わが故郷は漆黒の闇


【五六】


『わかったら返事をしなさい。黙ったままじゃ、反省しているのかどうかわからないでしょ?』
 ハー・リヤマの横に佇む妻が冷たいでボビンに言った。
『……わ、わかりました。これから気をつけ……』
 屈辱に顔を歪め、よつんばいの姿勢のままボビンは二人の顔をおずおずと見上げて唇を動かした。
『おやおや、まだわかっていないみたいだね。家の外じゃボビンちゃんは幼稚園の年中さんだけど、お家の中じゃ、私たちのペットの子犬なんだよ。子犬が人間の言葉で返事をするなんて変だと思わないかい?』
『そうね、まだわかっていないみたいね。生意気なボビンちゃんにはもう少しだけお仕置きをしておいた方がいいかしら』
 二人が続けて言った後、妻が、ボビンの首にはまった首輪から伸びる金色の鎖の端に付いているボタンに指をかけた。
 それを見たボビンが激しく首を振る。
 妻の指がボタンを押した。途端に、ぎゃーっという悲鳴があがって、ボビンが激しく体をのけぞらせた。首輪から電流が流れ出し、ボビンに電撃を与えたのだ。
『そろそろいいかしら。今度はちゃんとお返事できるわね、ボビンちゃん』
 ボタンを押し続けていた妻が、ようやくボタンから指を離して念を押すような口調でボビンに言った。
『……』
 電撃がやんでもまだひくひくと体を震わせながら、ボビンは恨めしげな目つきで二人の顔を見上げた。
『あら、まだお仕置きが足りなかったのかしら』
 妻はすっと目を細めて再びボタンに指をかけた。
 と、ボビンが絶望的な表情を顔に浮かべて『……く、くぅ〜ん』と、子犬が啼くような声を出した。
『やっとのことでボビンちゃんも自分の立場がわかったみたいだね。最初からそんなふうにおとなしくしていればお仕置きなんてされずにすんだのにね。私たちだって可愛いボビンちゃんにお仕置きなんてしたくないんだから、これからは素直にするんだよ』
 ハー・リヤマは、渋々ながらも恭順の姿勢をしめすボビンに向かって優しげな声で言った。
『それじゃ、いい子になった子犬のボビンちゃんにご褒美をあげましょうね。はい、ミルクよ。たっぷり飲みなさい』
 ハー・リヤマの妻はそう言って、夫がボビンの頭を撫でている間に準備したプラスチック製の皿をボビンの目の前に置いた。合成ミルクをなみなみと注ぎ入れたその皿がペットに餌を与えるための容器なのは言うまでもない。
『ちゃんと最後まで飲むのよ。一滴でも残っていたら、またお仕置きですからね』
 声こそ優しげなものの、妻が発する言葉は絶対的な命令だった。
 ボビンはフローリングの硬い床に両膝と掌をつき、のろのろと肘を曲げて、ペット用の皿に向かっておずおずと舌を突き出した。
『人間が増えすぎたせいで他の動物が殆ど絶滅してしまったからペットを飼うなんて無理だと思ってたけど、いろいろと方法はあるのね』
 床に置いた皿からボビンが舌でミルクを掬い飲むぴちゃぴちゃいう音を満足そうに聞きながら、ハー・リヤマの妻は夫にしなだれかかって言った。
『そうだね。ペットと娘を同時に手に入れるなんて、連邦高官としての地位を活用しなきゃ、とてもじゃないけど無理な話だろうね。私をこの地位に抜擢してくれたコンピューターシステムに心から感謝しなきゃいけないね』
 ハー・リヤマは妻の方を抱き寄せて言った。
『あなたと結婚できてよかったわ。私も、あなたと、あなたを今の地位につかせてくれたコンピューターシステムに感謝しているのよ』
 ハー・リヤマと妻が唇を重ね合わせるところで再び映像が消えた。

「ボビンちゃんも新しいパパとママに可愛がってもらっていたわね。これでユリちゃんも安心でしょ?」
 無心に乳首を吸い続けるユリに、ユ・ビヌキーの妻は笑顔で語りかけた。
「……ケイトは? ケイトはどうなったの?」
 想像を絶するひどい仕打ちを受けながらもカタンとボビンも命だけは無事だとわかって少しだけ安堵の溜息をついたユリだが、じきに、はっとしたような顔つきになって訊いた。乳房に顔を埋めたままだから声がくぐもってしまうけれど、ユ・ビヌキーの妻はユリが何を言ったのか聞き逃すことはなかった。
「ああ、ケイト保護官ね。保護官なら、高等助言官の夫婦に引き取られて可愛がってもらっている筈よ。高等助言官なんて子供を引き取れるような身分じゃないんだけど、これまでいろいろ尽力してくれたから、その見返りにってマッチバリー主席監察官が特別に許可したそうよ。たしか、今日が小学校の入学式だっていってたから、ちょっと様子を見てみましょうか」
 ユ・ビヌキーの妻の指がもういちどボタンに触れて、幼稚園の隣にある小学校の校門が立体映像で浮かび上がった。
 校門の横には『ケイトちゃん、にゅうがくおめでとう』という文字を書いて、色とりどりの紙テープで周囲を縁取りした看板が立てかけてあった。
『あら、お兄さんやお姉さんたちがカタンちゃんのために用意してくれたのね。後でちゃんとお礼を言わなきゃ駄目よ、ケイトちゃん』
 落ち着いた女性の声が聞こえて、校門の前に人影が三つ現れた。高等助言官と彼の妻、それに、高等助言官の妻に手を引かれたケイトだ。ケイトは肩口と袖口がふんわり膨らんだ丸襟のブラウスに紺の吊りスカートといういでたちで、背中には真っ赤なランドセルを背負っていた。
『そうだ、せっかくの上級生からのプレゼントだから、この看板を入れて写真を撮っておこうか。いい記念になるぞ』
 高等助言官はにやりと笑うと、古めかしいデジカメを構えて、妻とケイトに、二人並んで看板の横に立つよう促した。




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