わが故郷は漆黒の闇


【三四】


 使用する生物兵器というのは、偶然ラグランジェポイントに迷い込んできた小惑星の破片らしき物体の成分調査を技術局の職員が行っていた時にみつけて採取したバクテリオファージ様の生物で、一定の条件のもとでは、感染した生物の体を構成する細胞の中に入り込んで細胞核の中にある遺伝子に自らの遺伝子を結合させ、人間の細胞を構成する物質を一つ残らず使って自らを無数に複製し、またたくまに増殖していくという、きわめて危険きわまりない特性の持ち主だった。もちろんのこと、細胞を構成する物質をバクテリオファージ様生物の餌食にされた生物は、感染して三十分間も経たないうちに死に至る。ただ、このバクテリオファージ様生物は誰にでも感染するのではなく、地球の住人を狙うようにコントロールされている。ネオテニー化を促進する遺伝情報の有無でそれがコロニーの住人なのか地球の住人なのかを判別して、ネオテニー化情報を持たない地球住人の細胞内でしか活動しないという特性を持たせるよう技術局が遺伝子操作を施したのだ。
「――ただ、そんな物騒な生物兵器をどうやって地球に持ち込めばいいのか、それが問題だったのよ。少しでも妙な容器を持っていれば、地球に着いた時のボディチェックですぐにみつかっちゃうしね」
 おだやかな表情でガラガラを振るユリの顔に優しく微笑みかけ、ケイトは、あらためておむつカバーの前当てに指をかけながら言った。
「あ、ひょっとして、このガラガラが?」
 急に何か気づいたような表情でカタンがユリのガラガラに目を凝らした。
「うん、そういうこと。カタンの想像通り、技術局は生物兵器の容器をガラガラに偽装することにしたの。赤ちゃんじゃないにしても、まだおむつの外れないユリだもの、ガラガラが大好きで一時も手放さないとしても不思議じゃないでしょう? 愛用のガラガラを地球に持っていくんだって駄々をこねても誰も怪しまないと思うわ」
 ケイトが小さく頷いてユリのおむつカバーの前当てと横羽根を広げると、ぐっしょり濡れた水玉模様の布おむつがあらわになった。
「あ、でも、ユリ、どうしてこんな顔つきをしてるの? ガラガラが生物兵器の容器になってるってことはわかったけど……」
 まだ納得できないという表情で横合いからボビンが口をはさんだ。
「それはね、ガラガラが発する音波がユリの神経中枢に直接作用するようチューニングしてあるからなのよ。簡単に言えば、ユリの気持ちを落ち着かせるような効果のある音をガラガラが出すようになっているの。もっとも、ユリ以外の人間にはただのガラガラの音にしか聞こえないんだけどね」
 ケイトはユリの足首を持ち上げ、たっぷりおしっこを吸った布おむつを手元に引き寄せて、透明の保存袋に収納した。いつもなら保存袋の用意をするのはボビンの役目だが、不思議なガラガラに対する好奇心が先にたってしまい、ユリの手伝いをすることなんてすっかり忘れてしまっている。
「だけど、何のために?」
 ボビンは重ねて訊いた。まるで、どんな時にもどんなことにも「それは何? それはどうして?」と言ってやまない小さな子供そのままだ。
「ガラガラがユリの精神に作用する音波を発生するようにしたのには二つの目的があるのよ。まず、一つめの目的は、いざガラガラから生物兵器を含んだガスを噴出させるという時になってユリが躊躇うことのないようにするため。いくら地球連邦に対して憎しみを抱いていても、少なくない人命を奪うことになると思うと、生物兵器の容器を開けることができなくなってしまうかもしれないじゃない? そんな心の動揺を抑えるためにユリの精神をやわらげるのが一つの目的なのよ」
 ケイトは、お尻拭きでユリの下腹部を綺麗にし、ベビーパウダーをたっぷりはたきながらボビンに言った。その間もユリはうっとりした目をして、さかんにガラガラを振っている。
「次に二つめの目的だけど、これは、ユリがガラガラを片時も手放さないようにするためなのよ。さっきも言ったけど、武器はこれ一つしか用意できないの。そんな大事な武器をなくされちゃ大変だから、ガラガラが手元から離れるとユリが不安感を抱くようにしようってことになったのね。ガラガラから出る音はユリの気持ちを落ち着かせる作用をするんだけど、その音を聞き続けると、今度は逆に音が聞こえないと不安で不安でたまらなくなってくるのよ。つまり、手元にガラガラがないと不安になって、否が応でもガラガラを探すようになるわけ。これが二つめの目的よ」
 ケイトは、六枚を重ねて一組にした新しい布おむつをユリのお尻の下に敷き込んだ。
「ああ、そういうことだったの。それでわかったわ」
 ボビンはケイトの顔とユリのガラガラを見比べて、ようやく納得したように言った。そうして、少しばかり不憫そうな眼差しでユリの顔を見て呟く。
「それにしても、ユリは大変な役を引き受けちゃったのね。幼稚園児のふりをするなんて、カタンも私も考えてもみなかったけど、ユリなんて、殆ど赤ちゃんみたいな役回りだもんね。おしっこはおむつの中だし、ミルクやジュースを飲む時はゴムの乳首が付いたカップだし、今度はガラガラをいつも持ってなきゃいけないなんて。私だったら、とてもじゃないけど恥ずかしくてできないだろうな。私には幼稚園の年中さんを演じるのが精一杯だわ」
「それだけ、みんながユリに期待してるってことよ。工作の正否は、ユリの行動にかかっているのよ。この、おむつっ子のユリにね」
 ケイトは、おむつカバーの横羽根と前当てを手早くマジックテープで留めると、おむつでぷっくり膨れたユリのお尻を、おむつカバーの上から何度も何度も優しく叩いた。


 いよいよ、三人が地球に向けて出発する日がやって来た。
 エレベーターが停止して、カタンたち三人とケイト、それに高等助言官が隔壁第三層の浮遊部分におり立ち、そこから第二層に移動すると、地球から飛来したシャトルの乗員が待機していた。地球からシャトルがやって来る時はコロニーへの援助物資を積んでいるのだが、帰路に地球へ『帰還』する子供たちを搭乗させる場合は、援助物資の量がいつもよりも目に見えて多い。そんな、これみよがしな連邦高官の態度に胸の中で舌打ちしながらも、外見は平静を襲おうケイトを先頭に、一行はシャトルに乗り込んだ。




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