ママは私だけの校医さん



   《17 恥辱のの食事風景》


 わざとゆっくり逃げる美沙のあとを追いかけ続ける真衣。けれど、もう少しというところで美沙がひょいと体をかわす。
 そんなことを何度も繰り返した後、とうとう真衣はお尻を床にぺたんとつけ、これみよがしにおしゃぶりを振ってみせる美沙に向かって両手を伸ばした格好で、両目から涙を溢れさせ、声を震わせて泣き出してしまった。その時になってようやく美沙は真衣の口におしゃぶりを戻したのだが、そんなことで真衣の感情の高ぶりは鎮まらず、幼い子供のように、フローリングの固い床の上を這いまわり続けたせいで疲れ果て自由に動かせなくなった手足を苛立ちのあまりばたつかせ、「お姉ちゃんの意地悪、美沙お姉ちゃんの馬鹿ぁ」と泣き声で繰り返した。それに対して美幸が小振りのバスケットからガラガラを取り上げて顔の前で振ってみせたものの、そんな赤ん坊扱いが却って真衣の感情をますます昂ぶらせ、それこそ赤ん坊そのまま、火の付いたように泣きじゃくりだす有様だった(もっとも、それも美幸の企みの内だったに違いないのだが)。
 結局それから三十分間近くも泣き続け、ようやく泣き疲れて、それまでの手のつけられない泣きようが、次第に、ひっくひっくとしゃくりあげるような泣き方に変わってきた頃合いを見計らって、真衣はナイティを脱がされ、その代わりに美沙がつくったロンパースを着せられた後、ダイニングルームの椅子に座らされた。場所がリビングルームからダイニングルームに替わったのは、真衣を着替えさせ終えて一息ついたところで、哺乳壜と一緒にトレイの上に並んでいる食器が殆ど手付かずなことに気がついた美沙が「真衣ちゃんにご飯を食べさせてる途中だったんだったら、少し早いけど私たちも夕飯にしようよ」と言い出したからだ。

「それで、今日の夕飯は何なの? なんだか、とってもいい匂いがしてるんだけど」
 真衣をダイニングルームの椅子に座らせた後、自分も二階の部屋で制服から室内着に着替えて戻ってきた美沙は、鼻をひくつかせながら言った。
「クリームシチューよ。金曜日、私が初めてこのお家にやって来た日、真衣ちゃんが大好物だっていうからつくってあげたのがクリームシチューだったのよ。真衣ちゃんたら、とってもおいしそうに食べてくれてね。それで、今日から真衣ちゃんのお姉ちゃんになった美沙にも味見をしてもらおうと思って、真衣ちゃんがおねむの間に昼過ぎから煮込んでいたの」
「あ、真衣ちゃんの大好物なんだ。だったら、真衣ちゃんも私たちと一緒に食べるんだよね」
 美沙は、胴の長い鍋を玉杓子で掻き混ぜている美幸の傍らに立ち、椅子に座っている真衣と鍋の中のシチューとをちらと見比べた。
「食べさせてあげたいけど、でも、駄目よ。初めてクリームシチューをつくってあげた時は高校生だったから安心して食べさせてあげられたけど、今の真衣ちゃんは赤ちゃんだもの。私は大きめに切った野菜でシチューをつくるのが好きなんだけど、ごろごろ野菜がたっぷりのシチューを赤ちゃんに食べさせられるわけないでしょう? それに、真衣ちゃんは三日間、何も食べないでおねむだったのよ。そんなところへ固形物なんて食べさせたら、すぐにお腹をこわしちゃうわよ」
 美幸は、自分よりも幾らか背の高い美沙の目を僅かに見上げるようにして首を振った。
「あ、そうか。ちょっと悪戯でおしゃぶりを取っただけで泣いちゃうような赤ちゃんの真衣ちゃんに大きな野菜を食べさせるなんて駄目だよね」
 美沙は『おしゃぶりを取っただけで泣いちゃう』という部分を強調して言い、改めて真衣の姿をしげしげと眺めた。
 もともと、ダイニングルームのテーブルには椅子が四脚セットになっている。ところが、真衣が意識を失っていたこの三日間の内に美幸が片付けたのだろう、真衣が座っている方の辺に二脚、その向かい側の辺に一脚という配置で、今は椅子が三脚に減らされてしまっていた。しかも、二脚並んでいる椅子の内の一つは元々テーブルとセットになっていたダイニングチェアではなく、サイズこそ大人が座っても窮屈ではないくらいの大きさがあるものの、その形は、座面の端に滑り止めのベルトを設け、左右の肘掛けの間に丸や四角の凹みをつけた木製の簡易テーブルが渡してあるという、赤ん坊に食事をさせるためのベビーチェアを模したデザインになっていた。いや、ベビーチェアを模したデザインというよりも、その椅子は、大人の体に合わせて仕上げた大きなベビーチェアそのものだった。
 むろん、勝手に動き回れないよう太腿を滑り止めのベルトでしっかり固定されてその大きなベビーチェアに座らされているのが真衣なのは言うまでもない。
 大きなベビーチェアに座らされた真衣は、ようやく返してもらったおしゃぶりを口に咥えたままだ。しかも、「いつもおしゃぶりを咥えたままだとお口からよだれがこぼれてお洋服を汚しちゃうから」という口実で、胸元は大きなよだれかけで覆われていた。
 しかし、実際、真衣は、意識を失っている間に何度となく美幸の乳首を吸わされたり哺乳壜のミルクを飲まされたりしているうちに、いつしか、口に何かをふくむとすぐに唾が湧き出し、ちょっと油断するとその唾がよだれになって唇の端から溢れ出るようになってしまっていたため、、あながち、単なる口実というわけでもなかった。事実、淡いパステルピンクのロンパースの上に着けさせられた大きなよだれかけの所々には、うすく小さなシミが既に点々とついていた。そして、そのよだれかけも、フェイスタオルに市販のクリップで付けた即席のよだれかけではなく、小さなフリルになった飾りレースタイプのバイアステープで周囲を縁取りし、首筋の後ろと背中で紐を結わえるようになっている、ちゃんとしたよだれかけだった。もっとも、真衣の胸元を覆うような大きさのよだれかけが市販されているわけがなく、それは、ロンパースと同様、手芸品店で買い揃えた素材を使って美沙がミシン掛けと丁寧な手縫いとで仕上げたものだった。
 つまり真衣は、美沙の妹からのお下がりの布おむつと美幸が特別注文でつくらせたおむつカバーのせいでぷっくり膨らんだお尻を更に特製のオーバーパンツで包んだ上、美沙が手作りした大きなロンパースと大きなよだれかけを身に着け、美幸が買い求めた女児用のソックスを履いた、体の大きささえ気に留めなければ赤ん坊そのままの姿でベビーチェアに座っているというわけだ。しかも、口にはおしゃぶりをふくみ、ベビーチェアの左右の肘掛けの間に渡してある簡易テーブルには離乳食の食器とミルクの哺乳壜を並べた状態で。
「でも、食器の中身が殆ど減ってないところを見ると、真衣ちゃん、離乳食が好きじゃないみたいだね。なのに、ママのクリームシチューも食べられないなんて、本当に可哀想だこと」
 美幸の傍らを離れて真衣のすぐそばに歩み寄った美沙は、ベビーチェアの肘掛けに嵌め込みになっている簡易テーブルの上に並んだ食器を一つ一つ見渡し、苦笑混じりに言った。
「可哀想だけど仕方ないのよ。いいことはいい、駄目なことは駄目って、小っちゃい時からちゃんと躾けておかないと、結局その子のためにならないんだから。美沙も真衣ちゃんのことが可愛くてしようがないでしょうけど、可愛がってばかりじゃ駄目よ。叱らなきゃいけない時はちゃんと叱ってあげなさい。それがお姉ちゃんの役目なんだから」
 少し躾けにうるさい母親と、まだ赤ん坊の妹のことを甘やかせたくて仕方のない姉。それは、どこにでもありそうな食卓の光景だ。ただ、ベビーチェアに座っておしゃぶりを吸っている赤ん坊姿の真衣の実際の年齢を除けば。

 そうこうしているうちにサラダの盛りつけやパンの切り分けも済んで配膳が始まった。思えば、先週の土曜日の朝、美幸が調理した味噌汁のお椀や焼き魚の皿を真衣がいそいそと食卓に並べたあの日から、まだ一週間も経っていない。なのに、気がつけば、美幸の指図に従ってサラダボウルやシチュー皿を運ぶのは、真衣ではなく美沙の役割に替わっていた。当の真衣は勝手に動きまわれないよう特製のベビーチェアに座らされて太腿をベルトで固定され、絶えず口にふくんだままのおしゃぶりのせいで時おり唇の端から溢れ出るよだれで大きなよだれかけにうっすらとシミを付けながら、美幸と美沙の動きを虚ろな瞳でぼんやり眺めているだけだ。
「さ、できた。じゃ、いただきまーす」
 心ここにあらずといった感じで視線を宙にさまよわせていた真衣だが、すぐ隣で聞こえる美沙の声に、はっと我に返った。
 横目でちらと見た真衣の瞳に、自分の隣の椅子に腰かけている美沙と、美沙の向かい側に座っている美幸の姿が映る。美幸が座っている席は、いつもなら佐藤家の主である優が陣取る場所で、他の三脚に比べると僅かながら手の込んだ装飾を施し、食後のブランデーをゆったり楽しめるように幅の広い肘掛けも備えた椅子になっている。そして、今は美沙が占めている、これまでなら優の向かい側のその場所こそ、本来の真衣の席だった。こちらは他の二脚と同様のシンプルな造りのダイニングチェアだが、これまでずっとそこに座って食事をとってきた、真衣にとってはかけがえのない、思い出の染みこんだ椅子だ。なのに、今や、もともとの優の席には美幸が、真衣の席には美沙が悠然と座り、真衣は、普段なら使うことのない予備の場所に置かれた、赤ん坊に食事をさせるためのベビーチェアそのままの特製の椅子に座らされているのだ。その席順と椅子の種類とが現在の佐藤家における力関係を無言で物語っているのかと思うと、やるせなさで胸が張り裂けそうになる。
「あ、おいし〜い。このクリームシチュー、本当においしいよ、ママ」
 真衣の胸の内などまるで気に留めるふうもなく、シチューを一口頬張るなり、美沙が歓声をあげた。
「ありがとう。そう言ってもらうと、長いこと時間をかけて煮込んだ甲斐があるわ」
 美幸は相好を崩して応じたが、ふと美沙の顔に目を留め、くすっと笑って言った。
「よっぽどお腹が空いていたのかもしれないけど、あんまり急いで食べるから、シチューの雫がほっぺに付いちゃってるわよ。このぶんだと、美沙にもよだれかけが要りそうね」
「よだれかけだなんて、ママ、ひど〜い。私は高校生なのよ。赤ちゃんじゃないんだから、よだれかけなんて要るわけないじゃない」
 美沙は慌ててポケットからハンカチを取り出し、シチューの雫を拭い取って綺麗になった頬をぷっと膨らませた。
「うふふ。そうよね、美沙はもう高校生。いつまでも赤ちゃんの真衣ちゃんとは違うんだから、よだれかけなんて要らないわよね。でも、だったら、お姉ちゃんらしく、小っちゃな妹のお手本になれるよう、ちゃんと食べなきゃ駄目よ」
「はいはい、わかりました」
 美沙は頬を膨らませたまま拗ねたように言った。だが、実際に拗ねているわけではなく、互いに軽口を叩き合える二人の仲を真衣に対して誇示するためにそうしているのは明かだ。
「それじゃ、頼りになるお姉ちゃんらしく、私が真衣ちゃんにご飯を食べさせてあげようかな」
 もともとそのつもりだったのだろう、美沙はぱっと表情を変えて真衣の方に向き直ると、ベビーチェアの簡易テーブルの様子を改めて眺めまわし、やれやれとでもいうようにひょいと肩をすくめた。
「本当に、離乳食にはまるで手を付けないんだから。好きじゃなくても、ちゃんとまんまを食べないと大きくなれないわよ。大きくなれなくて、いつまでも赤ちゃんのままでいいのかな、真衣ちゃんは?」
 高校生の真衣を自分たちの手で強引に赤ん坊に仕立てておきながら、そんなことまるで知らぬげに美沙は言って、今更ながら気づいたかのようにぽんと両手を打ち鳴らした。
「あ、そうか。おしゃぶりを咥えたままじゃ、ご飯なんて食べられないよね。まんまの時まで咥えたままだなんて、本当に真衣ちゃんはおしゃぶりが大好きなんだから。でも、今はまんまま時間だから、おしゃぶりはないないしておこうね」
 少し呆れたようにそう言って、美沙は、真衣が口にふくんでいるおしゃぶりに指をかけた。
 途端に真衣が激しく首を振る。おしゃぶりを口から離したら、それを口実に美幸の手で外へ連れ出されるのではないかという怯えが先に立って、片時もおしゃぶりを離すまいとして反射的に身構えてしまうのだ。
 だが、そんな真衣の気持ちを知ってか知らすが、美沙は背の高さと腕の長さを活かして真衣の口からあっさりとおしゃぶりを奪い取り、食卓の隅に置いてしまった。
 それに合わせて、美幸の絡みつくような視線が真衣の方に向けられる。
「や、やだ。おしゃぶり取っちゃやだ。返してよ、真衣のおしゃぶりなんだから」
 美幸の視線を感じた真衣はびくんと体を震わせ、慌てて立ち上がりかけた。
 だが、太腿をベルトで座面に固定されてしまっているため、下半身はまるで身動きが取れない。しかも、左右の肘掛けの間に嵌め込みになっている簡易テーブルに阻まれて上半身を前のめりにすることもできず、かろうじて、美沙に近い方の左腕を伸ばすのが精一杯だった。しかし、そんなことで、食卓の隅のおしゃぶりに指が届くわけがない。
「返してよ。真衣のおしゃぶり、早く返してってばぁ」
 ますますねっとり絡みついてくる美幸の視線に、真衣は涙声で喚き、滑り止めのベルトで締め付けられた太腿をひくひく震わせた。
 不意に、食卓の向こう側からがたんという音が聞こえた。はっとして音のする方を見た真衣の目に、椅子から立ち上がる美幸の姿が映った。
「ち、違うの。真衣がおしゃぶりを嫌がったんじゃないの。美沙が、美沙お姉ちゃんが真衣のおしゃぶりを取り上げちゃったの。だから、だから……え、ひ、ひっく……ふぇ〜ん」
 ナイティからロンパースに着替えさせられ一分の隙もなく赤ん坊の装いに包まれた姿で外に連れ出されるのかもしれないという恐怖から、遂に真衣は両目からぼろぼろと涙をこぼして泣き始めてしまった。それも、さめざめと涙を流したり、嗚咽を漏らすというような年齢相応の泣き方ではなく、悪戯をみつかった幼児が母親から叱責されることを恐れて泣くのと同じ、まるで手放しの泣きじゃくりようだった。買い物を終えてタクシーで帰宅した土曜日の夕方、真衣は尿意に耐えかねて玄関先でおもらしをしてしまった。あの時はたまたま通行人がいなかった上、門扉の内側のできことだったから恥ずかしい現場を誰にも見られずに済んだものの、それでも、あの時の記憶は真衣の精神に深い傷をつけ、今も大きなトラウマになって残っている。それが、今度は門扉の外へ連れ出されるかもしれないのだ。
「やだ、お外はやだ。真衣、悪くないもん。美沙お姉ちゃんがいけないんだもん。だから、お外はいや〜」
 美幸がこちらに向かって歩いて来る気配に、真衣は激しく身をよじり、自由にならない脚で地団駄を踏まんばかりにして泣き喚いた。
「お外はいやなの。真衣、お家の中がいいの。だから、だから、ママ……ひっく、ひっく、ふぇ、ぇえ〜ん」
 いよいよ美幸がベビーチェアのすぐそばまでやって来ると、真衣の泣き声は一段と大きくなった。
 が、美幸はひょいと腰をかがめると、ベビーチェアの簡易テーブルを食器ごと注意深く持ち上げ、食卓の上に置いてから、両目に涙を溜めて怯えきった表情でこちらの様子を窺っている真衣の体を正面からそっと抱きすくめた。
「え……?」
 おしゃぶりを美沙に奪われたまま取り返せないでいることを口実にまたしても理不尽な仕打ちを与えられるとばかり思っていた真衣は、美幸の予想外の行動に、泣き喚くのも忘れ、きょとんとした顔になった。
「わかっているわよ。私は真衣ちゃんのママだもの、今回のことは真衣ちゃんが悪くないってこと、ちゃんとわかっているのよ。そうよね、みんな、意地悪な美沙お姉ちゃんがいけないのよね。真衣ちゃんがおしゃぶりを返してって頼んでも返してくれない美沙お姉ちゃんがいけないの。だから、真衣ちゃんはちっとも悪くないのよ。なのに、こんなに泣いちゃって。おお、よしよし。もう泣かなくていいのよ。真衣ちゃんはいい子だもの。ママのご自慢のとってもいい子だもの。ママが美沙お姉ちゃんにめっ!しておいてあげるから、真衣ちゃんはもう泣きやもうね」
 美幸は真衣の髪を二度三度と優しく撫でつけ、頭の後ろを右手の掌で包み込むようにして自分の胸元に引き寄せた。
 肘掛けの間に渡していた簡易テーブルは取り外してあるから、真衣がベビーチェアに座ったまま上半身だけを前のめりにし、そのまま美幸の乳房に顔を埋めるのを阻む物はない。
「マ、ママ……真衣、悪くないんだよね。美沙お姉ちゃんがいけないんだよね。美沙お姉ちゃんたら、真衣がいくらお願いしてもおしゃぶりを返してくれないんだよ。だから、真衣……ふえ、わ、ぅわ〜ん、ママぁ」
 きょとんとした顔でいったんは泣きやんだ真衣。けれど、初めての添い寝から始まって、タクシーの中や優が運転する車の中はいうに及ばず、空港のトイレやスーパーの駐車場に駐めた車の中、そして意識を失っていた三日間に渡り何度も何度も乳首を吸った美幸の乳房に顔を埋めた途端、なんともいいようのない匂いに包まれて、またもや涙が溢れ出す。しかし、今度は、お仕置きに怯えて泣き喚くのではなく、全てを無条件に赦し癒してくれる母親に甘えて泣きじゃくりながらこぼす温かな涙だ。
「あらあら、真衣ちゃんは本当に甘えん坊さんだこと。でも、いいわ。気が済むまでお泣きなさい。真衣ちゃんの涙が涸れるまで、ママがこうして抱っこしていてあげるから」
 美幸は真衣の耳元に優しく囁きかけ、小刻みに震える背中を何度も優しく掌で叩いた。 そうして、こちらの様子を興味深げに窺っている美沙を、わざと怖い声で
「こら、駄目じゃない、美沙。可愛い妹を苛めちゃいけないでしょ。今度こんなことをしたらお仕置きよ。本当に、めっ!だからね」
と叱ってみせる。
 だが、本気で叱責しているのでないことは、真衣の体を抱き寄せながらも、真衣に気づかれないよう注意しつつ美沙に向かって意味ありげな目配せをしてみせたことからも明かだ。いわば、飴と鞭。今回は美沙が鞭の役を、そして美幸が飴の役。二人はそうやって、真衣の赤ちゃん返りの度合いをますます進めさせることに成功したというわけだった。




 ようやく真衣が泣きやみ、美幸がベビーチェアのそばを離れて自分の席に戻ったのは、それから二十分ばかり経ってからのことだった。
 さすがに、感情の高ぶりが鎮まり気持ちが落ち着いてくると、自分の振る舞いがいかにも幼児めいていることに気がついて、ついさっきまで美幸の乳房に顔を埋めて泣きじゃくっていた真衣が、これ以上はないくらいの羞じらいの表情を浮かべ、ベビーチェアの上で今にも消え入りそうにしている。
「真衣ちゃん、そろそろご機嫌はなおった? なおったんだったら、お姉ちゃんがまんまを食べさせてあげる。さっきはごめんね。お姉ちゃん、ママに叱られちゃった。だから、ごめんなさいのシルシに、真衣ちゃんの大好物を食べさせてあげるね」
 食卓に置いたままになっている簡易テーブルからガーゼのハンカチをつかみ上げ、真衣の顔に残る涙の跡を拭き取りながら、美沙が優しく言った。
「大好物?」
 顔を拭かれながら真衣がふと食卓を見ると、美沙の席に置かれた皿にはシチューがまだ半分ほど残っていた。
「真衣ちゃんはママの胸に顔を埋めたまま泣き通しだったからちゃんと聞いてなかったでしょうけど、美沙お姉ちゃんたら、真衣ちゃんを泣かせちゃったお詫びに、シチューを食べさせてあげるんだってママに言ったのよ。あまり好きじゃないお粥とか野菜のペーストだけじゃ真衣ちゃんが可哀想だから、自分のシチューを分けてあげるんだって。なにも自分のをあげなくても、まだお鍋にはたっぷり残っているから真衣ちゃんにはそっちでもいいんじゃないってママは言ったんだけど、先にお皿に入っていた自分のシチューの方が冷めるのが早いから真衣ちゃんに食べさせてあげやすいって言うのよ。大きなお野菜はどうするの?って訊いたんだけど、それもちゃんとしてあげるからって。だから、本当は赤ちゃんに大人の食べ物はいけないんだけど、今回だけ大目に見てあげることにしたの。それで美沙お姉ちゃんと真衣ちゃんが仲良くなってくれるんだったらって」
 真衣の視線に気づいた美幸が鷹揚に頷いて経緯を手短に説明した。
「さ、できた。これで真衣ちゃんのお顔は元通り綺麗になったから、大好物のシチューを食べようね」
 美幸が説明している間に真衣の頬に残る涙の跡を拭き取った美沙が、ガーゼのハンカチを簡易テーブルに戻し、自分のシチュー皿を真衣の目の前に押しやってスプーンを持ち上げた。
「で、でも……」
 あれほど「赤ちゃんに大人の食べ物なんて駄目よ」と言い、強引に離乳食を食べさせようとしていた美幸の様変わりに、真衣は躊躇いがちに首を振った。
「いいのよ、ママも許してくれたんだから」
 戸惑いの表情を浮かべる真衣に向かっておだやかな笑顔でそう言いい、美沙は肉や野菜の塊を除けてシチューをスプーンに半分ほど掬い取って真衣の口に近づけた。
 途端に、真衣のお腹が鳴る。考えてみれば、この三日間、意識を失っている間、哺乳壜のミルクの他は何も口にしていない。それでも目が覚めた直後なら食欲も湧かないかもしれないが、意識が戻ってからもうすっかり時間が経っている上、おむつの交換を嫌がって逃げまわったり、おしゃぶりを取り返すために這い這いで美沙を追いかけたりして体もかなり動かした後だから、シチューのいい匂いを嗅いだ瞬間、それまで忘れていた空腹に気づくのも当然のことだ。
「あまり急いで食べちゃ駄目よ。シチューはまだお皿に半分くらい残っているし、それで足りなかったらお鍋にもたっぷり残っているんだから」
 美沙は、自分のさっきまでの幼児めいた行為に恥じ入ることも忘れたかのようにお腹を鳴らす真衣の様子に苦笑を浮かべながら、スプーンの先を上下の唇の間に押し当てた。
 大きなベビーチェアに座らされて他人の手で食事を与えられる屈辱に一瞬は躊躇いを覚えた真衣だが、三日間に渡る絶食による空腹には勝てず、おずおずと舌を伸ばして、唇の隙間に差し入れられたスプーンの先端をそっと嘗めた。それだけで、濃厚なチーズとクリームの風味が口の中いっぱいに広がって、もういちど、今度はさっきより大きな音でお腹が鳴る。
 もう、そうなると、それ以上の我慢は到底不可能だ。自分では意識しないまま真衣の喉がぐびりと鳴り、スプーンを丸ごと咥え込むようにして、決して上品とは言えない音をたてるのもお構いなしに、そのままシチューを飲み込んでしまう。
 二口目も三口目も同じだった。
 そうして、四口目。それまではシチューのお汁ばかりを真衣に与えていた美沙が、今度は、大きなジャガイモをスプーンの先で崩して小分けにし、その内の一つを掬い取った。お腹が空いている時に少しだけ食物を口にすると、却って空腹感が増す。シチューのお汁を三口だけ与えられた真衣は、まさにその状態だった。小分けにしたジャガイモを掬ったスプーンが近づいてくるのを待ちかね、かろうじて自由になる上半身を思わず前のめりにする。
 だが、美沙は、手にしたスプーンを真衣の口に近づけることなく、そのまま、自分の口に運んでしまった。
「あ……」
 思ってもみなかった美沙の行動に、真衣の瞳が涙で潤む。ご飯を思うように食べさせてもらえないくらいのことで涙を浮かべるなど、およそ、高校生に似つかわしい反応ではない。しかし、今の真衣は、それほどまでに空腹感の虜になっていた。食べさせてもらえると思っていたシチューのジャガイモを誰かに横取りされただけで泣き出しそうになるほどの空腹感に。
 しかし、泣き出す寸前のところで、真衣の口は封じられてしまった。
 真衣の口を封じたのは、美沙の唇だった。
 真衣の顎先を中指と人差指で押し上げるようにしながら、美沙が、真衣の唇に自分の唇を重ねたのだ。
「ぐ……む!?」
 突然のことに一瞬何が起きたのかわからず、涙に潤む両目を真衣が大きく見開いた直後、唇になにやら柔らかな物が触れた。
 それは、美沙の舌だった。
 真衣と唇を重ね合わせたまま、美沙が、真衣の上下の唇の隙間に自分の舌を差し入れてきたのだ。
 真衣は反射的に身を退こうとしたが、両脚はベルトで固定されて自由に動かせず、ベビーチェアの背もたれに阻まれて上半身を後ろに倒すこともできない。
「んん……」
 力ない抵抗がいつまでも続くことはなかった。
 いつしか真衣の唇がこじ開けられ、遂には美沙の舌の侵入を許してしまう。
 舌と舌とが触れ合う感触があった。
 と、シチューを飲み込んだわけでもないのに、どういうわけか、口の中にチーズとクリームの匂いがふわっと広がる。
 続いて、とろっとした食感が口の中に流れ込んできた。
「ん!?」
 はっとして、真衣は、すぐ目の前にある美沙の顔を見た。
 美沙は唇を重ねたままなんとも表現しようのない笑みを浮かべて軽くウインクしてみせる。
 それからしばらく、美沙の唇と舌が動き続ける間、とろっとした食感が絶え間なく真衣の口の中に流れ込み、やがて、それまでよりも少し粘り気の少ない汁が流れ込んできたかと思うと、チーズとミルクの匂いがいっそう強くなって、ようやく美沙の唇が離れた。
「よかったわね、美沙お姉ちゃんに口移しでシチューを食べさせてもらえて。これなら、大きな野菜も安心だわ」
 美沙の唇が離れた後、自分の唇に中指の腹を押し当てて呆然とした表情を浮かべる真衣に向かって、美幸はすっと目を細めて言った。
「でしょ? こんなふうにしてあげたら赤ちゃんの真衣ちゃんでもお野菜を食べられるでしょ? それに、私が、小さく小さく、とろとろになるくらい噛んでから食べさせてあげるんだから、空っぽのお腹にも優しいし。これだったら、シチューをもっともっと真衣ちゃんに食べさせてあげてもいいよね?」
 美幸の言葉を受けて、美沙が、いかにも自慢げな様子で軽く胸を張ってみせた。
 その時になって、ようやく真衣も、唇を重ね合わせていた時に口の中に流れこんできたのが、美沙が細かく噛み砕き咀嚼したジャガイモだということに気がつく。
「ええ、いいわよ。美沙がお口の中で小さく柔らかくしてあげた食べ物なら、赤ちゃんの真衣ちゃんのお腹にも優しいもの。これからも、口移しでたくさん食べさせてあげてね。でも、真衣ちゃんの好物ばかりじゃ駄目よ。お粥とか野菜のペーストとか、離乳食もちゃんと食べさせてあげないとね。じゃないと、好き嫌いの激しい子になっちゃうから」
 美幸はこともなげに言って、食卓の上に置いた簡易テーブルに並んでいる離乳食の食器をちらと見た。
「うん、わかった。じゃ、もう一口だけシチューを食べさせてあげて、その次はお粥にするね。それで、またシチューで、その後は野菜のペースト。こうやって順番に食べさせてあげたら、真衣ちゃん、離乳食もちゃんと食べると思うから」
 美沙は大きく頷いてから、今度はシチュー皿からニンジンを細かく砕いて掬い取り、再び自分の口に運んだ。
 まだ歯の生え揃っていない赤ん坊そのまま、誰かが予めどろどろになるまで咀嚼した食物を口移しで食べさせられる屈辱。しかし、その屈辱も、三日間に渡る絶食の後に与えられた大好物の味を改めて知ってしまった真衣の行動を押しとどめることはできない。
 さっきは美沙に唇を重ねられて呆然とした表情を浮かべた真衣だったが、気がつけば、今度はこちらから美沙の唇を求めて体を前のめりにしていた。
 美沙は、そんな真衣の背中に両腕をまわして優しく抱き寄せ、大きな体で覆いかぶさるようにして唇を重ね合わせるのだった。



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