ママは私だけの校医さん



   《26 特別補習》


 久々の登校から十日ほどが経って四月も終わりに近づき、ゴールデンウィークが始まってすぐの土曜日。休日だというのに、いつもと同じように車で学院の正門をくぐる美幸の姿があった。
 だが、いつものカジュアルな装いではなく、何か特別な行事でもあるのか、胸に小振りのコサージュをあしらったオフホワイトのスーツに真珠のネックレスといういでたちだ。しかも、正門を通り抜けた美幸の車は、高等部の職員専用の駐車場に向かうコースを逸れて走り続ける。
 結局、美幸が車を駐めたのは、学院の敷地の中でも最も奥まった場所にある駐車場の一角だった。

「さ、着いたわよ。おりてらっしゃい」
 美幸は、休日ということで他の車が一台も駐まっていない広々した駐車場で自分の車のドアを目一杯に引き開け、後部座席に座っている真衣に向かって声をかけた。
「い、いや……こんなこと、許して。……お願いだから」
 真衣は座席で身をすくめ、激しく首を振るばかりで、なかなか車からおりようとしない。
「今更なにを言っているの。せっかく高等部の校長先生と教頭先生が幼稚舎の園長先生にお願いして特別にお許しをいただいてくださったのに、そのご厚意を無駄にする気なの?」
 美幸は大きく開け放ったドアから上半身を車の中に突っ込み、真衣の体を固定しているシートベルトの金具に指をかけた。
「や、やだったら……どうしてこんなことをしなきゃいけないのよ」
 真衣は体をよじった。
 だが、そんなことで美幸の手から逃れることはできない。なにせ、真衣の体を固定しているのは普通のシートベルトではなく、医院に療養装具を納入している業者に依頼して造ってもらった特製のチャイルドシートなのだから。
「どうしてこんなことをって言うけど、仕方ないでしょ? 一昨日、真衣ちゃんが保健室で宿題をしている時、わざわざ教頭先生がいらして、授業の出席時間が不足しそうだから、このままじゃ進級できそうにありませんっておっしゃったんじゃなかったっけ? でも、お父様が外国へ出張中にそんなことが決まっちゃったら大変だから、なんとかなりませんかってママが教頭先生にお願いして、いろいろ考えていただいたんじゃない。それで、結局、校長先生と教頭先生のご尽力で、こっちへ出席した時間を高等部の授業時間に振り替えていただけるようにしていただけたのよ。まさか、先生方にご迷惑をかけたこと、忘れたわけじゃないでしょうね?」
 美幸はチャイルドシートのベルトを外しながら、強い調子で言った。
 叱責するような調子でそう言われた真衣は、しょげ返った表情で黙りこんでしまう。
「ほら、おりてらっしゃいったら」
 美幸はチャイルドシートのベルトを外し、言い返す言葉をみつけられず押し黙ってしまった真衣の手首をつかんで強引に車から引きおろした。
 そこへ、五月を目前に控えて若葉の匂いがしそうな爽やかな風が吹き渡り、制服のスカートをふわっと舞い上がらせた。
「いやっ!」
 真衣が金切り声をあげてスカートの裾を押さえようとする。
 しかし、今日の真衣が着ているのは、制服とはいってもいつものセーラー服ではないためスカート丈も異なり、裾を押さえるのに手間取って、もたもたしている間に、布おむつでぷっくり膨れたおむつカバーが丸見えになってしまっていた。
 しかも、風がおさまってスカートが元通りになっても、セーラー服に比べると丈が短いせいで、かろうじて隠れるか隠れないかといったおむつカバーが、そよ風が吹いて少し揺れるだけでも僅かながら見えてしまう。
「うふふ。さすが、お裁縫が得意な美沙お姉ちゃんだこと。スカート丈もちょうどいい感じに仕上がっているわ」
 美幸は、真衣のスカートの裾から微かに見え隠れするおむつカバーを面白そうに眺めながら含み笑いを漏らした。
「ちょうどなんかじゃない。こんな、こんな……おむつカバーが見えちゃうような短いスカートがちょうどいいわけなんてない」
 美幸の含み笑いを耳にした真衣は、今にも消え入りそうな声で弱々しく言った。
「何を言っているの。やっとよちよち歩きができるようになったばかりの小っちゃい子には、うんと短いスカートがお似合いなのよ。じゃないと、スカートがまとわりついて上手にあんよが出来ないんだから。――ほら、ここになんて書いてある?」
 美幸はあやすように言って、真衣が着ている制服の胸元を指差した。そこには、黄色いひよこの形をした名札が安全ピンで留めてあり、その名札には
「……けいめいじょがくいん、よ、ようちしゃ……ねんしょうクラス……ひよこぐみ、さとうまい」
と、美幸に強要されて真衣が渋々読み上げる通り、『啓明女学院幼稚舎 年少クラス・ひよこ組 佐藤真衣』という文字が平仮名で記されていた。
「わかったでしょう? 年少さんの、それもまだおむつの外れない真衣ちゃんが丈の長いスカートなんか穿いたら、あんよがスカートに絡まってすぐにころんしちゃうのよ。そんなことにならないよう、美沙お姉ちゃんが気を遣って作ってくれたんだから」
 美幸は勝ち誇ったように言って、満足げに微笑んだ。
 美幸が車を駐めたのは、幼稚舎の職員が使う駐車場だった。そして、真衣が身に着けている制服こそ、啓明女学院幼稚舎の制服だ。
 啓明女学院は幼稚舎から高等部まで、一貫してセーラータイプの制服を採用している。高等部の制服はいつも真衣が身に着けているものだし、中等部の制服は、高等部の制服に似ているが、一つ一つのラインや襟の縁などに幾らか丸みをもたせたデザインに仕上がっているため、両者を区別するのは難しくない。初等部の制服は、高等部や中等部と同じく上下セパレートにはなっているものの、一年生と六年生との体格差が大きいということもあって、中に着る物や成長度合いに合わせてサイズを調整しやすいようにタックやプリーツを多用し、体のラインがなるべく目立たない仕立てになっている。そして、幼稚舎になると、セーラー服とはいっても、上下が分かれているのではなく、やや薄手の生地でできた上衣の裾を柔らかいラインで下の方まで伸ばし、その伸ばした部分がそのままふんわりしたスカートになるようにデザインされたワンピースタイプのセーラースーツになっていた。幼児が着たり脱いだりしやすいように大きく開けた胸元を、着用した時にはボーダー柄の中ほどに啓明女学院の院章をあしらった胸当てで塞ぎ、純白の大きな襟の縁取りラインが鮮やかな、おしゃまな感じと子供らしい可愛らしさとを併せ持つ、いかにも幼い女の子の憧れの的といった仕上がりのセーラースーツだ。
 今日の真衣が身に着けているのは、そんな、啓明女学院幼稚舎の制服だ。もっとも、真衣がいくら小柄だといっても、幼稚舎の制服を着られるわけがない。そこで、美沙がお得意の裁縫で縫い上げたのが、今まさに真衣が着ているセーラースーツというわけだった。しかし、お手製ながら、生地は本物の制服を取り扱っている業者から取り寄せた物だし、基本的なラインにしたって、これも業者から取り寄せた型紙を拡大し、それを元に真衣の体つきに合わせて細部をアレンジした上で美沙が入念に手縫いで仕上げたわけだから、破綻なく綺麗にまとまっている。そこにひよこの形をした名札を安全ピンで留めれば、どこからどう見ても、啓明女学院幼稚舎の正式な制服そのものだ。
 幼稚舎の制服であるセーラースーツを着て、名札と同じ黄色の通園鞄を肩から掛けた真衣と、上品なオフホワイトのスーツ姿の美幸とが並ぶと、まるで、幼稚舎の入園式に臨む親子連れさながらだった。
 いや、実は『さながら』どころか、これから二人は、実際に啓明女学院幼稚舎の入園式に出席するために、休日だというのに学院を訪れているのだった――。

 二日前、いつものように保健室で執務机の一角を借りて宿題に取りかかろうとしていた真衣のもとへ教頭が訪れた。そして、いささか言いにくそうにしながら、このままだと授業への出席時間が不足するため進級できなくなりそうだと告げ、出席時間に振り替えることができる特別補習を受けるよう真衣に勧めたのだった。
 ただ、特別補習といっても、教頭の簡単な説明によると、出席時間が不足する教科ごとに正規時間外の追加授業を行うわけではなく、その代替措置として、伝統を重んずる啓明女学院の歴史と校風について再教育を施すことに主眼を置いた内容になっているということだった。茉莉たち生え抜きの生徒とは違って真衣や美沙のように途中から啓明に入学した生徒は、入学式の前に二日間、啓明女学院の成り立ちから現在までの歴史や校風をみっちり教えこまれる。もちろん、真衣も高等部の入学式を迎える直前の二日間、他の中学校からやって来た生徒たちと一緒に事前説明会として理事長や校長から直々に啓明の歴史を聞かされ、啓明の生徒として遵守すべき事柄を微に入り細をうがって教えられたのだが、そういった説明会の発展版のようなものを真衣に受けさせて、それをもって不足する授業時間に振り替えることが可能だというのだ。本来なら、出席時間が不足する教科ごとに補習を受けることが望ましいのだが、真衣の場合は日に何度も途中で授業を抜け出すため、特定の教科の補習では間に合わず、かといって全ての教科において補習を実施するとなると教師にかかる負担が重くなりすぎるから、教科ごとの補習は現実的ではないと判断された結果の、ぎりぎり実施可能な代替措置というわけだった。
 むろん、真衣に否のあろう筈がない。簡単な説明を聞いただけで、真衣は教頭の申し出を即座に受諾してしまった。
 まさか、それが、これまで以上の羞恥と屈辱を真衣に受け容れさせるために美幸が仕掛けた罠だとも知らずに。
 実は、学校側としては、出席日数さえ足りていれば、各々の教科ごとの出席時間まで進級の可否を判定する材料にするつもりはなかった。登校した日数が足りていて定期テストでそれなりの点数を取れば、真衣を進級させることになんら問題は無いという判断だった。それが、ある日、美幸の方から、他の生徒にしめしをつけるためにも進級の判定は厳しく行うべきだという申し出があったのだ。それも、申し出が聞き入れられない場合は辞職も厭わないという、いささか穏やかならざる言葉まで添えて。名門といわれる啓明でも生徒を募集する際に困難が伴う少子化のこの時勢、卒業生であり経験豊かな女医である美幸の存在は、入校希望者を集めるための格好の宣伝材料になる。ここで美幸を手放すわけにはゆかないという判断もあって、結局、美幸の意向に沿うような形で教頭が真衣に特別補習を勧めたというのが真相だった。それも、真衣だけのために美幸がカリキュラムを組んだ、文字通り『特別な』内容の補習を。
 特別補習は、通常の授業の妨げにならないよう、学校が休みになる土曜日と日曜日を使って行われることになった。その初日こそが、ゴールデンウィークが始まってすぐの土曜日というわけだった。
 そして、その日の朝、大きなベビーベッドの上で目覚めた真衣は、美幸の手で、高等部の制服であるセーラー服ではなく、幼稚舎の制服であるセーラースーツを着せられたのだ。それも、年少クラスを示す名札が胸元に留められた、スカート丈の短いセーラースーツを。この時になってようやく真衣は美幸の企みに気がついた。しかし、もはや全ては手遅れだった。
 
 ――そんな経緯があって、特別補習という口実のもと、高校生の身でありながら土曜日と日曜日は幼稚舎への通園を強要されることなった真衣。
「ほら、いつまでもこんな所でぐずってちゃ駄目でしょ。せっかくの入園式に遅刻したらどうするの」
 美幸は、スカートの裾を押さえたきりなかなか歩き出そうとしない真衣のお尻をおむつカバーの上からぽんと叩くと、華奢な手首をつかんでさっさと歩き出した。




 駐車場から塀沿いにしばらく通路を歩くと幼稚舎の表門が見えてくる。
「ほら、見てごらん。真衣ちゃんのために先生方が用意してくださったのよ」
 真衣の手を引いて歩きながら、近づいて来る表門を美幸が指差した。
 幼稚舎の門をアーチ型に彩る飾り付け、門の横に立てかけられた『けいめいじょがくいんようちしゃ りんじにゅうえんしき』と記された大きめの看板や、それに寄り添うように立てかけられた『さとうまいちゃん にゅうえんおめでとう』と記された小振りの看板といった物が、言われて渋々視線を向けた真衣の目に映る。
「ま、真衣……本当に幼稚舎に……」
 真衣は、自分の名前が平仮名で書かれた看板と、セーラースーツの胸元の名札とをおずおずと見比べ、スカートの裾を押さえることも忘れて弱々しく呟いた。けれど、最後まで言葉にできずに途中で口をつぐんでしまう。
「そうよ、今日と明日の二日間、真衣ちゃんは幼稚舎に通うのよ。そうして、月曜日がきたら高校生に戻るの。でも、その次のお休みの日になったら、また可愛い幼稚園児になるのよ。そんなことを何度も何度も繰り返してから、次は初等部に入学して、やっぱり同じように高等部と初等部の生活を交互に経験して、その後は中等部。そんなふうにして、中等部の出席日数もいっぱいになって、啓明女学院にふさわしい女の子に成長したら、今度こそ本当の高等部の生徒になって二年生に進級できるのよ」
 美幸は教え諭すように言い、門の向こう側からこちらに向かって歩いてくる人影に気づくと、
「ほら、先生方がいらっしゃるから、ちゃんと御挨拶しなきゃ駄目よ」
と真衣の肩を叩いて、ゆっくり近づいて来る二つの人影の方に顔を向けさせた。
 と、向こうもこちらに気がついたのだろう、それまでゆっくり歩いていた二つの人影が揃って足早になったかと思うと、その内の一人が大きく手を振ってみせ、
「やっほ〜、真衣ちゃーん。今朝は入園式の準備をするために真衣ちゃんよりもずっと早く出かけなきゃいけなかったから、お家でおはようの挨拶をできなかったわね。だから、その代わり、ここでしておくわね。改めて、おはよう、真衣ちゃん」
と、弾んだ声で話しかけてきた。
「え……?」
 不意に名前を呼ばれた真衣は一瞬きょとんとした表情になったが、駈け寄ってくる人影に目を凝らし、それが誰なのかわかると、目を大きく見開いて驚きの声をあげた。
「お、お姉ちゃん!? 美沙お姉ちゃんと茉莉お姉ちゃんがどうしてこんな所に!?」
 真衣が驚くのも無理はない。先生方だと言って美幸が指差した人影が美沙と茉莉だったのだから。しかも二人とも、いつものセーラー服ではなく、実際の年齢よりもずっと大人びて見えるツーピースのシックなスーツを身に着けた上に、髪をアップにまとめているから尚更だ。
 一方、美幸は
「ほらほら、そんな態度じゃ駄目でしょ、美沙。ここにいる間は美沙も茉莉も真衣ちゃんのお姉ちゃんじゃなくて啓明女学院幼稚舎・年少クラス・ひよこ組の臨時担任教諭と副担任なんだから、もう少し威厳をしめさなきゃ」
と、美沙に向かって注意を促す。しかし、どこかおどけた様子なのも隠そうとはしない。
「あ、ごめん、ママ。――ううん、じゃなかった、佐藤真衣ちゃんのお母様。担任としての自覚が足りませんでした。これから注意しますので、今回の件はお許しください」
 美幸に合わせて美沙が、やはり少し悪戯めいた口調で応じた。
「先生……お姉ちゃんたちが幼稚舎の先生?」
 まだ驚きがおさまらない真衣は、きょとんとした顔で誰にともなく聞き返した。
「そうよ、美沙お姉ちゃんが担任の先生で、茉莉お姉ちゃんが副担任の先生。もちろん、真衣ちゃんが入る年少クラス・ひばり組のね」
 美幸は三人の顔を順番に見まわしてそう言い、くすりと笑って付け加えた。
「もっとも、ひよこ組には真衣ちゃん一人しかいないから、先生の方が多くなっちゃうんだけどね。でも、幼稚舎のお姉ちゃんなのにおむつ離れできないような手のかかる真衣ちゃんのお世話をしなきゃいけないんだから、先生の数は多いにこしたことはないかな」
 厚生労働省が所管する保育園だと、三年保育の所が当たり前だし、二歳児クラスを設けたり月齢六ケ月くらいの赤ん坊から預かる施設も少なくない。それに対して、文部科学省の所管になる幼稚園の場合、長くても二年保育というのが一般的だ。啓明女学院幼稚舎も例外ではなく、年中クラスと年長クラスでの保育を原則とし、年中クラスには『すずめ組』と『ひばり組』、年長クラスには『はと組』と『かもめ組』というふうに、それぞれのクラスに二つずつ組を設置した編成になっている。啓明女学院幼稚舎の組織図を丹念に眺めても、真衣が入ることになっている『年少クラス』という名も『ひよこ組』という名も見当たらない。その事実からも、『年少クラス・ひよこ組』というのが真衣だけのために特別に設けられた学級だということが明かだ。
「で、でも……」
「あら、お姉ちゃんたちに先生になってもらうのはいやなのかな? だったら、幼稚舎の正式な先生に真衣ちゃんのお世話をお願いしなきゃいけないわね。いいわよ、それでも。高等部の校長先生を通してお願いすれば幼稚舎の園長先生も快く承諾してくださるでしょうし」
 思わず抗弁しかける真衣の言葉を遮って、美幸はしれっとした顔で言った。しかし、そんなことになったら、恥ずかしい秘密を幼稚舎の教諭たちにまで知られてしまう。取り澄ました顔でこともなげにそう言う美幸の前に、真衣は押し黙るしかなかった。
「どうやら、お姉ちゃんたちが先生になってくれた方がいいって真衣ちゃんにもわかったみたいね。これでこそ、校長先生にお願いした甲斐があるってもんだわ。大学は幼児教育科に進んで将来は保育園か幼稚園の先生を目指している美沙お姉ちゃんと、幼稚舎からずっと啓明に通っていて、一度も外れることなくクラス委員長をずっと務めている茉莉お姉ちゃん。この二人の組み合わせなら、きっと真衣ちゃんを啓明女学院の幼稚舎にふさわしい素直で可愛い園児さんに躾け直してくれるわよ」
 しょげ返った顔つきで口をつぐむ真衣に向かって念を押すように言ってから、美幸はスーツ姿の二人に目配せをした。
「それでは、あとのことは私たちにおまかせください。お子様に入園式の手順を説明してから改めてお連れしますので、お母様は、ここから、入園式の会場にお入りいただいて結構です。本来ですと入園式は講堂で行われるのですが、一人だけの臨時入園式ということで、教室を会場として使うことになっています。ただ、真衣ちゃん一人のために新しい教室を用意することもできませんので、年中クラス・すずめ組の教室を借りて、これからの保育も本日の臨時入園式も、そちらで進める手筈になっています。お間違えのないよう、そちらへお願いいたします」
 合図を受けた茉莉が、いかにも幼稚舎の教諭然としたふうを装い、如才ない口ぶりで美幸に説明した。
「承知しました。娘のことはよろしくお願いいたします。――いいわね、真衣ちゃん。先生方の言いつけをちゃんと守って、いい子にするのよ。ママは先に入園式の会場へ行って保護者席で待っているから、寂しくても泣いちゃ駄目よ」
 美幸も調子を合わせ、我が子を幼稚舎の教諭に預ける母親を演じてそう言うと、わざとのように恭しくお辞儀をして、入園式の会場に向かった。




 臨時入園式の会場にあてられている年中クラス・すずめ組の教室は、椅子や机の半分ほどが後ろの方に押しやられて部屋の前側が空けられ、入り口の縁に沿って紅白の造花が幾つも飾り付けられていて、小振りの黒板にはピンクのチョークで書かれた『さとうまいちゃん、おめでとう』という花文字が躍っていた。
 靴をスリッパに履き替え、少し窮屈な思いをしながら子供用の椅子に腰かけて美幸が待っていると、ほどなくビバルディ作曲の《春・第一楽章》がスピーカーから流れ出し、
「ただいまより、平成××年度、啓明女学院幼稚舎の臨時入園式を執り行います。本日、入園を許可された者、佐藤真衣、以上一名。今日から新しく当幼稚舎の園児の仲間入りをする児童が入場しますので、保護者の方は拍手でお迎えください」
という美沙の声がマイクを通して重なった。
 と、造花に縁取りされた扉が開いて、スーツ姿の茉莉が入ってきた。そのあとに、手を引かれた真衣が続く。通園用の靴から履き替えさせられた上履きの底ゴムが板張りの床と擦れ合って歩を進めるたびにきゅっきゅ鳴るのがいかにも幼児めいた感じで、真衣の頬がうっすらとピンクに染まる。
 それを見た美幸が両手を打ち鳴らして、時ならぬ入園式が始まった。

 美沙と茉莉が交互に園長や育友会々長の代役を演じて歓迎の言葉や祝辞を述べ、テープによる園歌の演奏があって、一人きりの臨時入園式は滞りなく進行し、やがて式次第は新入園児による挨拶の順番になった。
「はい、これを読んでちょうだい。啓明の幼稚舎に入る子は入園前でも平仮名くらいは読めるようになっている筈だから、真衣ちゃんも大丈夫だよね? でも、もしも読めない字があったら先生に言ってね。助けてあげるから」
 式次第の進行を示すめくりの頁を繰ってから、茉莉が、スーツのポケットから取り出した四つ折りの紙を広げて真衣に手渡し、背中を押して前方に押しやった。
 保護者席の美幸と目が合った真衣は思わず視線を床に落としたが、マイクスタンドを運んできた美沙に、挨拶文を書いた紙を正面に持ってちゃんと前を向きなさいと叱責され、強引に顔を上げさせられてしまう。
 再び美幸と目が合った真衣は、顔を伏せる代わりに、挨拶文の用紙を凝視するしかなかった。そうして、三人の視線を痛いほど感じつつ、紙に書かれた『ごあいさつ』を口に出して読むしか。
「にゅうえんのごあいさつ。とってもきもちのいいはるになって、まち……まちこがれていたようちしゃにはいれることになりました。……ここにはいないけど、ねんちょうクラスとねんちゅうクラスのおねえさん。きょうからけいめいじょがくいんようち……ようちしゃのなかまになるさとうまいです」
 マイクを通して聞こえる真衣の声は、羞恥のため小刻みに震えていた。しかも、平仮名ばかりの文章は意外に読みにくく、所々言葉に詰まってしまう。そのため、どこかたどたどしく舌足らずな幼児めいた口調になってしまうのが自分でも情けない。
「わ、わたしは、ねんちゅうクラスにはいれないから、とくべつに、ねんしょうクラスにいれてもらうことになりました。どうしてねんちゅうクラスにはいれないかというと、まだ、お……おもらしがなおらなくて……お、おむ……」
 それまでも言葉に詰まりぎみだった真衣だが、とうとう今度は完全に口をつぐんでしまう。
「あら、どうしたの? 今までは上手に読めていたのに、知らない字が出てきたのかな?だったら先生が読み方を教えてあげるから、見せてごらん」
 壁際に立ってことの成り行きを見守っていた茉莉が歩み寄って、真衣が小刻みに震える手で持っている紙を覗きこんだ。
「ああ、これはね、『おむつ』って読むのよ。いい? お・む・つ、よ。わかるわよね、だって、こうして真衣ちゃんもあてているんだもの、おむつを。さ、わかったら続きを読んでちょうだい」
 改めて『おむつ』という言葉を文字として目にすると、恥ずかしさのあまり口に出して読むことができなくなってしまう。そんな真衣の胸の内を充分に承知しながら、茉莉は何度も繰り返し『おむつ』という言葉を言って聞かせ、おむつで丸く膨らんだ真衣のお尻をスカート越しにぽんと叩いた。
「……お、おむつがはずれないからです。だから、もうおむつじゃなくてパンツのおねえちゃんになったねんちゅうくらすのおねえさんたちとちがって、ひとりだけ、ねんしょうクラスにはいることになりました。……それと、わたし、ほんとうは、じゅ、じゅう……」
 茉莉に促され、マイクを通しても聞こえるか聞こえないかの力ない声を振り絞る真衣だったが、そこまで読んだところで再び押し黙ってしまった。
「今度はどんな字が読めないのかな?」
 いったん壁際に退いた茉莉が改めて真衣の傍らにやって来て、どこで詰まっているのか前もってわかっているくせに、わざと挨拶文に目を通してしばらく考えるふりをしてから
「ああ、数字が読めなかったのね。そうね、二桁の数字だもん、読めなくても仕方ないわよね。じゃ、先生が教えてあげるわね。いい? 最初は1で『いち』、次のが6で『ろく』なんだけど、続けて読む時は『いちろく』じゃなくて『じゅうろく』って読むのよ。さ、お口に出して読んでごらん」
と、これ以上はないくらい優しい声で教え、必要もないのに、これみよがしにマイクスタンドの位置を調整した。
「……わたし、ほ、ほんとうは、じゅう……ろく……じゅうろくさいなのに、まだおむつばなれできないから、ねんしょうクラスにいれてもらうことになりました。ねんしょうクラスだから、ねんちょうクラスやねんちゅうクラスのおねえさんたちからみると、まだなにもできないいもうとです。と、としはわたしのほうがうえだけど、ほんとうはいもうとです。だから……かわいがってくださいね、ここにはいないねんちょうクラスとねんちゅうクラスのおねえさん。それと、わたしがけいめいじょがくいんようちしゃのえんじとしていけないことをしたら、ちゃんとしかってください。おねがいします」
 自分の実際の年齢をわざわざ文字にして改めて思い知らされ、その上、本当は自分よりもずっと年下の(たとえ、この場にはいないとしても)幼児を『お姉さん』と呼ばされる屈辱に、真衣の胸は今にも張り裂けそうだった。しかし、口をつぐんだままだと、今度はどんな目に遭わされるかしれたものではない。
 真衣には、浅い呼吸を何度か繰り返してから、続きの文章を口にするしかなかった。
「それと、おとうさん、おかあさん、わたしをいままでそだててくれてありがとう。これまではわがままをいってばかりのあかちゃんだったけど、きょうからようちしゃのおねえちゃんです。……うえのクラスのおあねさんたちにくらべるとまだあかちゃんだけど、でも、おねえさんたちをみならって、もっともっとすなおないいこになるようがんばります。だけど、あまえんぼうなのはなおらないから、ようちしゃにいるあいだはおねえちゃんになってがんばるけど、おうちにかえったらおもいきりあまえさせてください」
 その言葉に、美幸がとびきりの笑顔になって大きく頷いている。美幸と目に合わさないよう挨拶文から視線を外そうとしない真衣にも、その様子がありありと伝わってきた。
(おかあさん……十何年も前、私が本当の幼稚園に入園した日、私が幼稚園の門をくぐるのをどんな気持ちで見ていてくれたんだろう。私が上級生のお姉さんに手を引いてもらってステージに上がるのを父兄席からどんな顔で見ていてくれたんだろう。お母さん……あの時の私、もうおむつなんて外れていたよね。なのに、今の私、幼稚舎の制服の裾からおむつカバーをみせて、十六歳のくせして、幼稚舎の入園式にいるんだよ。お母さん、私……私、どうなっちゃうの!?)真衣は、鼻の奥がつんと痛くなるのを感じながら、胸の中で切なく呟いた。
 しかし、そんな真衣の胸の内を知ってか知らずか、茉莉がぽんとお尻を叩いて尚も先を促す。
「さいごに、せんせいがたにおねがいがあります。いちばんおくれてようちしゃにはいるわたしは、ようちしゃのなかでいちばんいもうとだから、いろいろごめいわくをかけるとおもいます。でも、せんせいがたのいいつけをまもっていいこになるようがんばるから、いろいろおしえてください。きょうからよろしくおねがいします。へいせい××ねんしがつ××にち。けいめいじょがくいんようちしゃ、しんにゅうえんじだいひょう、ねんしょうクラスひよこぐみ、さとうまい」
 どうにか最後まで挨拶文を読み上げた真衣がおそるおそるお辞儀をするのを待って、美沙がマイクを握った。
「新入園児を代表して、ひよこ組の佐藤真衣ちゃんがご挨拶してくれました。ちょっと緊張していたみたいだけど、わからない字を先生に教えてもらったのは二回だけで、年少クラスとは思えないほどしっかり読めましたね。この調子なら、上のクラスのお姉さんたちを見習って、いい子になってくれること間違いありません。今はおむつの真衣ちゃんだけど、早くパンツのお姉ちゃんになれるよう頑張ろうね。お母様も温かい目で気長に見守ってくださいますよう、担任の私からお願い申し上げます。――それでは、新入園児が退場します。どうか、大きな拍手で送ってあげてください」
 満面の笑みを浮かべて美沙がそう言うのと同時にスピーカーから《小さな世界》の明るいメロディが流れ出し、茉莉が真衣の手を引いて扉の方に歩き出した。保護者席の美幸は、リズムに合わせてテンポよく手拍子を奏でている。
「以上をもちまして、平成××年度の臨時入園式はつつがなく終了いたしました。引き続き、園児・父兄・教諭を交えた入園時オリエンテーションを行いますので、保護者の皆様はそのままの席でお待ちください。園児を連れて教諭が戻り次第、オリエンテーションを開始いたします」
 茉莉と真衣の姿が扉から消えるのを待って、美沙がマイクを通して告げた。保護者の皆様も何も、保護者席には美幸しかいないのだが、真衣を徹底的に新入園児扱いするために、本当の入学式当日の行事を残さずなぞっている様子がありありだ。

 待つほどもなく、いったん教室から出て行った真衣が、入園式の最中はどこかに置いておいたらしい通園鞄を再び肩に掛け、茉莉に手を引かれて戻ってきた。
 待っている間に美沙が手早く椅子と机を動かしてすっかり元の教室に配置を戻しており、戻ってきた真衣は美幸のすぐそばの椅子に座らされ、茉莉は、美幸や真衣と机を挟んで向かい合う位置に置いてある椅子に、美沙と並んで腰をおろした。
「ご挨拶もちゃんとできて、とってもお上手だったわよ、佐藤真衣ちゃん。この調子でこれからも頑張ろうね」
 まず、真衣の向かい側に腰かけた美沙が、少しよそよそしい口調で話しかけた。
 それに対して真衣が弱々しく首を振りながら
「やめようよ。何の冗談か知らないけど、こんな馬鹿げたこと、もうやめようよ」
と訴えかける。
 すると、それまでにこやかな笑みを浮かべていた美幸が突如として厳しい顔つきになり、これ以上はないくらい真剣な声で
「馬鹿げたことじゃありません! 高等部の校長先生や教頭先生、それに幼稚舎の園長先生は、なんとかして真衣ちゃんが進級できるようにご尽力してくださっているのよ。それに、こんな特別補習を高等部の先生方や幼稚舎の先生方にお願いできるわけがないから、お姉ちゃんたちがせっかくのお休みの日だっていうのに手伝ってくれているんじゃないの。それをなんですか、馬鹿げたことだなんてて!」
と叱責する。
「だ、だって……」
 これまで経験したことのない美幸の剣幕に、まだ何か言いたそうにしながらも、つい真衣はたじろんでしまう。
 そこへ、更に嵩にかかって美幸が続けた。
「真衣ちゃんは中学校まで公立だったから知らないと思うけど、進級できないってことは、啓明じゃ大変なことなのよ。あまり不安にさせるといけないから『進級できない』なんて穏やかな表見をしているけど、それって、『落第』のことなんだからね。真衣ちゃん、啓明で『落第』するってことがどういうことか知らないから、みんなが真衣ちゃんのためを思ってやってくれていることを馬鹿げたことだなんて言えるのよ」
 ついさっきに比べれば少しは穏やかな声に戻っているものの、まだ憤懣やるかたないといった美幸の口調だ。
 そこへ茉莉が横合いから割って入って美幸をなだめる。
「ちょっと、ママも落ち着いてちょうだい。ママは啓明の卒業生だし私は幼稚舎から啓明だったからよく知っているけど、真衣ちゃんは中学まで別の学校だったから、まだ知らないことはたくさんあるのよ。それをそんな頭ごなしに叱りつけるのは感心しないわね。ここは、ちゃんと説明してあげなきゃ」
 幼稚舎の臨時教諭からいつもの生真面目な委員長に戻った茉莉が取りなすように言って真衣の方に向き直り、落ち着いた声で続けた。
「啓明では、落第処分が二段階になっているの。たとえば、高等部一年生で第一段階の落第処分を課された場合、次の年度も一年生をやり直さなきゃいけないんだけど、ま、これは他の学校でいうところの落第と同じね。でも、啓明だと、第一段階の落第処分で昨年度と同じ学年をやり直してもまだ進級できるレベルに達してないと判断された場合は、第二段階の落第処分として、強制的に学年を下げられてしまうのよ。それも、たとえば高等部一年生から中等部三年生へ一学年落ちるだけっていうふうに限定されるわけじゃないの。担任と学年主任と教頭先生が相談して、その生徒の学力や態度にふさわしい学年まで何年分も一気に下げられることだってあるの。場合によっては、高等部一年生から初等部まで落とされることもね。しかも、高等部から初等部に落とされて、もうこの学校でやっていく自信をなくして自主的に退学したりすると、学歴としては初等部中退ということになって、別の学校へ転校しようとしても、小学校からのやり直しになっちゃうの。公立の幼稚園、小学校、中学校を卒業して高等部から啓明に入って、啓明で高等部から初等部に落とされたりしたら、公立での小学校卒業と中学校卒業の経歴まで取り消されちゃうことになるのよ。それほど、啓明女学院というところは教育界で力を持っているの。――真衣ちゃんがそんな目に遭わないよう、先生方もママも私たちも必死なの。これで、ママが真衣ちゃんのことをこれまでにないほど厳しく叱った理由がわかってもらえたかな?」
 穏やかな声でそう説明する茉莉の言葉を聞いているうちに真衣の顔がこわばり、顔色を失ってしまう。
 そこへ、追い討ちをかけるように、美幸が茉莉の言葉を引き継いで言った。
「第二段階の落第処分で、高等部から幼稚舎へ落とすこともできるのよ。真衣ちゃんの我儘がひどくて、私たちの言いつけをちっともきかないようなら、真衣ちゃんをこのまま本当に幼稚舎に入れちゃってくださいって高等部の校長先生に進言しなきゃいけなくなるかもね。そしたら、真衣ちゃん、私たちが納得するまで、年少クラス・ひよこ組に何年間も通園することになるのよ。今は年中さんの園児が年長さんになって初等部に入学して、初等部を卒業して中等部に入って、それから高等部も卒業して短大に入学して、保育実習でこの幼稚舎に戻ってくるかもしれない。その時もまだ真衣ちゃんは年少クラスのままで、保育実習にやって来た十何年か前の年中さんにおむつを取り替えてもらうことになるかもしれないわね。それでもいいの?」
「……い、いや! やだ、そんなの!」
 真衣は我を忘れて悲鳴をあげた。
「そうだよね。いやだよね、そんなの。だったら、いい子にして土曜日と日曜日はちゃんと幼稚舎に通おうね。第二段階の落第処分になったら何年間も毎日幼稚舎だけど、いい子にしていたら何ケ月間の土曜日と日曜日だけでいいんだもの。それが終わって初等部と中等部をやっぱり何ケ月間か経験すればちゃんと高等部に戻れるんだもの、いい子にしてられるよね?」
 怯えの色を浮かべる真衣の耳元で美幸が甘く囁きかけた。
 真衣としては、力なく頷くしかなかった。
 それを見た美幸と茉莉がそっと目配せを交わし合う。いくら啓明が教育界において影響力の大きな教育法人とはいえ、生徒のそれまでの学歴、それも義務教育の終了履歴を無効にすることなどできるわけがない。しかし、今の真衣は、二人の説明に対して疑念を抱く余裕もなくしていた。それを見越して美幸と茉莉が行った説明に真衣はまんまとはめられ、高校生でありながら休日は年少クラスの児童として幼稚舎に通うという、特別補習を口実にした羞恥きわまりない仕打ちを受け容れることに同意してしまったのだった。



戻る 目次に戻る 本棚に戻る ホームに戻る 続き