わが故郷は漆黒の闇


【四九】


「あらあら、そんな大声を出してもいいのかしら? へんに騒いだりしたら、会場中の人たちがみんな、あなたたちの正体に気づくかもしれないのよ。そんなことになったら、もっと恥ずかしい思いをすることになるとは思わないの?」
 ユ・ビヌキーの妻はユリの耳元に唇を寄せたまま囁いた。そうして、その囁きにユリが渋々口を閉ざすのを見て、満足そうな表情で、今度は誰の耳にも聞こえるようわざと大きな声で言った。
「じゃ、おむつを取り替えましょうね。でも、困ったわね。ママ、まだおむつを取り替える練習が充分じゃないのよ。下手なあて方をして横漏れしちゃったらユリちゃんが可哀想だから、誰か上手な人にお願いした方がいいかしら」
 わざとらしく思わせぶりに大声でそう言ったユ・ビヌキーの妻は、会場をぐるりと見まわして、こぼれるような笑みを浮かべた。
「ああ、そうだわ。ケイト保護官なら、おむつを取り替えるのがお上手でしょうね。なにせ、コロニーの育児センターではずっとユリちゃんのおむつを取り替えてくれていたんだから。そうね、そうしましょう。――ケイト保護官」
 突然名前を呼ばれてはっとしたようにユ・ビヌキーの妻の顔を見て、けれどケイトは何も応えなかった。ただ、唇を噛みしめるばかりだ。
 が、それを、高等助言官がケイトの脇腹に高出力パラライザーの銃口を突きつけて強引に立たせる。
「ケイト保護官、お願いします。だって、もう二度とユリちゃんのおむつを取り替える機会はないんですよ。最後の思い出づくりに、もういちどだけユリちゃんのおむつを取り替えてあげてください」
 口調こそ慇懃だが、有無を言わさぬ強い口調でユ・ビヌキーの妻は言った。他の者の目に入らないよう背後から高等助言官が突きつけるパラライザーの感触と相まって、その言葉は、お願いなどではなく、強い調子の命令としてケイトの耳を打った。もう二度と機会はないんですよ。最後の思い出づくりに。ユ・ビヌキーの妻の唇をついて出る言葉の一つ一つが、ケイトに作戦の失敗を改めて告げているかのようだ。
 会場中の視線が自分に向けられるのを痛いほど感じながら、ケイトはゆっくり歩き始めた。会場の雰囲気から判断すると、三組の高官夫妻と高等助言官の他はユリたちの正体を知らないようだ。けれど、自分がこのまま愚図愚図していると、なにかと怪しまれる恐れがある。そうなったらユリたちが幼児などではなく、なりこそ小さいものの実は成人だということが知れ渡るかもしれない。そんなことになって最も屈辱を覚えるのは、他ならぬユリたち三人だ。ここは、大勢の目の前でユリのおむつを取り替え、三人が幼児だと周囲の者に思わておく必要がある。咄嗟にそう判断してのことだった。

「それじゃ保護官、あとはよろしくね」
 ケイトが近づいてくるのを待って、ユ・ビヌキーの妻はユリの体をベビーベッドの上におろした。おしりをぺたんとつけるような姿勢で座らされたユリのおむつカバーからおしっこが幾らか滲み出してくるのを、予めベビーベッドの上に広げてあったおねしょシーツが受け止める。
「ケイト……ケイトせ、先生……」
 自分のお尻を包むおむつカバーから滲み出たおしっこが太腿の裏側をじとっと濡らす感触にユリはいかにも頼りなげな表情を浮かべ、ベビーベッドのすぐそばまでやって来たケイトの顔を、救いを求めるような目で見上げた。
「ユリ……ユリちゃん。……さ、おむつを取り替えようね」
 こちらも、なんとも表現しようのない表情で、ケイトはユリの顔を見おろした。
 その時、わっと歓声があがって、ケイト先生だケイト先生だと大声ではしゃぎながら、通路の間近の席についていた園児が四人、たっと駆け寄って来た。
「あ、みんな……」
 ケイトは突然のことに驚いたが、じきに、四人がコロニーの育児センターで面倒をみていた子供たちだということに気がついた。
 二人は、年中クラスの時に地球に迎え入れられ、カタンたちがステージに現れるたびにあれこれとお喋りに興じていた二人の女の子で、あと二人は、年少クラスから地球に引き取られた、やはり女の子が二人だった。この幼稚園にはケイトたちが世話をした子供たちがもっと大勢いるのだが、どうやら他の子供たちは通路から離れた席についているため、遠巻きにケイトの懐かしい顔を見ることしかできないようだ。
「わーい、ケイト先生だケイト先生だ」
「ね、ね、ケイト先生。私、年中さんになったんだよ。ほら、黄色のリボンなんだよ」
「私も私も。ほら、年中さんのお姉ちゃんになったんだよ」
 思わぬ所で会えた喜びに、四人はケイトにまとわりついて離れない。
「よかったわね、みんな。またこうしてケイト先生に会えて嬉しいわね。でも、ケイト先生はこれからユリちゃんのおむつを取り替えなきゃいけないのよ。だから、ケイト先生のじゃまをして困らせちゃいけないわね」
 慌ててやって来た職員が、なかなかケイトのそばを離れない子供たちを元の席に連れ戻そうとする。
 それを、ユ・ビヌキーの妻がやんわりと制した。
「あら、でも、せっかく再会できたんですから、そんなに慌てて席に戻すことはないと思いますよ。どうでしょう、その子たちにはケイト保護官のお手伝いをしてもらうということでは」
「あ、はい。奥様がそうおっしゃるなら私どもは構いませんけれど」
 子供たちを連れ戻そうとしていた職員も、ユリの養母であるユ・ビヌキーの妻がそう言うなら、それ以上は子供たちに構う必要もない。
「それじゃ、みんな、ケイト先生がユリちゃんのおむつを取り替えるからお手伝いしてあげてね」
 持ち場に戻る職員の後ろ姿から子供たちに視線を移して、ユ・ビヌキーの妻はわざとらしい優しげな声をかけた。




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