わが故郷は漆黒の闇


【三五】


 子供たちが地球に向けて出発する時、連邦の宇宙港までシャトルに同乗するのがケイトの常だった。それがケイトが子供たちにしてやれる精一杯の気持ちの表現だった。そのせいで、いつのまにかシャトルにも慣れてしまい、最初はおどおどした様子で搭乗していたのが、今は先に立って乗り込み、子供たちを耐Gシートに誘導するようになっていた。そのおかげでジャトルの乗員は機器のチェックに集中できるようになって、出発シークエンスの進捗は格段にスムースになっていた。
 一行が乗り込んで三十分後には全ての準備が予定通り終了して、テンカウントだけの短い形式的な秒読みが行われ、シャトルは電磁カタパルトで射出されてコロニーを出発した。その後、コロニーから10km離れた位置でシャトルのメインエンジンに点火、月の引力を振り切る速度を得るために2Gの加速が続く。
 前世紀、人類がロケットを打ち上げ始めた頃には、地球脱出速度を得るために、7Gという途方もない加速を味わう必要があった。その後、ロケットエンジンの燃焼理論が進歩し、燃料の消費を抑えつつ長時間燃焼を可能にする技術が進んで、有人宇宙船を打ち上げる場合は4〜5G程度の初期加速が一般的になっていった。それに比べれば2Gというのは至っておとなしい加速だが、それでも、日ごろは0.3Gの世界に住んでいる三人にとっては体がぱらばらになってしまいそうな衝撃に感じられる。
「きゃっ」
「やだっ」
 エレベーターの座席に設置されているのとよく似た安全装置に体を固定され、耐Gシートに体を埋めて、カタンとボビンが同時に悲鳴をあげた。
 そうして、一呼吸遅れて、ユリの口から弱々しい悲鳴が漏れ出る。
「い、いや〜」
 それは、初めてエレベーターに乗った時の出来事をありありと思い起こさせる情景だった。ただ、あの時とは違って、今はケイトがユリの隣のシートに身をしずめている。
 ケイトにとっても、2Gの加速は辛い。それでも、どうにか腕を伸ばして隣のシートにいるユリの手をぎゅっと握って優しく言葉をかけた。
「おしっこが出ちゃったのね、ユリちゃん。お尻が気持ち悪いでしょうけど、少しの間だけ辛抱してね。加速が終わって慣性航行に入ったらすぐにおむつを取り替えてあげるから」
「うん。大丈夫だよ、ケイト先生。ユリ、我慢する」
 すぐ後ろのシートに身をしずめる高等助言官に怪しまれないよう、ユリは、訓練で身に付けた幼児の仕種と口調を意識して応えた。
「そう。お利口さんね、ユリちゃんは。地球の新しいパパとママの前でも、そんなふうにお利口さんにしているのよ」
 ケイトはユリの手を更に力を入れて握りしめた。
 そんな二人のやり取りを聞いていた高等助言官が後部シートから声をかける。
「ああ、そうか。たしか、ユリちゃんはまだおむつが外れていなかったんだっけな。でも、心配はいらないよ。地球でユリちゃんの新しいパパになる人もママになる人も、おむつの取れない子の方が可愛いって、おじさんに言っていたよ。だから、おむつでも心配いらないよ」
 ずっとLP2−C1に赴任しているとはいっても、さすがに地球の住人だ。2G程度の加速は苦にならないのだろう、僅かに笑いを含んだ声で、ユリをあやすように高等助言官は言った。
「本当? 本当に、新しいパパとママ、ユリがおむつでも嫌ったりしない?」
 加速の苦痛とおもらしの羞恥に顔を歪めながらも、ユリは幼児を演じ続ける。
「ああ、大丈夫だよ。本当のことを言うと、おじさん、まだおむつの外れていない子を探すようにって言われていたんだよ。おむつの外れていない子の方が赤ちゃんみたいで可愛いからって。だから、ユリちゃんみたいな子だったら、新しいパパもママも大喜びしてくれるに違いないよ」
 高等助言官は満足げに言った。
「よかったわね、ユリちゃん。これで安心して地球へ行けるわね」
 ユリを励ますようにケイトが言った。
 幼い女の子になりすました実は二十一歳の特殊工作員を乗せたシャトルは、そんなふうにして、とりあえずは平穏な旅路についたのだった。

 宇宙港の特別ゲートに近接するガラス張りのテラスでは、マッチバリー主席監察官、ユ・ビヌキ統括技官、それにハー・リヤマ主任出納官という三組の高官夫妻が一行の到着を待っていた。
 赤道直下の真っ青な空の一角にきらきら輝く光点が現れたかと思うと、一条の飛行機雲を曳きながら、腹に響く轟音をとどろかせてぐんぐんこちらに近づいて来る。
 光点が接近するにつれ、それがシャトルだということがはっきりしてきて、テラスで待つ三組の高官夫妻は互いに顔を見合わせた。
 シャトルのタイヤが軋む音が聞こえ、リバーススラストの噴射音が響き渡ってから二十分ほどした頃、突然、特別ゲートの奥の方から騒がしい声が聞こえてきた。
 高官たちがテラスからゲートのすぐ近くに駆け寄り、何事が起きたのかと訝りながら声のする方に目をやると、困ったような顔つきの入国審査官が誰かに押しやられるみたいにして後ろ向きでゲート出口の方へやって来るのが見えた。
「だ、だから、ちょっとだけでいいから確認させてもらえませんか。本官はそれが任務なんですから」
 まだ若そうな入国審査官がへどもどした様子でそう言っている声が高官たちの耳に届いた。
 続いて、幼い子供の泣き声。
 そこへ、「こんな小さな子供のオモチャを取り上げるんですか、あなたは!」という若い女性の抗議の声が飛んで来る。
「どうかしたのかね、君」
 高官の一人、マッチバリー主席監察官が、見るに見かねてという感じでゲート越しに入国審査官に声をかけた。




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