わが故郷は漆黒の闇


【二八】


「くぅ……」
 突然、ユリの顔つきが変わった。それまではおどおどもじもじしていたのが、きゅっと目を閉じて、なんだか見ようによっては、とろんとしたような表情になっている。
 けれど、すぐにユリはぶるんと首を振って下唇を噛みしめると、ケイトに責められて幾らか開きぎみになっていた両脚を閉じようとする。
「出ちゃった?」
 うふふと笑い声をたてながらケイトはユリの顔を正面から見おろした。
「……」
 ケイトは無言で首を振る。
 だけど、本当のことを言えば、少しだけれどおしっこが漏れ出て布おむつを僅かに濡らしてしまっていた。ただでさえ尿意が高まっていたところへケイトが指で責めるものだから、とうとう我慢できなくなって、おしっこが溢れ出てしまったのだ。それを、もう幾らも残っていない気力を振り絞ってかろうじて止めるユリだった。男性に比べて尿道の短い女性は、いわゆる「ちびってしまう」状態になりやすいし、一旦おしっこが漏れ出すと途中で止めるのは難しい。それを、なけなしの気力でもってなんとか止めることができたのは、殆ど偶然と言ってもいい幸運だった。
「出ちゃったのね?」
 おむつカバーの中の様子もユリの胸の内もすっかり見透かしてしまいそうな目つきで、ケイトは決めつけるように言った。そうして、何かを試すみたいに、ユリのおむつカバーの前当てに指をかけてそっと引っ張ってみる。
「でも、マジックテープは外れない、と。出ちゃったけど、おしっこの量はあまり多くないみたいね」
「もう許してください。こんなひどいこと、もう許して」
 おむつカバーの前当てを引っ張りながらこともなげに言うケイトに向かって、ユリは、おむつの厚みのせいでちゃんと閉じることのできない両脚を恨めしそうに見おろして両手をぎゅっと腿の上で握りしめた。
「ひどいことって、やだな〜、そんな言い方。なんだか、私がユリちゃんをいじめてるみたいじゃない。これも訓練だってこと、ちゃんとわかってほしいわね。地球に着いた後、工作が終わるまでどれくらいの潜入期間になるかわからないけど、その間ユリちゃんはずっとおむつなのよ。幼稚園じゃ、年少クラスのお友達が見ている前で先生におむつを取り替えてもらうことになるのよ。今からその恥ずかしさに慣れておいてほしいから、私はこうして訓練してあげてるのに。私の親心もわかってほしいわね。これは、おむつに慣れるためのおむつ教練なんだから」
 ケイトは軽く首を振って、しれっとした顔で言った。
 それに対してユリは恨めしげな目つきでケイトの顔を見上げるばかりだ。言い返したいことは幾らでもあるけれど、地球に潜入するためと言われると、ついつい口ごもってしまう。
「でも、ま、最初から無理強いはよくないかもしれないわね。強引過ぎてユリちゃんがおむつを嫌いになっちゃったら困るし。ここは、少しずつ慣れてもらった方がいいみたいね」
 無言で唇を尖らせるユリの顔を見おろしてケイトは片方の眉を吊り上げてくすっと笑うと、ユリの体を便座から抱き上げてトイレの床にそっと立たせた。
「そんなにおしっこしたくないなら、トイレから出してあげる。でも、いいのね? これが最後のトイレなのよ。最後に、トイレでおしっこしておかなくて本当にいいのね?」
 ケイトは、床に立たせたユリに、念を押すみたいに言った。
 それに対してユリはぽつりと応える。
「トイレでって言っても、場所はトイレだけど、実際はおむつの中なんだから……」
 恨めしそうにそう応えながら、最後の方は羞恥のあまり言葉にならない。
「そう。じゃ、出ましょう。カタンお姉ちゃんとボビンお姉ちゃんがお待ちかねよ」
 ケイトは目を細めて頷くと、ユリの手を引いてドアの前に進んだ。
 おむつの厚みのせいで両脚をきちんと閉じることができないところに持ってきて、幾らか漏らしてしまったおしっこを吸った布おむつがじとっと下腹部の肌に貼り付く感覚があって、ついつい脚を開きぎみにしながらケイトに手を引かれてついて行くユリ。おむつで丸く膨らんだスカートの裾を揺らして歩くユリの姿は、まだ足取りもおぼつかない幼児さながらだった。

 ユリと一緒にトイレから出たケイトは、居住エリアで待っていた二人も合わせ連れて、ジムエリアに向かうエレベーターに乗り込んだ。
 エレベーターと言っても、すぐ頭に思い浮かぶような普通のエレベーターではない。居住エリアからコロニーの隔壁までは水平に走行し、隔壁に達すると今度は鉛直方向に走行することになるから、搭乗員は頑丈な座席についてシートベルトで体をしっかり固定する必要がある。さもないと、水平から鉛直に走行方向が変化するのに伴って座席の位置が変化する時に(水平走行時は後ろ側の壁だった部分が鉛直走行時は床になるよう、走行方向の変化に合わせて、エレベーター内の座席が、床と壁に造り付けになっているレールに沿って動くような構造になっている)座席から振り落とされかねない。また、エレベーターはリニアモーター駆動になっているのだが、シャフトの全行程に渡って電極が設置してあるわけではなく、駆動部分は、出発地点から数百メートルの範囲内に限られている。本来ならシャフトの全行程を駆動部分にして滑らかな走行を確保したいところだが、少しでもエネルギーの消費を抑えるために、出発時の短時間の内に目的地に到着するために必要な速度まで加速し、その後は慣性走行に移るという走行パターンが採用されているのが実状だ。そのため、出発時の加速は、コロニー内の疑似重力の倍に匹敵する0.6Gに達する。この加速に耐えるためにも、耐Gシートになってる座席とシートベルトがどうしても必要になるのだった。そんな事情で、ジムエリアに向かうエレベーターは、エレベーターというよりも、電磁カタパルト射出方式のマスドライバーと表現した方が正確な、いささかスリリングな乗り物に仕上がっているわけだ。




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