わが故郷は漆黒の闇


【二一】


「こ、これで飲むんですか?」
 床にぺたんとお尻をつけて座っているカタンやボビンと違って、まだその場に立ちすくんだままプラスチック製のマグカップを手渡されたユリは、蓋に付いたゴムの乳首を呆然とした表情で見ながら言った。
「そうよ。年長さんだったら片手でも大丈夫だけど、年中さんは片手じゃ落としちゃうかもしれないから両手で持つようになっているの。それで、ユリちゃんみたいな年少さんだと、両手で持てば落とさないけど、カップから直接じゃ上手に飲めなくてこぼしちゃうかもしれないでしょ? だから、飲みやすいように乳首が付いているのよ。それを吸って飲めばこぼさずにすむから。さ、そんなとこに立っちしてないで、お姉ちゃんたちと一緒にお座りして飲みなさい。立っちしたままだと落としちゃうわよ」
 ケイトはそう言って、カタンとボビンの間の床を掌で軽く叩いてみせた。
 しばらく迷って、それでも、渋々ながらユリもケイトの言いつけに従った。すっかり幼稚園児に変身させられてしまった今、そうするより他ないことはユリにもわかっていた。地球に潜入する時、最も相手の警戒心を掻きたてないのがこの格好だということも理性ではわかっていた。わかっていながら、おむつという予想外の恥ずかしい下着に激しい羞恥を覚えて取り乱していたユリだ。
「じゃ、ジュースを飲みながら私の話を聞いてちょうだい。この帰還準備室の施設を簡単に説明します」
 ユリがカタンとボビンの間に座ったのを見て、ケイトは、給仕ロボットを呼び出した時に使ったのと同じ銀色の装置に指をかけてボタンを押した。どうやらその装置は室内の機能を制御するためのコントローラーになっているのだろう、ケイトがボタンを押すと同時に照明がほの暗くなって、三人の目の前の空間にカラーのホログラム立体像が浮かび上がった。
 立体像は、外側から見たコロニー・LP2−C1の姿だった。太陽光を光電池に集光するために大きく突き出た鏡の動きで、コロニーが三分半ほどで円周方向に一回転しているのがわかる。コロニーの内側に暮らす人々には、その回転に伴って発生する遠心力が地球上での重力の30パーセントの疑似重力として作用しているわけだ。
 最初は遠く離れた宙点からコロニーの外観を映し出していた映像は、ぐんぐんとコロニーに近づいて、コロニー外皮まであと僅かという距離まで接近した。すると今度は、外皮に沿って、長軸方向に移動してゆく。やがて映像はコロニー外皮をするっと通り抜けて、コロニーの内側に入りこんだ。そうして、コロニーを茶筒の形に例えるとその蓋の部分にあたる隔壁のすぐ近くに位置する第五ブロック全体を俯瞰する映像が現れ、次に、第五ブロックの中央部分より少し隔壁寄りの場所にある育児センターを上空から眺めた映像が現れたかと思うと、映像は速度を上げて下降を始め、ついには、育児センターの屋根を通り抜けて正面ロビーに到達した。
 育児センターのロビーが映し出された次の瞬間、映像は、古めかしいワイヤーフレームのCG画像に変化した。緑色の輝線で描かれた構造図は、ユリたちもよく知っている育児センター内部の構造図に違いない。だが、それに重なって表示されている水色の輝線が何を描いているのかがわからない。
 三人が揃って思案顔になるのと同時にケイトが口を開いた。
「水色の輝線で描いたワイヤーフレームは、一般の人たちには知られていない通路をしめしています。もともとは複雑に入り組んだエネルギー伝達チューブの点検補修用に設置された通路ですが、そのエネルギー伝達システムはあまりに損失が大きいため、今は廃棄された状態になっています。みんなも知っているように、コロニーではただでさえエネルギー事情が逼迫している状態にあるため、現在では、チューブ方式よりも幾らかリスクは大きいものの伝達損失が殆ど無い空間伝達に置き換えられています」
 ケイトがそこで一旦言葉を途切ると、通路を示すワイヤーフレームの結節点の一つが点滅を始めた。ケイトは、室内の空間に映し出されて点滅を繰り返す結節点の画像に指を触れた。と、結節点の拡大図が現れ、いつしか、それがカラーの立体映像に変化する。カラーの立体映像は、帰還準備室の扉を外側から映し出していた。
「連邦の高官たちから理不尽な要求を突きつけられたLP2−C1自治行政院の幹部会議は、地球からの援助物資の継続を見返りに、その要求を呑まざるを得ない状況に追い込まれました。しかし、そのことを一般住人に知られるわけにはゆきません。日頃から地球連邦に対して憤りを感じている人ばかりですから、連邦高官から理不尽な要求があった事実、それを受け容れることにした事実を知ったら、それこそ、コロニーを地球に向かって落下させるくらいの過激な行動に出るおそれがあるからです。そこで、一般の住人にはその存在を知られていない上に今は全く使われていない通路を使ってしか出入りできない場所に或る目的を持った施設を建造することになりました。それが、ここ、帰還準備室です」
 ケイトは、空間に浮かんでいる立体映像の扉に手を触れた。
 扉がすっと開いて、ユリたちがいる場所が映像として現れる。
 帰還準備室というセクションの概略しか知らなかった三人は、知らず知らずの内にケイトの話に惹きこまれていた。初めて知る事実や、これまで全く知らなかった通路の映像といったものに触れて気持ちが高ぶり、気がつくと、手渡された容器を満たしていたジュースも半分ほど飲んでしまっている。あれほどゴムの乳首に戸惑いの表情をみせたユリさえ、いつのまにかマグカップを両手で支えて乳首を吸っていた。
「あなたたちに着替えてもらう前にも話した通り、ここ帰還準備室は、連邦の高官に引き取られることになった子供に地球での生活風習を教え、地球上の重力に慣れてもらうことを目的に設置されたセクションです。――前世紀に勃発した第二次世界大戦のさなか、ニッポンの国民学校という教育機関には『軍事教練』という科目がありました。それがどういうものか、あなたたちは知っていますか?」
 ケイトの突然の問いかけに、三人は揃って首を横に振った。




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