わが故郷は漆黒の闇


【三八】


 二人に負けじと、ユリも最初の頃はさかんに嬌声をあげて地球の光景に見入っていた。だが、その興奮も長くは続かない。イオンクラフトが水平飛行に移って間もなく、次第に顔色が蒼褪めてきて、やがてシートの上でぐったりしてしまう。
「どうしたの、ユリちゃん。気分が悪いの?」
 ユリの異変に最初に気づいたのは、ユ・ビヌキーの妻だった。いや、正確に言うと最初に気がついていたのはケイトだったのだが、ユ・ビヌキーにユリを引き渡した今になって口を出すのが躊躇われて、誰かがユリの異変に気づいてくれるのを不安げな面もちで待っていたのだ。
「あ、うん……ユリ、お目々がまわっちゃったみたい」
 シートのバックレストにもたれかかるようにして、ユリは弱々しい声で応えた。
「え、お目々が? でも、変ねぇ。イオンクラフトのオートパイロットは乱暴な操縦なんてしていないのに」
 ユリの返答に、ユ・ビヌキーの妻は不思議そうな顔をして、隣に座る夫の顔を見た。
「そうだな。乱気流もないし、いたっておだやかな操縦なんだけど……」
 ユ・ビヌキーも困惑したような顔でメイトの方に振り向いた。若くして統括技官という地位を得たユ・ビヌキーにも、ユリの目眩の原因は見当もつかないらしい。
「ずっと地球にいてコロニーがどんな所なのか自分の目で実際に見たことのない人にはわからないでしょうけど」
 ケイトは、ついつい毒を含んだ声を出してしまう。
「ま、みなさん、知識としてはご存知でしょう。コロニーは直径3km、長さ30kmの円筒で、その内側に貼り付くようにして人間が暮らしています。そして、ここからは実際に住んだ者でないと想像しにくいかもしれませんけど、コロニー内部で生活している者の目に映るのは、自分がいる地点を中心にして徐々に上側にせり上がり、自分の頭の上にも自分が住んでいるブロックと同じような街並みが広がっている、そんな世界の光景です。簡単に言えば、自分の周りの世界が自分をぐるっと取り巻いている、そんな光景が世界の全てなんです」
 ケイトは、自分の言った光景を高官たちが頭の中に思い浮かべるのを待って間を置いき、全員が小さく頷くのを確認して言葉を続けた。
「それに対して、地球上で見る光景はどうでしょう。ことさら、広大な海原を数百メートルの高度から眺める光景は、コロニーの光景に慣れた者には、きわめて異質です。どこまでも続く水平線は一見したところ平らに見えながら、よく注意してみると、なだらかな円弧を描いているのがわかります。それに、頭の上に広がるのは、自分が立っている場所などまるで無関係に広がる青い空。ユリは、自分の足元を中心にして徐々にせり上がってゆく景色とは反対に、遠くへゆくにつれてなだらかに下ってゆくそんな光景に、自分がとても不安定な場所にいるような気がして目眩を感じてしまったんです。しかも、助けを求めて上空を見上げても、そこには見慣れた街並みなどありません。そんなひどく不安定でひどく寂しい光景を映す自分の瞳に、今は地球にいるんだという意識がついてゆかなくて目眩を起こしてしまったんです。あなたたちが一度でもコロニーを訪れ、私たちがどんな世界に生きているのかを知っていれば、ユリの目眩の原因なんて簡単に想像がついたでしょうにね」
 そうして、私たちがどれほどに歯を食いしばって生きているかを知っていれば、ひょっとしたら話し合いの余地もあったかもしれませんね。本当はそこまで言いたかった。けれど、その言葉は実際には口に出さず、深い溜息と共に胸の中にしまいこむことにかろうじて成功したケイトだった。
「そう。ユリちゃんは、そんなに窮屈な所で生活していたの。でも、これからは大丈夫よ。頭の上に街並みがあるなんて変な所じゃない、ちゃんとした所で生活できるんですからね」
 ユ・ビヌキーの妻は、シートの上でぐったりしているユリを抱き上げて自分の膝の上に座らせた。その姿だけを見ていれば優しそうな女性なのかもしれないけれど、彼女がユリに向かって言った言葉は、ケイトの胸にひそむ憎悪の炎をますます熱く燃えたぎらせるに十分だった。コロニーに暮らす者たちの生活に思いを馳せるのではなく、自分たちは連邦の首府というとびきり住み心地のいい場所でのうのうと暮らし、ユリを引き取って地球で暮らさせることについては、お情けをかけてやっているんだといわんばかりの傲岸な言いよう。そんな言葉が自然に唇をついて出てくるのを目の当たりにして、ケイトは連邦の高官とその家族に対する思いを新たにするばかりだ。そうして、今はただ、ユリたちの工作で少なくともここにいる高官たちは命を落とすのだと自分に言い聞かせることでようやく平静を保つことができるケイトだった。
 ユリが目眩を起こしてしばらくすると、カタンとボビンも次々に崩れ落ちるようにしてシートに身をしずめてしまった。二人とも、ユリと同じように、いつもとは異質な地球の光景に目眩を覚えたに違いない。
 マッチバリーの妻もハー・リヤマの妻も、シートに崩れ落ちたカタンとボビンの体を自分の膝の上に抱き寄せ、横抱きにして、元気づけるべく盛んに声をかけ続けた。まさか新しく養女に迎えた三人が自分たちの命を奪うためにやってきた死の天使だとも知らないで。
 様々な思いを乗せたイオンクラフトは、オゾンの生臭い匂いを空中に撒き散らしながら、オートパイロットに導かれるまま、首府の中心部を目指して飛び続けるだけだった。


 高官たちの養子ばかりが通う幼稚園の講堂には、園児ばかりでなく、百組を超える高官夫婦がつめかけていた。既にコロニーからの養子を迎え入れている高官夫婦は、今度は誰がどんな養子を迎え入れたのか、それは自分たちの養子よりも見栄えのする子供なのかを確認するために。そうして、まだ養子を迎え入れていない高官夫婦は、コロニーに対してどんな子供を探すよう要望を出そうかと考える、その参考にするために。それは実際、新しく入園するカタンたちを温かく出迎える場というよりは、まさしく品評会といった方がふさわしい下卑た空気に満ちたいかがわしいセレモニーの場だった。




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