ママは私だけの校医さん



   《24 クラスメートの目の前で》


 体を揺すられて真衣が目を覚ますと、膝に広げたハンカチの上に小振りの弁当箱を置いた美沙がベッド脇の椅子に腰かけてこちらの様子をじっと窺っており、真衣の瞼が開いたのを見て取ると
「二時間目が終わって迎えにきてあげた時と同じで、気持ちよさそうにねんねしてたわね」
と、真衣の頬をつんとつつき、自分の膝の上の弁当箱を持ち上げた。
「ほら、お弁当を持ってきてあげたから一緒に食べようね。ここならママと一緒に家族水入らずで食べられるわよ」
 そう言われて真衣が反射的に首を動かし、執務机の方に目をやると、たしかに、事務椅子に腰かけている美幸の目の前に、美沙の膝の上に載っているのよりも幾らか大きな弁当箱が二つ並んで置いてあるのが見えた。どうやら、その二つが美幸と美沙の分らしい。
「さ、おっきさせてあげるから、まんまにしようね。お姉ちゃんが食べさせてくれるから、真衣ちゃんは何もしなくていいのよ。ただ、ベッドの上におとなしくお座りしていればいいの」
 真衣の返事を待つこともなく、事務椅子から立ち上がった美幸が真衣の背中に手をまわして上半身を抱え起こした。
 その拍子に、右手に持ったままのガラガラが揺れて、からころと音をたてる。赤ん坊なら、その軽やかな音色にきゃっきゃっと声をあげて喜ぶところだろうが、高校生の真衣にとっては羞恥を掻き立てられるばかりだ。だが、ここでガラガラを放り出したりしたら、それを口実にどんな仕打ちが待っているかしれたものではない。
「ママの言う通り、まんまはお姉ちゃんが食べさせてあげるから、真衣ちゃんは大好きなガラガラを持ったままでいいのよ。うふふ。それに、おしゃぶりもちゃんと咥えたままねんねしていたのね。そうよ、それでいいのよ。真衣ちゃんはおしゃぶりが大好きなんだから。おしゃぶりを咥えさせてもらうと嬉しくなっておもらしをしちゃうほどおしゃぶりが大好きなんだから。でも、まんまの時はないないしておこうね。おしゃぶりを咥えたままだとまんまを食べさせてあげられないもんね」
 美沙は、真衣が持ったままのガラガラを人差指の先でぴんと弾くと、やはりこちらも寝つかされる時に咥えさせられたままになっているおしゃぶりの胴の部分を人差指と親指の先で挟んできゅっきゅとしぼませたり膨らませたりしてみせてから、そっとつかみ取った。そうして、手にしたおしゃぶりの口にふくむ部分を、真衣の胸元を覆っている大きなよだれかけで丁寧に拭い、制服の胸ポケットに押し込む。
 その後、美沙は膝の上に載せた弁当箱の蓋を取り、色とりどりのおかずの中から卵焼きを選んで箸でつかみ上げ、真衣の口ではなく自分の口の中に放り込んだ。もちろん、昨日の夕飯と同様、口移しで真衣に食べさせるためだ。
「や、やだ……」
 昨夜は空腹のあまり美沙が咀嚼した食べ物を口移しで食べた真衣だったが、学校の保健室で同じことをさせられるとなると、思わず身を退いてしまう。しかし、美幸の手に阻まれて後ずさりもできない。抵抗も虚しく、あっという間に真衣の唇に美沙の唇が重ね合わされた。
 だが、それでも真衣は口をつぐみ、美沙が舌で押し出すどろどろになった卵焼きを頑なに拒み通す。
 やがて、行き場を失った卵焼きが真衣の唇を汚しながら溢れ出し、セーラー服の胸元を覆っているよだれかけに向かって、唇から顎先にかけて残るよだれの跡に沿うようにしてねとっと伝い落ちた。
「どうしたの、真衣ちゃん? 昨日の夕方は美沙お姉ちゃんの口移しであんなに美味しそうにまんまを食べていたのに、どうして今日は駄目なの? ほら、ちゃんと食べないとお腹が空いちゃうわよ」
 真衣の上半身を支えている手で背中をぽんぽんと叩きながら、美幸がわざと不思議そうに言った。
 だが、真衣は何も応えない。応えないというよりも、僅かでも口を開いたら、そこから原型を残さないほど咀嚼された卵焼きを強引に押し入れられそうで、応えられない。
「ひょっとしたらお目々が覚めたばかりでお腹が空いてないのかしら。だったら、無理に食べさせるのは可哀想ね。いいわ、真衣ちゃんはこのままにしておいて、私たちだけ先に食べちゃいましょう。真衣ちゃんにかかりきりで美沙が五時間目の授業に遅刻したら大変だから」
 顎先とよだれかけを黄色に汚したままだんまりを決め込む真衣の顔を覗き込んだ後、美幸は美沙に向かって言い、再び真衣の方に向き直ってこんなふうに付け加えた。
「でも、まんまを食べないで午後の授業を受けたら途中でお腹が空いちゃうでしょうね。あ、だけど、おしゃぶりがあるからいいのかな。お腹がすいても、おしゃぶりをちゅうちゅうしていれば我慢できそうだもんね。ただ、おしゅぶりをちゅうちゅうしてるとどうしてもよだれがこぼれちゃうから、よだれかけはこのまま着けておかなきゃね。うん、それでいいわ。授業中もちゃんとよだれかけを着けておしゃぶりを咥えているんだったら、今はまんまを食べなくても、ママ、真衣ちゃんのこと叱ったりしないわよ」
 真衣の顔色が変わった。美幸が冗談で言っているのでないことは明かだ。このまま口移しの食事を拒み続けたら、本当によだれかけを着けたまま保健室から追い出されてしまうに違いない。
 真衣が逡巡したのは、一瞬だけのことだった。
「ご、ごめんなさい。ちゃんと食べる。食べるから許して……お、お姉ちゃん。真衣にまんまを食べさせて。昨日みたいに優しく口移しで食べさせて、お願いだから」
 美沙と目を合わせないようにして、真衣は今にも消え入りそうな声で言った。
「いいわよ。まんまをおねだりする可愛い妹を邪険に扱うお姉ちゃんなんているわけないもん、ちゃんと食べさせてあげる。じゃ、今度はほうれん草のおひたしね」
 美沙はこともなげに応えて弁当箱からほうれん草をつかみ上げて自分の口に放り込むと、緑色のペーストみたいになるまで入念に咀嚼してから真衣と唇を重ね合わせた。

 それからも美沙が様々な食物をどろどろになるまで咀嚼し、真衣と繰り返し唇を重ね慌て弁当箱が半分ほど空になった頃、インターフォンの呼び出し音が鳴った。
「はい、どうしました?」
 真衣と美沙の食事風景を見守っていた美幸がくるりと体の向きをかえてインターフォンの応答ボタンを押す。
『一年三組の園田です。佐藤さんの具合を伺いに参りました』
 返ってきたのは、一時間目の途中と同様、茉莉の声だった。
「わかりました。すぐに開けます」
 事務的な声で応じると同時に、美幸は美沙に向かって目配せをした。
 咄嗟に美沙は弁当箱を包んでいたハンカチで真衣の顎に残るねっとりした卵焼きの跡を拭い取り、そのままベッドに横たえさせて、その上から毛布をかけた。胸元まで毛布で覆ってしまえば、おむつカバーやよだれかけが目につくこともない。おしゃぶりは既に胸ポケットの中だし、ガラガラも、手に持ったまま毛布の中に隠せば見られずにすむ。
 茉莉を迎え入れる準備を手早く済ませた美沙が無言で目配せをし返すと同時に、美幸がドアの錠を解いた。  
 音もなく開いたドアから入ってきた茉莉はベッドに横たわっている真衣と、そのすぐそばの椅子に腰かけている美沙の方にちらと目をやってから、真っ直ぐに美幸の目の前まで歩み寄り
「佐藤さん、五時間目の授業には出席できそうでしょうか? もしもまだ無理のようなら今から職員室にまわって連絡をしておきたいと思います。その方が先生のご迷惑になりませんから」
と、相変わらず落ち着き払った声で尋ねた。
「いえ、もう大丈夫よ。昼休みの間だけ休んでいれば五時間目の授業には出席できるから、受け持ちの先生に連絡するには及ばないわ」
 茉莉の問いかけに、美幸が少し考えるふりをしてから応える。
「わかりました。それでは私は教室に戻りますが、佐藤さんのことはよろしくお願いします」
 茉莉はそう言って深々と頭を下げた。
 と、執務机の上に二つ並んで置いてある弁当箱が目に映る。どちらも、蓋は外れているものの、まだ全くの手つかずだ。
「あ、佐藤さんに付ききりでお昼がまだお済みじゃなかったんですね。杉下さんもまだお弁当を食べてないみたいだし、あまり無理をして自分が体をこわさないよう気をつけなきゃ駄目よ」
 中身がまるで減っていない弁当箱を目にした茉莉は二人に向かって気遣わしげに言った。
 だが、美沙の膝の上に載っている小振りの弁当箱に気がつくと、訝しげな表情を浮かべて問い質した。
「それ、佐藤さんのお弁当でしょう? どうして、半分ほど空になっているの? 横になったままなのを見ると佐藤さん、食欲がなさそうに思えるんだけど、鈴木先生も杉下さんもまだお弁当を食べていないのに、どうして佐藤さんのお弁当が減っているの?」
「いえ、これは……」
 思いがけない問いかけに美沙は言葉に詰まった。
 そこへ追い討ちをかけるように、茉莉は美沙の顔と真衣の顔を交互に見比べ、ますます疑惑の色を濃くして重ねて訊いた。
「杉下さんの唇も佐藤さんの唇もなんだか緑色になっているんだけど、それってどうしたの? うっすらとだからよくはわからないけど、薬か何かの色素とかじゃなくて、野菜みたいな自然な緑色に見えるんだけど、それって何の色? どうして二人揃って唇にそんな色が付いているのかしら?」
「あ、あの……」
 どろどろの卵焼きが伝い流れた跡は拭い去ったものの、茉莉に指摘されるまでさっき口移しで食べさせたばかりのほうれん草の色が自分と真衣の唇に付着したままなことに気づかずにいた美沙は、普段の済まし顔からは想像もつかないほどの困惑の表情を浮かべた。
(や、やだ。このままだったら、園田さんに私たちの関係を気づかれちゃう。そんなことになったら。そんなことになったら……) 一方、ぎゅっと目を閉じて美沙と茉莉の会話に耳を傾けていた真衣は不安のあまり身をすくめるばかりだ。その拍子に、毛布の下で右手が無意気のうちに動き、右手に握ったままのガラガラを僅かながら振ってしまう。
 からころ。
 からころ。
 意識して振ったわけではなく、毛布越しだから、ガラガラが奏でる音はいつもよりも弱い。それでも、そこに居合わせた四人の耳に届くには充分な音の大きさだった。
「今のは……?」
 高校の保健室にはおよそ似つかわしくない音色を耳にした途端、美沙を問い詰めんばかりにしていた茉莉の顔にきょとんとした表情が浮かんだ。だが、まさか赤ん坊が大好きな玩具の音がこんな所に響き渡るなどとは想像もつかず、聞こえたのも僅かな間だけだったため音の出所を探ることもかなわず、あたりをきょろきょろ見まわすばかりだ。
 そこへ、今度は、ピピピという電子音が四人の耳を打つ。
 茉莉が、はっとしたような顔になって音のする方に振り向いた。僅かな間しか聞こえなかったガラガラの音色とは違ってまだ鳴りやまないから、どこから聞こえるか見当がつけやすい。
「何かの警告音でしょうか。まさか火事じゃないとは思いますけど、見てきます」
 ガラガラの軽やかな音色とは対照的な無機質な電子音を耳にしてこれ以上はないくらい真剣な表情を浮かべた茉莉は、日頃の生真面目な性格を発揮し、保健室の奥にあるドア越しに電子音が聞こえていることを確認すると、そちらに向かって緊張した面持ちで歩き出した。
 対照的に、電子音の正体を知っている美幸は、美沙に向かって苦笑交じりに軽く肩をすくめてみせるばかりだ。

「え……!?」
 どこかおそるおそるといった様子で奥のドアを開けた茉莉は、電子音の出所を確認した途端、それまでの緊張した面持ちから呆気にとられたような顔に変わった。
 電子音を出しているのは、ドアを開けてすぐの所にある洗濯機だった。大きな液晶パネルに表示されている作動模式図に目をやると、洗濯機能から乾燥機能に移行したことを告げるおしらせアラームが電子音の正体らしいということが見て取れる。
「ごめんなさい、びっくりさせちゃって。ドアを開ける前に教えようとしたんだけど、園田さんがあまり真剣な表情だったから、つい言いそびれちゃって」
 唖然とした表情で洗濯機をみつめる茉莉に、背後から美幸が声をかけた。
「……いえ。危ないことじゃなくてほっとしました。私こそ早とちりしてしまって申し訳ありません」
 茉莉はぶるんと首を振って気を取り直し、いつもの生真面目な顔に戻って応じた。
 だが、目の前で動いている洗濯機を見ているうちに、再び訝しげな表情が浮かんでくる。
 洗濯機が洗濯機能から乾燥機能に移行してすぐの頃は、洗濯物はまだ脱水が終わったばかりで、斜めドラムの中でもあまり大きくは動かない。それが少し時間が経って次第に乾いてくると、ドラムの回転に合わせ、温風をふくんでふわっと広がり、ドラムの中いっぱいを舞うようになる。乾燥機能付きの斜めドラム式洗濯機は扉が透明になっているため、乾燥が進むにつれ次第にドラムの中を軽々と動きまわるようになる洗濯物の様子を目視で確認することも簡単だ。
 最初は何気なく透明な扉越しに洗濯機の中に目をやった茉莉だが、ドラムの中で温風をふくんでふわふわ舞う布地を見ているうちに、いつしか怪訝な顔つきになってきたのだ。
「どうしたの? 何か腑に落ちないような顔をしているわね」
 思わず腰をかがめて洗濯機の中をじっと覗き込みそうになる茉莉に、さっきと同様、背後から美幸が声をかけた。
「あ、い、いいえ……」
 はっと我に返ったような顔になって茉莉は振り返り、尚もどこか釈然としない様子でぎこちなく首を振った。
「じゃ、危ないことは何もないということがわかったんだし、戻りましょう。いつまでもここにいても仕方ないから」
 洗濯物の正体に茉莉がおよその見当をつけたらしいことを見て取った美幸はわざと素っ気なくそう言って、さりげなく茉莉の手を取り、ベッドのそばに連れ戻した。
 器具庫から離れて元の場所に戻ってくる間も茉莉は好奇の念にかられて何度か後ろを振り返り、静かに回転している洗濯機のドラムにちらちら目をやっては、そのたびに何か問いたげに口をおずおずと動かしかけるのだが、結局は何も言えずに美幸につき従って歩を進めるのだった。

 元の場所に戻ってきた茉莉がベッドに横たわる真衣の姿を見おろす目には、なんともいえない好奇の色が浮かんでいた。真衣の体にかかっている毛布がずり落ちそうになっていたため乱れを整えてやろうと手を伸ばしたのだが、毛布の端から覗く真衣の胸元が見慣れない布地で覆われていることに気がついたからだ。
 セーラー服の胸当てとはまるで異なるその布地が何なのか、すぐには判断がつかなかった。だが、よく目を凝らしてみれば、薄く黄色いシミがついていることがわかる。そして、そのシミのすぐ横に、美沙や真衣の唇に付着しているのと同じ緑色のシミ。それに、生地そのものも、制服には全く使われていない、吸水性の良さそうな起毛生地だということも見て取れる。
 茉莉は毛布を真衣の首筋まで引っ張り上げるふりをして深く腰をかがめ、茉莉の胸元を覆っている布地に更に目を凝らした。と、布地の縁から幅広の紐が伸びて、首筋の後ろで結わえられているのがわかる。
 そのことに気づいた瞬間、茉莉はその布地の正体に思い至った。思い至ると同時に、頬がかっと上気して、胸がどくんと高鳴る。
「……あ、あの、私はこれで教室に戻ります。あとのことはよろしくお願いします。もしもやっぱり佐藤さんが五時間目の授業に出られないようなら、なるべく早く受け持ちの先生に連絡してあげてください」
 茉莉は慌てて毛布を引っ張り上げ、自分の頬が赤く染まっていることを美幸や美沙に気づかれまいとして顔を伏せたままくるりと踵を返し、ドアに向かって足早に歩き出した。

「気がついたみたいね、園田さん。全部わかったかどうかはなんとも言えないけど、変に思っていることは確かね」
 保健室をあとにする茉莉の後ろ姿を見送りながら、美幸が美沙の耳元に囁きかけた。
「そりゃそうよ。ママったら、真面目なクラス委員長の園田さんが真衣ちゃんの容態を確認するためにここへ来るのがわかっていて、真衣ちゃんが一時間目と三時間目に汚しちゃったおむつをの洗濯をしていたんでしょ? それも、園田さんがここにいる間にアラームが鳴るよう時間を見計らって洗濯機のスイッチを入れておいたとしか思えないわね、あのタイミングは」
 美沙も美幸の耳元に口を近づけて囁き返し、少し呆れたような様子で続けた。
「それだけじゃないわ。園田さんに続いて器具庫の方へ歩き出した時、わざと何かに躓いたふりをして真衣ちゃんがねんねしているベッドに手をついたわよね? その時、毛布をずらしたでしょ? よだれかけがちょっとだけ見えるように少ししかずらしてなかったから真衣ちゃん本人は気づいていないみたいだけど、そばで見ていた私の目は誤魔化せないわよ」
「やれやれ、よく見ていたわね。美沙の言う通りよ。でも、私の方から進んで園田さんに教えてあげたわけじゃないわ。あくまでも、真衣ちゃんに気取られない程度のささやかなヒントを散りばめておいただけよ。そのヒントをもとにどこまで気がつくかは園田さん次第よ」
 美幸は悪戯っぽくにっと笑ってみせ、腕時計にちらっと目をやって真衣にともなく美沙にともなく言った。
「さあさ、早くお昼ご飯を食べちゃいましょう。もうすぐ五時間目の授業が始まっちゃうわよ。遅刻したら、せっかく気を遣って真衣ちゃんの様子をみにきてくれた園田さんに申し訳ないわ」




 五時間目の授業は英語だった。
「――ということになります。じゃ、説明した構文を使って例文を作ってもらうわね。黒板を右と左にわけて、二人にやってもらいます。自信のある人、手を挙げて」
 英語担当の教師が生徒たちの顔をぐるりと見まわして言った。
 教室のあちらこちらで手が挙がる。
 真衣にしても自信がないわけではないが、スカートの下におむつを着用している状態では手を挙げられるわけがない。
 なのに、教師と目を合わさないよう顔を伏せる真衣の隙をついて美沙が自分の席から手を伸ばし、真衣の肘をつかんで、そのまま高々と差し上げたからたまらない。
「それじゃ、一人は、最初に手を挙げてくれた前田さんにお願いしようかな。もう一人は、最後に手を挙げた佐藤さん。はい、二人とも前に出てきて。前田さんは黒板の廊下側ね。佐藤さんは窓側を使って、自分で考えた例文を書いてちょうだい。みんなに見えるよう、なるべく大きな字で、なるべく高い所に書いてちょうだいよ」
 級友たちが一通り手を挙げた後に一人遅れて手を挙げたものだから妙に目立って、たちどころに真衣も指名されてしまう。
「ほら、さっさと前へ出なきゃ駄目じゃない。一時間目と三時間目の授業を中断させてみんなに迷惑をかけているのに、五時間目も愚図愚図して無駄な時間を使わせる気なの?」
 最初に指名された生徒が勢いよく椅子から立ち上がり、もう黒板の前に立っているというのに、なかなか自分の席を離れようとしない真衣の耳元で美沙が叱責するように言った。
「だ、だって……」
「いいから、早くしなさい。いつまでも愚図っていると、どうして佐藤さんはいつまでも前へ出ないんだろうって却ってあやしまれちゃうわよ。あやしまれて、前へ出られない理由をみんなに知られちゃってもいいの?」
「何をしているの、佐藤さん? 自信がなくてもいいから、とにかく思いついた例文を黒板に書いてごらんなさい。構文の使い方が間違っているなら間違っているで、正しい使い方をみんなで考える教材になるんだから」
「……はい、わかりました」
 美沙にせっつかれても立とうとしなかった真衣だが、教師から促されては返す言葉もない。それに、このまま前へ出るのを拒み続けていれば、美沙の言う通り、級友たちに疑惑の念を抱かせることになるのも間違いない。
 真衣は恨みがましい目で美沙の顔を睨みつけてからのろのろと立ち上がり、何かの拍子でスカートが捲れ上がってしまうのを防ぐため、お尻の方に両手を回して裾を押さえて、いかにも渋々といった感じで歩き出した。

(やっぱりだ。今もお尻が少し膨らんでいるのがスカートの上からでもわかるわ)自分の席の横を通り過ぎて前方へ歩いて行く真衣の後ろ姿をじっとみつめて、茉莉が心の中で呟いた。
 久しぶりに登校してきた真衣の様子が欠席前と比べてなんだか変わっているような気がしてそれとなく観察していた茉莉が先ず気づいたのは、真衣が異様なほどスカートの様子を気にしているということだった。なんといっても年ごろの少女だからスカートの乱れが気になるのはわかるが、男子の目がない女子校ということもあって、少しくらいスカートが捲れあがってパンツが見えたりしても気にも留めない生徒が少なくない中、もともと少し内気なところがあって恥ずかしがり屋の真衣だとはいっても、常にスカートの裾を引っ張る様子は明らかに異様だった。これが、入学時からずっとそんなだったら茉莉も気にしなかったのかもしれないが、欠席前と比べて明らかに過敏になっているから余計に気にかかってしようがなかった。
 そして茉莉が更に気になったのは、教師たちの真衣への気の遣いようだった。いくら校医から指示を受けているとはいえ、授業中でもことあるごとに保健室へ行くよう勧めるさまは尋常ではないように感じられてならない。
 しかも、一時間目の途中に授業を抜け出して二時間目を欠席し、三時間目の直前になって教室へ戻ってきた真衣のお尻が、僅かとはいえ、よく注意して目を凝らすとスカートの上からでもそれとなくわかるほどに膨らんでいることに気がついたのだ。他の級友たちは高等部になって初めての模擬試験や体育大会の話題に夢中でそれどころではないようだったが、もともと生真面目で細かな気配りを欠かさない性格の茉莉だから、保健室へ行く前と戻ってきた後の真衣の変化もすぐに目に留まったのだった。
 とはいえ、その時には、それがどういうことなのか判断に苦しんだものだ。四月とはいえまだ急に寒くなることも珍しくないから、体調を崩しているという真衣が体を冷やさないよう、例えばショーツの上から毛糸のパンツを穿くよう保健室で勧められたとしても不思議ではないし、あるいは、急に生理が始まって厚手のサニタリーショーツに穿き替えてきたとも考えられる。だが、真衣のお尻が、そういったありふれた事情で膨らんでいるのではなさそうに思えてならないのも事実だった。
 様々に絡み合う疑惑の念がピークに達したのは、家庭科の授業が終わると同時に美沙が教師のもとに駈け寄り、何やら囁き交わした後、二人で紙袋を持って教室から出て行く様子を目撃した時だった。最初に声をかけた美沙のなんとも表現しようのない表情と、それに対してどこか困ったようなおどおどした態度で応じる教師。その対比に違和感を覚え、さりげなくあとを追った茉莉が見たのは、保健室に入って行く二人の姿だった。育児実習に使う筈の布おむつを詰め込んだ紙袋を、家庭科実習室ではなく、なぜ保健室なんかへ運び込んだりするのだろう。そこに、なにやら窺い知れない秘密の匂いを嗅ぎつけた茉莉だった。
 そんな経緯があって、茉莉は昼食をそそくさと済ませ、保健室に向かうことにした。一時間目と二時間目との間の休憩時間に保健室を訪れたのは、純粋に真衣の体調を気遣ってのことだった。だが、昼休みにもういちど保健室に足を踏み入れたのは、真衣の容態を気遣うふうを装いつつ、何か自分の知らない真実を突き止めることができるのではないかと思ってのことだった。
 そして、とうとう。真衣は保健室で、思いもしなかった様々な物を目撃してしまった。美沙の唇と真衣の唇とが揃って淡く緑色に染まっている様子。僅かの間だけ聞こえた、赤ん坊の玩具がたてているとしか思えない軽やかな音色。洗濯機の中で温風を受けてくるくる舞う柔らかそうな水玉模様や動物柄の布地と、一瞬だけ目に映った、その布地の端に刺繍された『さとうまい』という文字。真衣の胸元を覆う吸水性のよさそうな布地。それらはどれも、およそ高校の保健室には似つかわしくない物ばかりだった。
 そんな一連の出来事があって、遂に茉莉は、真衣のお尻が丸く膨らんでいる理由に思い至ったのだった。
 茉莉がどんな思いを胸に抱いて自分の後ろ姿をみつめているか知る由もなく、真衣は、机と机の間をゆっくり歩いて行く。スカートが僅かでも捲れ上がらないようにと気を遣うあまり、体の後ろにまわしてスカートの裾を押さえる両手に余分な力が入ってしまい、おむつで膨らんだお尻の丸みが却ってくっきり目立ってしまうことに気づかないまま、小さな歩幅でゆっくりと。

「それじゃ、さっきも言った通り、後ろの席まで見えるよう大きな字でお願いね。それと、あとからみんなで例文の内容をいろいろ考えてみたいから、なるべく長い文章にしてちょうだい。できれば、教科書に出てくるトムとスージーの会話形式で十行以上にしてもらえるかな。その代わり、例文を書くのに授業時間の半分くらい使っていいわ。あと、文章の量のこともあるから、これもさっき言ったように、できるだけ黒板の上の方から書き始めること。いいわね?」
 教師は黒板の前に立った二人に細かく指示をしてから、残りの生徒たちの方に振り向き
「あとのみんなも、二人の例文を見ているだけじゃ駄目よ。めいめい、自分のノートに自分なりの例文を書いてちょうだい。あとで何人か指名してノートの例文を読んでもらうから、その時にできてませんなんてことにならないよう、ちゃんとしておくのよ。じゃ、始めて」
と言って、ぱんと両手を打ち鳴らした。
 黒板の上の方から書き始めなさいと言われても、どちらかというと小柄な真衣が指図されたようにしようとすると、思いきり背伸びをしなければならない。しかし、そうやってチョークを持つ手を精一杯伸ばしたりしたら、制服の上衣もスカートもずり上がって、おむつカバーが見えてしまうかもしれない。
「佐藤さんの自由記述の英文、いつも活き活きした文体だから感心しているのよ。今だって、構文の部分が強調されていれば、他の細かな文法は気にしなくていいから、思ったように書いてごらんなさい」
 どきどき高鳴る胸を押さえてどうしようどうしようと思い悩む真衣に向かって、なかなか黒板にチョークを走らせようとしない本当の理由など知る由もない教師は、優しく励ますように言った。
 いつまでも愚図愚図してちゃ却ってあやしまれるのよ。席を立つ前に美沙から言われた言葉が蘇ってくる。言われなくても、級友たちの前に立っている時間が長引けば長引くほど、スカートの下の恥ずかしい秘密を知られる恐れが大きくなることくらい真衣にも痛いほどわかっていた。
 真衣はおそるおそる後ろを振り返って級友たちの様子を探ったが、誰もが、教師の指示に従って自分のノートにびっしりと英文を書き込んでいるようだった。
(今の内だわ)黒板の高い所さえ埋めてしまえば、あとはスカートの裾を押さえながらでもチョークを走らせることができる。咄嗟にそう判断した真衣は、すっと息を吸い込んで、思いつくまま黒板に英文を書き連ね始めた。
 だが、実は、教室の全員が一斉にノートに鉛筆を走らせている中、茉莉だけはノートに向かわず、真衣の後ろ姿をじっとみつめていた。その視線は、主に真衣の腰から下にかけて注がれ、真衣が黒板の上の方に英文を書くために体を捻った時などスカートがふわっと舞い、同時にお尻の丸みが強調される様子を目にしては、満足そうにうっすらと笑っているようだった。

「どうしたの、園田さん。手が止まっているわよ。いつも真面目な委員長さんがぼんやり前を見ているなんて、どういう風の吹き回し?」
 不意に真衣の耳を教師の声が打った。
 真衣はびくんと肩を震わせ、一瞬だけ躊躇った後、首だけを巡らせておずおずと振り返った。
 と、鉛筆を持とうともせずじっとこちらをみつめている茉莉と目が合う。
 教室中の全員が自分のノートと向き合っているものだとばかり思い込んでいた真衣は、そうでない者が一人いたことを知って思わず悲鳴をあげそうになった。だが、そんなことをすれば他の生徒たちの注意を惹いてしまうと咄嗟に思い至り、掌で自分の唇を押さえて、今にも口を衝いて出そうになっていた金切り声をかろうじて飲み込む。
 そんな真衣とは対照的に、茉莉の方は、真衣に向かってふっと笑ってみせると、生徒たちの授業態度を見まわっていた教師の注意を受けて鉛筆を手にし、もういちど上目遣いに真衣の顔を見てから自分のノートに英文を書き綴り始めた。
(や、やだ。ひょっとしたら気づかれちゃったのかな、園田さんに)茉莉がノートに鉛筆を走らせ始めたのを見届けた後、真衣はおずおずとスカートの裾を下に引っ張り、胸の高鳴りを鎮めるために何度も息を吸ってから、再び黒板に向き直った。
 と、その時、半分ほど開けている窓から春の突風が吹き込んできて、生徒たちのノートや教科書のページをぱらぱらと勝手にめくり、教室のあちらこちらで黄色い声があがった。真衣は顔色を変えてスカートを押さえたが、一瞬遅く、風に煽られてスカートの裾が太腿のあたりまで舞い上がってしまった。
 それを慌てて整えようとして体をよじった時、再び茉莉と目が合う。目が合っても、茉莉はこともなげにノートのページを繰り、素っ気ない態度で鉛筆を走らせたが、真衣がスカートの下に着けている恥ずかしい下着をくっきりと両目に焼き付けたことは確実だった。
 幸い、他の級友たちや教師は突風に乱されたノートや髪を整えるのに夢中で、茉莉の他に真衣の秘密に気づいた者はいないようだった。だが、それはなんの慰めにもならない。
 真衣は頬をかっと熱くし、下唇を噛みしめて顔をそむけ、のろのろと茉莉に背中を向けるしかなかった。

 その後、わっと叫んで教室から逃げ出しそうになる衝動をかろうじて抑えこみ、あまりの羞恥に気が遠くなりそうになるのを必死に堪え、ようやく黒板の三分の二ほどを英文で埋めた頃、真衣の口から、うっという呻き声が漏れた。誰の耳にも届いていないと思われるような小さな声だったが、課題の例文を綴りながら注意深く真衣の様子を見守っていた美沙は、微かな肩の震えや、控えめながらもじもじと両脚の腿を擦り合わせる様子から、たった今真衣が呻き声を漏らしたことを我がことのように見透かしていた。
 むろん、真衣が呻き声を漏らした理由も充分に承知している。
(さ、これからどうするのかな、真衣ちゃん? 全部書き終えるまで自分の席へは戻れないわよ。かといって、私がそっちへ行ってなんとかしてあげることもできないし。どうやって切り抜けるか、楽しく見物させてもらうわね)美沙はそれまでの文章を吟味するふりをしてノートを鉛筆の先でとんとん叩きながら、上目遣いに真衣の後ろ姿を見据えた。
 四時間目の途中におむつを濡らしてしまってからおよそ二時間。教師から指名された時には既に自分の意志で排尿もままならない段階に達し、黒板に向かって例文を書き始めて少し経った頃には、時おり下腹部に鈍痛を覚えるまでになっていた。それが、いよいよ、その場に立っているのがやっとという状況にまで追い込まれてしまったのだ。
 真衣はおそるおそる振り向き、涙で潤む瞳をきょときょとさせて級友たちの様子を探ったが、誰もまだ課題を済ませていないようで、全員がノートと向かい合ったままなのを確認すると、教師に見咎められないよう続きを書くふうを装って右手のチョークを黒板に押し当て、次の文章を考えてでもいるかのように僅かに首をかしげつつ、左手で注意深く制服の胸ポケットをまさぐった。
 お目当ての物はすぐ指に触れた。
 真衣は浅い呼吸を何度か繰り返してから、指先に触れたそれを親指と人差指ではさみ持った。だが、いったんは決心したものの、いざとなると、それを胸ポケットから取り出すことはなかなかできない。
 けれど、それが当たり前だ。級友たちに背を向けているとはいえ、教室の中でも一番目立つ所にある黒板と向かい合った状態でおしゃぶりを口にふくむことなど、そう易々と実行に移せるわけがない。
 しかし、このまま立ちすくんでいれば、いずれ、更に高まる尿意と下腹部の鈍痛に耐えかねて、この場にしゃがみこんでしまうことになるのは目に見えている。そんなことになって真衣の体調を気遣う級友たちや教師に体のあちらこちらの様子を探られでもしたら、胸ポケットに隠し持っているおしゃぶりやショーツの代わりに身に着けているおむつが、たちまちのうちに大勢の目にさらされてしまうに違いない。それどころか、更に尿意に耐え続けているうち、突如として本当の我慢の限界を迎えて、級友たちの目の前でおむつを汚してしまうことにさえなりかねない。我慢に我慢を重ねた後の粗相になれば、おしゃぶりを咥えてじわじわ漏らすのとは比べようもないほどのおしっこの量と勢いになるだろう。おむつが吸収しきれなかったおしっこがおむつカバーから沁み出して真衣の足を伝い落ち、足元に恥ずかしい水溜まりをつくる恐れも充分にある。
 真衣はもういちど浅い呼吸を繰り返すと、級友たちの席をちらちら見渡して意を決し、胸ポケットからおしゃぶりをそっと取り出して口にふくんだ。
 口にふくんだおしゃぶりを一度だけちゅうと吸った途端、たちまちにして膀胱の緊張が解け、下腹部の鈍痛がすっと消えると同時に、生温かい液体がじわっと溢れ出る感触があった。
(わ、私、なんてことしてるんだろう。みんなの目の前で赤ちゃんみたいにおしゃぶりなんか咥えて、小っちゃい子みたいにおもらしをしちゃってるんだ。それも、赤ちゃんそのまま、おむつの中に。や、やだ。本当に私ったら、なんてことを。でも、でも……)最初はじくっと湿っぽい感じがあっただけなのに、それがすぐにじわじわ広がって、すぐにぐっしょり濡れた感じに変わってゆく。真衣は、自分の下腹部から伝わってくる恥ずかしい感触に今にも膝から下が崩れ落ちそうになるのをなけなしの気力を振り絞って堪え、おしゃぶりを咥えているせいで口の中に溜まってくる唾をごくりと飲み込みながら、痛みの消えた下腹部にそれまで感じたことのないじんじん疼くような痺れを覚え、それが何なのか自分自身でわからないことに戸惑いつつも、その奇妙な感覚に身をまかせていた。
 そんなどこか恍惚とした表情を浮かべる真衣の横顔は、春の日差しを受けて、うっすらとながら窓ガラスに映っていた。そのことに真衣自身はおろか教師や生徒たちも気づいていない。だが、級友たちの中でただ二人、美沙と茉莉は、窓ガラスに映るおしゃぶりを咥えた真衣の横顔を目にして、なんともいいようのない笑みを浮かべていた。



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