置いてある厚ぼったい下着のようなものを指差した。
 それは、真衣が毎晩ショーツの代わりに身に着けている紙おむつだった。
「ど、どうして、こんな物を……」
 真衣は両目を見開いて美幸に尋ねた。いや、尋ねたというよりも、呻いたといった方が正しいだろうか。
「だって、『お家にいる時はおむつ』って約束したでしょ? それに、真衣ちゃん、タクシーの中でママにお願いしたんじゃなかった? 『お家に着いたらちゃんとしてね』って。だから、恥ずかしい粗相をしても大丈夫なようにちゃんとしてあげるんじゃない」
「そんな……」
 真衣は首をぶるんと振った。
「ママと真衣ちゃんが話していたこと、タクシーの運転手さんにも聞こえていた筈よ。タクシー会社の電話番号と運転手さんの名前はちゃんと記録してあるから、今から電話して確認してみましょうか? 真衣ちゃんにおねしょ癖とおもらし癖があることをきちんと話した上で、そのことについて親子で話し合っていたんですよ。そしたら私の提案を娘が快く受け容れてくれたんです。でも娘ったらいざお家に帰ったら駄々をこねるんですよ。運転手さん、娘を説得するための証人になってもらえませんか。娘はあの時、『お家に着いたらちゃんとしてね、ママ』って言ってくれましたよね。それを証言してくれるだけでいいんです。ええ、あの時、私はおむつを勧めたんですけどよ。――そうお願いしましょうか?」
 美幸はこともなげに言った。
 真衣の胸がどきんと高鳴る。あの時の運転手と再び顔を合わせることはまずないだろう。けれど、美幸からそんな話を聞かされたら、真衣の顔や住所も含めて、好奇心いっぱい、面白い出来事があったんだけどさと、同僚たちに吹聴してまわるもしれない。そんなことになったらと思うと、居ても立ってもいられない。
「い、いやぁ! 昼間からおむつだなんて、そんなの、そんなの……」
 どう応じていいのか咄嗟には判断がつかず、真衣は脱衣場からたっと駆け出した。
 向かう先は自分の部屋。とりあえず、まともな格好に着替えなきゃ。いつものショーツを穿いて、いつもの洋服を着て。いろいろ考えるのはそれからよ。今の真衣の頭の中をよぎるのはそんな思いだけだった。




「そんな、そんなことって……」
 整理箪笥の引出に手をかけたまま、真衣は呆然とした表情で立ち尽くしていた。
 そこへ、少し遅れて部屋に入ってきた美幸が背後から声をかける。
「どうしたの、真衣ちゃん? 何か困ったことでもあるの?」
「どうしたのって。これ、先生……マ、ママがしたんでしょ!? 引出の中身を入れ替えたの、ママなんでしょ!?」
 のろのろと振り返った真衣は、唇を震わせて美幸に言った。感情にまかせて食ってかかりたいところだが、これまでの出来事で立場の差を身にしみて痛いほど思い知らされてきた真衣だから、悲痛な呻き声をあげるのが精一杯だ。
 一方、美幸は落ち着き払った様子で、確認するように引出の中を覗き込むと、しれっとした顔で言った。
「ええ、そうよ。引出の中に入っていた要らない物を処分して、その代わりに、いつも使う物を入れておいてあげたんだけど、それがどうかしたのかしら?」
「い、要らない物って……ここに入っていたのは私のショーツなのよ」
 真衣は、信じられない思いで聞き返した。
 だが、美幸はやはり平然としたままだ。
「ええ、入っていたのは真衣ちゃんのパンツだったわ。――だから、要らない物なのよ」
 美幸は言葉の最後の方を強調して言い、自分の腰に手の甲を押し当てて続けた。
「真衣ちゃんがシャワーを浴びている間に袋に詰め込んでゴミ置き場まで持って行ってあげたの。あ、でも、心配することはないわよ。時々、変な男の人がゴミ置き場を漁って若い女の子の下着をみつけると家に持ち帰っていかがわしい行為に使うらしいって聞いたことがあるから、袋に詰める前にハサミで念入りに切り刻んでおいてあげたの。袋の外からぱっと見ただけじゃ元は下着だってわからない筈だから、真衣ちゃんのパンツが変な男の人に拾われちゃう心配はしなくていいわ」
 その説明に、真衣は言葉を失った。
 知らぬ間に勝手に下着を処分されてしまったこともショックだが、その下着が全てハサミで切り刻まれてしまっているという事実は、それに倍する衝撃だった。この地域のゴミ収集日は月曜日と水曜日。今ならまだ、袋に詰めて捨てられてしまったショーツを回収することもできる。しかし、いざ回収できたとしても、原型をとどめぬほどに細かく切り刻まれてしまっていては、穿くことができない。美幸は、変質者に下着を持ち帰られないようにするためハサミを入れたと言った。だが、それが実は、真衣に二度とショーツを穿かせないためなのは明かだった。
「……」
 真衣は無言で何度も小さく首を振り、諦めきれない様子で、それまで自分のショーツが入っていた引出の中に改めて目を向けた。
 だが、今そこにおさまっているのは、美幸が言うところの『いつも使う物』――何枚もの紙おむつとトレーニングパンツばかりで、その段だけを見れば、整理箪笥の引出というよりも、ベビー箪笥の引出と見紛わんばかりだった。
 しかも、美幸が真衣の部屋から処分した『要らない物』はショーツだけにとどまらなかった。
「あ、そうそう。先に言っておくけど、お洋服の中でも、おむつやトレーニングパンツの上に穿くと窮屈になりそうなボトムス類も処分しておいてあげたわよ。おむつを取り替えたりトレーニングパンツを穿き替えたりするには、やっぱり、スカートの方が手間がかからなくていいしね」
 こともなげにそう言う美幸の言葉を耳にするなり、真衣は、おむつとトレーニングパンツでいっぱいになった引出を押し入れ、ボトムス類をしまってある段の引出を慌てて引き開けた。
 だが、美幸の言う通り、そこに入っている筈のデニムパンツやサロペット、キュロットに至るまで、パンツ系やズボン類のボトムスは一枚残らず姿を消していた。このぶんなら、わざわざ確認しなくても、クローゼットにしまってあるコットンパンツやちょっとお洒落をしたい時に穿く細身のスラックスもなくなっているのは想像に難くない。
 これで、真衣は、勝手に家を飛び出すことが絶対にできなくなってしまったわけだ。紙おむつやトレーニングパンツを拒否して近くの衣料品店へショーツを買いに出ようにも、ノーパンにスカートで外出できる筈がない。たとえショーツを身に着けていなくてもジーンズなら外を歩き回ることもできるのだが、パンツ類まで処分されてしまったとあっては、そうすることもできないのだから。
「……」
 真衣は無言でその場にへたりこんでしまった。
 美幸は、その目の前に、脱衣場から持ってきた脱衣籠を押しやり、
「さ、いつまでもバスタオルだけじゃ風邪をひいちゃうわ。ママがちゃんとしてあげるからおとなしくしていてね」
とわざとのように優しく言って、真衣が体に巻き付けているバスタオルに指をかけた。
「……お、お父さんが……」
 美幸の耳に真衣の力ない声が届いた。
「え? お父様がどうかしたの?」
 美幸はバスタオルをそっと広げながら聞き返した。
「……もうすぐお父さんが帰ってくる。なのに、おむつだなんて……」
「あ、そうか。おむつのことをお父様に知られるのが恥ずかしいのね。でも、大丈夫よ。真衣ちゃんがシャワーを浴びている間に連絡があって、会議が思ったよりも長引いているんですって。どうやら夕方までかかりそうで、ついでだから、その後、激励会を開こうかって専務さんがおっしゃってるとかで、今夜は遅くなるらしいわ。お父様が帰ってきた頃には真衣ちゃんはお布団の中だから、おむつのことを知られる心配なんてしなくていいのよ」
 美幸は真衣をすっかり丸裸に剥いてしまいながら、くすりと笑って言い聞かせた。




 美幸に抵抗することもできず、とうとう紙おむつに丈の短いナイティだけという羞恥に満ちた姿を強要されてしまった真衣。
 だが、美幸はまだ納得する様子をみせず、いったん自分の部屋に姿を消した後、しばらくしてから戻ってきた。

「それは……」
 部屋に戻ってきた美幸が目の前に差し出した物を見て、真衣はなんと応じていいかわからなかった。
「真衣ちゃん、おねむの時は布団にもぐりこんでお腹が冷えないようにしているから丈の短いパジャマでも大丈夫って言ってたでしょ? でも、おっきしている間はお布団にくるまることもできないわねよ。だから、これを持ってきてあげたの。トレーニングパンツと同じ業者さんに作ってもらったんだけど、昨日運送屋さんがこのお家に運んでくれた荷物の内どのダンボール箱に入っているのかわからなくなって、探すのに手間取っちゃったけどね」
 ナイティを着せられ紙おむつを着けられた時の姿勢のまま部屋の中ほどに立ちすくんでいる真衣の目の前で美幸がひらひら振ってみせたのは、レモンイエローのニットでできたオーバーパンツだった。トレーニングパンツのようにアニメキャラのアップリケがあしらってあるわけではないものの、お尻の丸みに沿って三段の飾りレースが縫い付けてある、ぱっと見には幼児がおむつの上に穿くのとまるで変わらないほど可愛らしく仕立てられたニットのオーバーパンツだった。
「それに、これなら、恥ずかしいおむつも隠れちゃうでしょ? おむつの上にこれを穿いておけば、誰も真衣ちゃんのこと、おむつの赤ちゃんだなんて思わないわよ。一人でトイレに行けるパンツのお姉ちゃんだって思ってくれるわよ。だから、さ、ころんしちゃわないようママの肩にお手々を置いて、あんよを上げてちょうだい」
 美幸は真衣の目の前で膝立ちになり、自分の肩をぽんと叩いてみせた。
 これを穿いていれば真衣ちゃんのこと、誰もおむつの赤ちゃんだなんて思わないわよ。美幸はそう言った。(でも、私は、パンツのお姉ちゃんどころか、高校生なのよ)真衣は叫びだしたかった。だが、一晩に三度もおむつを汚しちゃったのは誰だったかしら? お出かけの間に二度もおしっこをちびっちゃったのは誰だったかしら? 玄関の前でおもらししちゃったのは誰だったかしら? そう問い詰められれば一言も反論できないのは自分でも痛いほどわかっている。だから、見ようによっては紙おむつそのものよりもずっと恥ずかしいオーバーパンツを穿かされそうになっても、惨めな思いで胸を見たしながら美幸の指示に従うしかなかった。従って、美幸の肩に体重を預け、おずおずと右脚を床から浮かせるしかなかった。

 右、左と順番に足を上げさせて股ぐりを通し、そのまま手早く引き上げて紙おむつの上に美幸が穿かせたオーバーパンツは、おヘソの少し上までが隠れるほどの股がみと、紙おむつの腿のギャザーがすっぽり隠れるくらいのサイズに仕上がっている上、股ぐりのゴムがちょっときつめで太腿にぴっちり食い込むような感じの穿き具合になっているため、その中に着けている紙おむつと相まって、真衣のお尻が更にぷっくり膨らんで見えた。しかも、真衣が足を動かすたびに三段の飾りレースがふわふわ揺れるものだから、まるで、赤ん坊のお尻そのままだ。
「うふふ。おむつだけの時よりもずっと可愛らしくなっちゃったわね。全身を写さないでこのお尻だけを写した写真を誰かに見せたとしても、それが女子高生のお尻だなんて思う人は一人もいないんじゃないかしら」
 美幸は、所在なげに佇む真衣の下腹部を、床に膝立ちになった姿勢のまま斜め下から見上げ、ぷるぷる震えるお尻をオーバーパンツ越しにぽんと叩いた。
 そうして、今度はエプロンのポケットから真新しいソックスを取り出すと、オーバーパンツをそうしたのと同じように真衣の目の前で振ってみせた。
「あと、あんよから体が冷えちゃうといけないから、これも履いておこうね。タクシーで帰る途中、手芸品のお店に寄ったでしょ? カッターシャツのボタン付けに使う糸を買うためにたまたま立ち寄ったあのお店、材料だけじゃなくて、出来合いの可愛いグッズも置いてあったのよ。その中に真衣ちゃんに似合いそうなのがあったから買ってきちゃったの」
 美幸が手にしたのは、真衣がおむつの上に穿かされたオーバーパンツよりも幾らか淡い黄色の細めの毛糸でふくらはぎくらいまでの長さに編み込んであって、くるぶしにあたる位置にピンクのサクランボ形のボンボンをあしらった、見るからに可愛らしいソックスだった。
 美幸はそのソックスを『たまたま立ち寄った』店で買ったと説明した。しかし、美幸が帰り道で何軒もの商店に立ち寄ったのは、決して『たまたま』などではない。前述した通り、それは、運転手にわざと遠回りの道順を指示するための口実だった。
 しかし、実は、単なる口実だというわけでもない。海外出張に出る優のための買い物という名目こそ口実に過ぎなかったが、何軒もの店に立ち寄ったのには、真衣のおもらしを誘発するための時間稼ぎというどす黒い目的の他に、真衣をますます子供扱いするための道具を買い揃えるためという更に裏の目的がひそんでいたのだ。このソックスにしても、ボタン付け用の糸を買いに入ったついでなどではなく、その手芸品店ではサンプルを兼ねた出来合いのニット製品、とりわけ子供用の可愛い衣類も数多く販売していることを予め調べておいた上で立ち寄って購入したものだし、他に立ち寄ったドッグストアやホームセンターでも、真衣を小さな子供のように扱うための道具や小物を手に入れていた。
 そういった小物類を購入する時、真衣が店内までついてきていたなら、それが何のための物かおよその見当がついて羞恥にまみれた顔になっただろう。そんな表情の変化を眺めて楽しむこともできるし、もしも真衣がタクシーの中に残ったとしても、帰宅してからいざその恥ずかしい小物類を使わされる運びになって、「あの時、どうして一緒に店に入らなかったんだろう。そうしていればこんな物は買わないよう説得できたかもしれないのに」という後悔の念で胸をいっぱいにするにちがいない。その屈辱の表情を眺めるのも一興だ。いずれにしても、美幸は少し意地悪な悦びに心疼かせることができるのだった。
 そして今、美幸の目の前で、遠回りした帰り道の途中タクシーから一度もおり立たなかった真衣が、あからさまな羞恥と屈辱に身悶えしていた。
 だが、それは、単に美幸と一緒に店内に入らなかったことを後悔しているだけではなく、助けを求めて美幸のもとを訪れてしまったこと、美幸をこの家に迎え入れてしまったことそのものを心から悔いているのかもしれなかった。



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