わが故郷は漆黒の闇


【十一】


「そうです。コロニーを円周方向に回転させることで発生する遠心力を擬似的な重力として利用していることは中等教育で習った筈です。でも、その疑似重力が地球の重力の30パーセントしかないということについては、意識している人は多くありません。コロニーの中で生活するぶんには、そんなことを意識する必要が無いからです。でも、地球に帰還する子供たちは、それを意識しないわけにはゆきません」
 コロニーの運用が始まった当初は、コロニーの内側に作用する疑似重力を地球上での重力と同じ1Gにするようにコロニーの回転速度を調整していた。しかし、そのためには、微細なスペースデブリによる摩擦抵抗に抗するために噴射し続けるイオンエンジンの消費するエネルギーが馬鹿にならない。それに、慢性的なエネルギー不足のせいで工作機械をフル稼働させることができないため、コロニーのメンテナンスを行うにも、少しでも負荷を減らす必要があった。そういった様々な理由から、コロニーの運用が始まってすぐ、回転速度を当初数値の約54パーセントに落とすことで、その回転に伴って発生する遠心力を地球上での重力の30パーセントに抑える措置がとられるようになっていたのだ。ケイトが言う通り、コロニーの中で生活する限り、そのことを意識する必要はない。けれど、地球におり立つことになる子供たちには、地球上の重力に慣らせておく必要があった。一見した所ではあまり広そうでもない帰還準備室だが、その奧には、1Gの疑似重力を発生する遠心加速機を初め様々な装置を備えたジムを備えているのだ。
「――簡単に言えば、ここ帰還準備室の役割はそんなところね。わかってもらえたかしら?」
 ケイトは確認するようにボビンに言った。
「はい、おおよそのことは。それで、私たちも、この帰還準備室で地球の生活に慣れるよう勉強をするわけですね。――地球に潜入するために」
 一瞬の間を置いて息を吸い、ボビンは最後の部分を吐息と一緒に押し出すみたいにして言った。
「そういうことです」
 ケイトは小さく頷いた。そうして、あらためて三人の顔を順番に見渡してから続ける。
「でも、あなたたちが身に付けなければならないのは地球の生活に関する知識だけではありません。ブリーフィングでも簡単に触れたように、あなたたちには地球に帰還する子供たちになりすましてもらうのですから、それなりの仕草や振る舞いを身に付ける必要もあります。そのために、普通なら三十日間で済む準備期間を、あなたたちに限って七十日間に延長しているのです。そのことも肝に銘じておいてください」
「承知しました。ところで、地球に潜入した後、どのような工作を行えばいいのでしょうか」
 表情を引き締めてカタンが訊いた。
「工作内容に関しては、現在、上層部において検討中です。また、工作に用いる機器については技術局が緊急プロジェクトチームを結成して開発に当たっています。それらについては、決定があり次第あなたたちに知らせます。今は先ず、地球での生活に関する知識を吸収することと、誰の目にも怪しまれないよう幼児としての仕草を身に付けることに専念してください。繰り返しますが、あなたたちは、コロニーに暮らす人々が例外なく連邦に対して抱き続けてきた積年の思いを託されることになるのです。あなたたちを指導する立場としてはもちろん、私個人としても、あなたたちの御武運を心から祈ります」
 軍事組織ではないからいかめしい敬礼の姿勢こそ取らなかったものの、ケイトは、これ以上はないくらい真剣な眼差しで三人の顔を正面から見つめた。

 だが、四人が真剣な面もちで意見交換を行ったのもそこまでだった。一連の説明が一段落ついたところでケイトが
「それでは、あなたたちには今から、保護官の制服を脱いで、これを着用してもらいます。これが新しい制服であると同時に、地球に潜入する特殊工作員としてのバトルスーツということになります」
と言って、淡いブルーの生地でできた衣服の入ったバスケットを一つずつ三人の目の前にそれぞれ差し出した途端、三人が揃って戸惑ったような表情で押し黙ってしまったからだ。
「ん、どうしたの? 急にみんなして黙っちゃって」
 ほのかに頬をピンクに染めてなんだか困ったように互いに顔を見合わせる三人に、ケイトが、からかうみたいな口調で言った。ついさっきまでの意見交換の時とは打って変わった、いかにも気さくな話し方だ。
「どうしたのって……あの、これを私たちが着るんですか?」
 カタンが、自分の目の前のバスケットから淡いブルーのセーラースーツをおずおずとつかみ上げてケイトに訊いた。
「そうだけど、それが何か?」
 ケイトが、しれっとした顔で訊き返す。
「で、でも、あの、これって……地球の幼稚園とかいう幼児教育機関の制服によく似てるんですけど……いえ、資料でしか見たことがないから断定はできませんけど、でも……」
「カタンの言う通り、幼稚園という教育機関の古典的な制服よ。それで?」
「それでって……だから、どうして私たちが幼稚園の制服なんて着なきゃいけないんですか?」
「その理由は説明した筈よ。これからの教育期間を通して三人には小さな子供になりすますための訓練を受けてもらうって。小さな子供の仕種や振る舞いをそのまま身に付けてもらうって。だから、着る物もその目的に合わせて用意しておいたんだけど?」
「それはそうですけど……」
 尚も言い募ろうとして、けれど、ケイトに睨みつけられると、それ以上はカタンもボビンもユリも何も言えなくなってしまう。ケイトは三人を指導してくれた先輩保護官であり、特殊工作チームのコマンダーでもあるのだ。それに、地球の住人に比べれば小柄とはいえ、ユリたち三人に比べれば身長も体重もずっと上だ。そんなケイトに睨みつけられると、それ以上の反論はできない。
 三人にしても、小さな子供の仕種や振る舞いを身に付けるなら、衣類もそれなりの物を着用するよう指示されるかもしれないという予想もしないでもなかった。だが、子供用の衣類と言われて三人が頭に思い浮かべるのは、育児センターでこれまで三人が面倒をみてきた子供たちが身に着けていた簡易スペースジャケットしかなかった。宇宙空間に浮かぶコロニーでは、いつ、どんな事故が起きるかしれない。高速で飛び回るスペースデブリの直撃を受けてコロニーの外皮に穴が開くといった事態も起こり得るのだ。そのため、コロニーで暮らす人々は、屋内にいる時も、耐寒耐熱機能に加えて対宇宙線機能を併せ持つ特殊素材でできた簡易スペースジャケットを身に着けるのが常識になっている。簡易スペースジャケットには、デザインの上では大人用と子供用といった区別はなく、ただ大きさが違うだけだ。一応、子供用には、優先的な保護が必要なことを示す真っ赤なマークが袖と背中に描かれてはいるものの、それはデザインではなく、単なる記号に過ぎない。だから三人は、これからの教育期間、真っ赤なマークの付いた簡易スペースジャケットを着ることになるんだなと漠然と思っていただけだ。まさか、地球上の幼稚園の制服を着せられるなんて想像もしていなかった。




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