わが故郷は漆黒の闇


【五三】


「あら、お目々が覚めたのね、ユリちゃん。よくねんねしてたわね」
 すぐ近くから若い女性の声が聞こえてきた。
 声のする方にユリが目を向けると、背の高いサイドレール越しにユ・ビヌキーの妻の顔が見えた。他には、他の高官たちの姿も園児たちの姿もない。
「うふふ、ここがどこかわからない? でも、心配しなくていいのよ。ここはユリちゃんの新しいお家なんだから。パパとママのお家で、ここは、ユリちゃんのために用意したお部屋なのよ」
 ユ・ビヌキーの妻に言われてユリがぐるりと周囲の様子を見まわすと、確かに、幼稚園の講堂などではないことがすぐにわかった。あんなに広い場所ではなく、パステルピンクの壁に囲まれたこじんまりした(とはいっても、手狭な感じはまるでない)部屋だということが一目でわかる。
「ね、ユリちゃん。入園式が終わった後のこと、憶えてる?」
 ユリが自分が今どこにいるのか理解するのを待って、ユ・ビヌキーの妻は言った。
 その言葉に、ユリの記憶がぼんやりと甦ってくる。
 ガラガラが発する音波は、普通の振り方をして音量があまり大きくないうちはユリの気持ちをおだやかにさせるだけなのだが、或る程度以上に強く振って音量が上がると、周囲の状況に対する関心を失わせるような効果を持っている。そのため、自分でガラガラを振っている間はそんなことはないのだが、子供たちがそうしたように強く振られると、その間の記憶が定かでなくなってしまう場合がある。だから、幼稚園の講堂で大勢の人間に見られながらおむつを取り替えられた後のことはあまり憶えていない。
 それでも、幼稚園の講堂から出た後、どこか大きな建物の中に連れて行かれたことだけはぼんやりと思い出すことができた。
「そう。ちゃんと思い出せないのね。じゃ、何があったのかママが話してあげる」
 ユ・ビヌキーの妻はベッドのサイドレールを倒し、曖昧に首を振るユリの体を抱き上げた。
 抱き上げられながらユリが目を下に向けると、それまで自分が横たわっていたのがベビーベッドだということがわかった。入園式の最中におむつを取り替えられるのに使った幼稚園の備品のベビーベッドとはまた違う、手の込んだ飾りを施した豪華なベビーベッドだった。
「ユリちゃんのために特別に作らせたベビーベッドよ。ママはね、小っちゃい子が大好きなの。本当は赤ちゃんが欲しかったんだけど、赤ちゃんをシャトルに乗せるのは無理だって言われちゃったのね。それで、仕方なく、シャトルに乗せられるぎりぎりくらいの一番小さな子を引き取らせてくれるようお願いしていたのよ。そうしたら、まだおむつの取れないユリちゃんという子を引き取ってもらいますって連絡がきたの。それを聞いた時、ママは嬉しくてたまらなかった。だって、幼稚園に行くような子でも、おむつが取れてないんだったら赤ちゃんと同じだものね。それで、ママは決めたの。昼間は幼稚園に行かせるけど、お家にいる間は赤ちゃんみたいにして可愛がってあげるんだって。そのために赤ちゃんを育てるのに必要な物はみんな揃えたのよ。空いていた部屋の壁紙を貼り替えて、ベビーベッドとベビータンスを置いて、天井には、ほら、可愛い音のするサークルメリーも吊ったの」
 ユ・ビヌキーの妻はユリを横抱きにして、改めて部屋の様子をゆっくり見せた。ユ・ビヌキーの妻が言う通り、真新しいパステルピンクの壁紙を貼った室内はいかにも育児室といった雰囲気で、部屋の真ん中にベビーベッドを置き、その真上にはサークルメリーが吊ってある。壁際にはベビータンスがあって、その横に、幾つものヌイグルミや布製の柔らかそうなボールを入れたオモチャ箱が並んでいる。そうして、ベビータンスの前に、新しい布おむつが何組かと新しいおむつカバーが二枚入った藤製のバスケットや小物入れといった物を無造作に置いたその部屋は、赤ん坊がいる家ならどこにでもありそうな、そんな育児室そのままだった。
「でも、パパとママのお家に来てくれたのがユリちゃんでよかった。本当の赤ちゃんだったらいつかおむつが外れて生意気なことも言うようになるけど、ユリちゃんだったら、ずっとずっとおむつのままだもの。いつまでもおむつのユリちゃんはいつまでもママの赤ちゃんでいてくれるもの。だから、ママ、とっても嬉しいのよ。いつまでも育児の楽しみを味わっていられて、ママ、嬉しくてたまらないんだから」
「わ、私……赤ちゃんなんかじゃない」
 何度も何度も『赤ちゃん』という言葉を繰り返すユ・ビヌキーの妻に向かって、ユリは抗議した。なぜとはなしに、顎と唇、それに舌の動きがぎこちなく感じられる。それでもユリはユ・ビヌキーの妻に横抱きされたまま弱々しく抗議の声をあげて首を振った。
「あらあら、まだそんなことを言っているの、ユリちゃんは。じゃ、これは何かしら」
 ユリを抱いたユ・ビヌキーの妻は足早に窓際に歩み寄ると、遮光カーテンをさっと引き開けた。
 途端に、赤道直下の眩い光が視界を満たした。太陽の高さから判断すると、午前十時くらいだろうか。思いがけない眩しさに思わずユリは両目を閉じ、しばくらしてから、おそるおそる瞼を開けた。
 次第に光の強さに目が慣れてきて、窓の外で風に揺れている洗濯物らしき布地が見えてくる。
「ほら、何が干してあるか、ちゃんと自分のお目々で見てごらんなさい」
 ユ・ビヌキーの妻は、遮光カーテンに続いて、大きなガラス窓も引き開けた。赤道直下の太平洋上に浮かぶメガフロートの一角にある高官専用マンションの二十階にある部屋に海の香りを含んだ風が吹き込んできて、ユ・ビヌキーの妻の髪がふわりと舞った。




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