わが故郷は漆黒の闇


【五二】


「じゃ、ケイト先生。早くユリちゃんにおむつをあててあげてくださいね。大勢の人が見ている前でおもらししちゃったらユリちゃんがとっても恥ずかしがるでしょうから」
 すっと腰を伸ばしたユ・ビヌキーの妻は、しれっとした顔でケイトに言った。
 ユ・ビヌキーの妻に命じられて、ケイトは手早くお尻拭きを動かし、ベビーパウダーをはたいて、新しいおむつとおむつカバーをユリのお尻の下に敷き込んだ。ユリの下腹部が濡れてきているのがおしっこのせいなどではないことをユ・ビヌキーの妻が見抜いているのはケイトも目にも明らかだ。ユ・ビヌキーの妻がユリを更に恥ずかしがらせるためにケイトにそんなことを言っているのもありありだ。けれど、その言葉に抗う術はケイトにはない。
「よかったわね、ユリちゃん。ケイト先生が新しいおむつをあててくれるから、これで、いつおもらししちゃってもいいのよ。年長さんや年中さんのお姉ちゃんはおしっこしたくなったら先生に言ってトイレへ行って自分でパンツを脱いでおしっこしなきゃいけないけど、年少さんの中でも一番小っちゃいユリちゃんは、そんな難しいことできないもの、したくなったらいつでもしちゃっていいのよ。おしっこが出ちゃっても、スカートを汚すことはないのよ。だって、柔らかなおむつがユリちゃんのおしっこをみんな受け止めてくれるんだもの」
 改めてそう言うユ・ビヌキーの妻の言葉は、本当の幼児に向けられたものなら、いたって当たり前のありきたりの言葉だ。けれど、成人したユリに向かって投げつけられたその言葉は、たとえようのない屈辱と羞恥を、これでもかと掻きたてる。
 とうとう堪えきれなくなって、ユリの頬を涙の雫が伝い落ちた。
「あ、ユリちゃん、泣いちゃった。どうしたのかな、ふかふかのおむつに取り替えてもらって、お尻、気持ちよくなった筈なのに」
 ユリの頬を濡らす涙に気づいた年長の一人が不思議そうな表情を浮かべて、ユ・ビヌキーの妻の顔を見上げた。
「あら、本当。ユリちゃん、泣いちゃってるわね。でも、どうしてだか、私にはわかるわよ」
 屈辱と羞恥に耐えきれなくなって溢れ出たユリの涙をみつめてユ・ビヌキーの妻は言った。
「どうして? ね、おばさま、どうしてユリちゃん泣いちゃったの?」
「きっと、ユリちゃんは寂しいんでしょうね。だって、ずっと一緒だったケイト先生と別れて暮らさなきゃいけないんだもの、寂しくなって、それで泣いちゃったんじゃないかしら」
 ユ・ビヌキーの妻はユリの涙の意味をわざと取り違えて子供たちに説明した。
「あ、そうか。うん、そうだよね。私もシャトルからおりてケイト先生とバイバイする時、泣きそうになったもん。でも、私、泣かなかったよ。だって、年中さんのお姉ちゃんだったもん」
 年長の一人が一年前のことを思い出して言った。
「あ、私も泣きそうだったけど泣かなかったよ。年少さんだけど泣かなかったよ」
 今は年中の一人が、『私も泣かなかった』というところをムキになって強調して言った。年長の子供に対抗している様子がありありで微笑ましい光景だ。
「そう、みんなは泣かなかったの。えらいわね、お姉ちゃんなのね」
 ユ・ビヌキーの妻が大げな仕種で感心してみせる。
「うん、私たち、お姉ちゃんだもん。でも、ユリちゃんはまだ小っちゃいから泣いちゃうんだね。だけど、大丈夫だよ。ケイト先生とバイバイしても、私たちがいるよ。寂しくなったら私たちが遊んであげるし、おもらししちゃって幼稚園の先生におむつを取り替えてもらう時、今みたいにあやしてあげる。だから大丈夫だよ」
「そうだよ、ユリちゃん。お姉ちゃんたちはずっと一緒にいるから寂しくないよ」
「お姉ちゃんたちだけじゃないよ。ユリちゃんと同じ年少さんの子もたくさんいるから大丈夫だよ。幼稚園の先生もケイト先生に負けないくらい優しいから心配しなくていいよ」
「年少さんの中でもおむつなのはユリちゃんだけだけど、大丈夫だよ。幼稚園の先生におむつを取り替えてもらって、それで、早くおしっこを言えるように頑張ろうね。私たち、応援するからね。ユリちゃんと同じ年少さんの子もみんな応援してくれると思うから、早く自分でトイレ行けるように頑張ろうね」
 ユ・ビヌキーの妻の説明を耳にした四人の子供は、ユリに向かって口々に言った。自分たちがユリよりも年上だと信じて疑わない、いかにもお姉ちゃんぶった口振りだ。
 子供たちのそんな言葉にユリはますます屈辱を覚え、涙の粒が多くなる。
「あらあら、お姉ちゃんたちがこんなに励ましてくれているのに、なかなか泣きやまないのね、ユリちゃんてば。やっぱり、小っちゃな子には口で言って聞かせてもわからないのかしら」
 ユ・ビヌキーの妻はわざと困ったような顔つきをしてみせてから、大げさな身振りでぽんと手を打った。
「あ、そうそう。ユリちゃんはガラガラが大好きだから、それであやしてあげればいいんだわ。ね、みんな。ガラガラを振ってユリちゃんを泣きやませてあげてちょうだい」
 ユ・ビヌキーの妻はそう言って、夫が持っていたガラガラを年中の一人に手渡した。
「うん、これであやしてあげる。――ほーら、ユリちゃん。ユリちゃんの大好きなガラガラですよ。はい、からころ〜」
 受け取った幼女は、羞恥にまみれて泣き続けるユリの目の前にガラガラを差し出して力いっぱい振った。
 かろやかな音が会場の空気を震わせ、ユリの気持ちをなだめる。
(やだ。こんなの、やだ。私よりずっと年下の子供たちから反対に妹扱いされてガラガラであやされるなんて、こんなの、やだ。このままガラガラの音でおとなしくなったら、この子たち、私のことを本当にガラガラが大好きな年少の女の子だとしか思わなくなっちゃう。そんなの、やだ。私、本当は二十一歳の大人なのよ。大人なのにガラガラであやされておとなしくなっちゃうなんて……)
 身悶えせんばかりの屈辱に胸を焼かれながらも自分の意思ではどうしようもない平穏な気持ちが満ちてくるのを止められずに、やがてユリは自分よりもずっと年下の子供たちにガラガラであやされて、次第に涙の領を減らし、あどけない笑みをうかべるのだった。





 からころ。
 からころ。
 目を覚ますとすぐ、ガラガラの音によく似たかろやかな音が天井からふってくるのに気がついた。
 かろやかな音に誘われるまま瞼をこすり、ゆっくり焦点を合わせると、天井に吊ったサークルメリーがユリの目に映る。




戻る 目次に戻る 本棚に戻る ホームに戻る 続き