わが故郷は漆黒の闇


【四七】


 妻の目配せに、ユ・ビヌキーが、近くにいる職員を呼び寄せて二言三言囁きかける。
 職員はマッチバリーの時と同じように深く頷いて、アナウンスブースの職員にインカムで呼びかけた。
『会場のみなさまにお知らせいたします』
 アナウンスブースの職員の声がスピーカーから流れ出すと、ざわめいていた会場が静かになる。
『みなさまに、ユリちゃんの保護者になられたユ・ビヌキー統括技官からの連絡事項をお伝えいたします。――ユリちゃんは寸劇の途中でおむつを汚してしまわれたそうです。入園式の途中で申し訳ありませんが、ただ今からユリちゃんはユ・ビヌキー統括技官の奥様におむつを取り替えていただきますので、その間、しばらく入園式の進行は中断させていただきます。繰り返します。ユリちゃんのおむつを取り替える間、誠に申し訳ございませんが、どうぞしばらくお待ちいただけますようお願い申し上げます』
 そう言ってアナウンスがやむと、会場は再びざわめきに包まれる。
「おやおや、おもらしですか、年少さんのユリちゃんは」
「そのようですね。それにしても、おむつなんていう言葉を耳にするのは何年ぶりのことでしょう。人工子宮装置の運用が始まって赤ん坊の姿が育児センターでしか見られなくなってからこちら、聞いたことがないような気がしますが」
「たしかに、おっしゃる通りです。センターでの育児の様子は我々にも公開されていないから、耳にすることも目にすることもなくなりました。なんとなく懐かしい響きという感じさえします」
 ざわめきは、ユリのおむつに関する話題が殆どだった。
「ね、聞いた? ユリちゃん、おむつを汚しちゃったんだって」
「うん、聞いた聞いた。それで、ユリちゃん、おむつを取り替えてもらうんだよね。なんだか、赤ちゃんみたいだね」
「本当、赤ちゃんみたいだね。ほら、見て見て。ああやってガラガラであやしてもらってるんだもん、本当に赤ちゃんみたいだね」
 女の子は、抱き上げられまいと身をよじるユリに向かってユ・ビヌキーがガラガラを振って音を聞かせるのを指差してくすっと笑った。
「ほら、おむつを取り替えに行くんだから暴れちゃ駄目よ、ユリちゃん。さ、ママが抱っこしてあげるからね」
 ユ・ビヌキーの妻は、おしっこを吸った布おむつの重みでずり下がりぎみのおむつカバーに左手の手首から先を押し当て、右手を脇の下に差し入れてユリの体を抱き上げた。
 その手から逃げようとしてユリが手足をばたつかせると、ユ・ビヌキーがユリの手からガラガラを取り上げて、顔のすぐ前で軽く振ってみせたのだ。
 からころ。からころ。
 他の人間にはただのガラガラの音にしか聞こえない、けれどユリだけには特別な効果をしめす特殊な音波が発生して、ユリの精神的な高ぶりを鎮めてしまう。
「ユリちゃんがコロニーの育児センターでどんな訓練を受けてきたのか、パパ達はみんな知っているんだよ。それに、このガラガラがどんな働きをするのか、それもみんな知っているんだよ。それを教えてくれたパパの仲間が、このガラガラに細工をして、絶対にガスが出ないように作り直してくれたんだよ。パパたちは、ユリちゃんたちの工作が失敗することを最初から知っていたんだよ。それをみせてあげようと思って、ケイト保護官にも入園式に参加してもらったんだよ」
 ユリは何度も何度も弱々しく首を振ってガラガラの音を聞くまいとしていた。けれど、神経中枢に直接影響を与えるガラガラの音波は、次第次第にユリの抵抗心を奪ってゆく。元々はユリがガラガラを手元から離さないようにするため、作戦決行の時に決意を鈍らせないようにするために組み込まれた機能が、今や、憎んでやまない高官たちの手からユリが逃げ出すことを阻むために用いられているのだった。
「うふふ、本当に役に立つガラガラだこと。私たちの命を奪う恐ろしい生物兵器の入れ物だなんて信じられないわね、ユリちゃんのやすらかな表情を見ていると」
 すっかり抵抗心を奪われ穏やかな表情でガラガラの音に聞き耳を立てるユリの体を胸の高さまで抱き上げたユ・ビヌキーの妻は、夫が振るガラガラを感嘆の眼差しでみつめた。
「まったくだ。それに、こうしてガラガラを欲しがって手を伸ばしてくるユリちゃんのあどけない表情を見ていると、この三人が特殊工作員だなんて信じるのは難しいね」
 ユ・ビヌキーは唇の端を吊り上げ、皮肉めいた笑みを浮かべて同意した。
「でも、私たちがちゃんと躾け直してあげれば、もうおいたなんてしなくなるに違いないわ。生物兵器なんていう珍しいオモチャを手にしたせいでおいたをしたくなったんでしょうけど、危ない遊びをしちゃいけないんだよってきちんと言い聞かせてあげれば、きっと、ちゃんとした子に育ってくれるわよ。子供の躾は小さいうちが肝腎だって言うもの」
「そうだね、ハニー。まだおむつの外れない小っちゃな子供のうちにきちんと躾けてやれば、手のかからない素直ないい子に育つと僕も思うよ。なんといっても、子供をちゃんと育てるのが親の役目なんだからね」
 ユ・ビヌキーは少し間を置いてカタンたちの顔をしげしげと眺めまわしてから、意地の悪い口調で言った。
「もっとも、この子たちはこれ以上には育たないんだったかな。いつまで経っても小さな子供のままなんだよね、三人とも。だけど、それも楽しいさ。子供なんて、大きくなったら憎らしいだけだからね。子供が可愛いのは小さいうちだけなんだけど、この子たちはずっと小さいままだから、いつまでも可愛がってあげられるわけだ。ペットでいえば、愛玩用のトイプードルみたいなものなんだね、つまりは」
「いやいや、この子たちは可愛いだけじゃないぞ、ユ・ビヌキー。可愛いだけならいつかは飽きてしまうが、この子たちはちゃんと屈辱と羞恥を感じて、顔を曇らせるという芸も持っているんだよ。本当の幼児やトイプードルにはできない芸だとは思わないかね? 屈辱と羞恥に顔を歪めながら、それでも私たちの言いつけを聞かざるを得ないんだよ、この子たちは。その被虐的な表情こそ、退屈な毎日を送る我々に神が与え賜うた最高の贈り物だと私は思うんだよ」
 わざとらしく人差し指を振ってみせながら、マッチバリーが言った。
「なるほど、たしかに。……おや、さっき頼んだ物を運んできてくれたらしいな」
 ユ・ビヌキーがマッチバリーの言葉に賛同の意をしめして頷きかけた時、講堂の中央の扉が開いて、男性職員が四人がかりで何やら大きな荷物を運び込んできた。




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