おむつ保育実習


《 3 そんな、おねしょだけじゃないなんて 》

「それじゃ、いただきまーす」
 両手の掌を合わせて美香が言った。
「いただきまーす」
 オヤツを待ちわびていた園児たちが美香に続いて声を揃えた。
 めいめいの目の前には、クッキーの皿とミルクのカップが置いてある。普段ならお昼寝の時間が終わるとすぐオヤツの時間になるのだが、今日は、真澄のおねしょ騒ぎのせいでせっかくのオヤツが三十分ほども遅くなってしまった。まるでその遅れを取り戻そうとでもするみたいに、園児たちは一斉にクッキーに手を伸ばし、カップを傾けている。
「あれ? 真澄ちゃん、どうしたのよ。そんなお行儀良く座っちゃって」
 クッキーを手にした美香が怪訝そうな表情で、隣に座っている真澄に言った。他の園児たちが胡座をかいたり体育座りをしている中、硬い床の上で正座をしている真澄の姿は妙に目立つ。
「あ、あの、なんでもないの。なんでもないから気にしないで」
 真澄は小さくかぶりを振った。
「ふーん。ひょっとして真澄ちゃん、まだ先生のつもりでいるんじゃないの? 美香たちと違って、自分は先生だからちゃんとお行儀良く座らなきゃいけないとか思ってるんじゃないの?」
 美香は顎を突き出すようにして真澄の顔を見上げた。
「そ、そんなことないわよ……」
 真澄は慌てて手を振った。美香が何か淳子に告げ口をして、そのせいで「子供たちの気持ちをわかるようにって園長と私で計画した実習内容に不満があるなら、さっさと実習をやめてもらってもいいのよ。ただし、その時は実習の成績は『不可』ですからね」とでもいうようなことを言われてはたまらない。
「だったら、美香や慎吾くんと同じように座りなさいよ。一人だけお行儀良くしてないで」
「え、ええ……でも……」
「やっぱり、美香たちと一緒なのはイヤなんだ。自分だけ別だって思ってるんだ」
 美香は決めつけるように言った。
「あ、そんなことないわよ。そんなことないってば……」
 じっと顔を睨みつける美香に根負けしたように言って、真澄は渋々、正座から体育座りの姿勢に座り直した。
 すると、それまでかろうじてスカートの中に隠れていたキャンデー柄のおむつカバーが三分の一ほどあらわになってしまう。真澄が正座をしていたのは、行儀を意識していたからなどではなく、スカートが捲れ上がっておむつカバーが見えてしまうのを恐れてのことだったのだ。
「あ、そうか。真澄ちゃん、おむつカバーが見えちゃうのが恥ずかしかったんだね」
 ようやく美香にも真澄が正座していた本当の理由がわかった。そうして美香は、まるで含み笑いでもするみたいにすっと目を細めて言うのだった。
「でも、そんなに恥ずかしがらなくてもいいよ。だって、真澄ちゃんがおむつ取り替えてもらうところ、みんなで見てたんだよ。真澄ちゃんがおしっこで汚したおむつも見たんだから、おむつカバーくらい見えても平気だよ」
「そ、そんな……」
 ただでさえ赤い真澄の顔が更に赤くなる。
「それより、早くオヤツ食べちゃいなさいよ。オヤツが終わったら石田先生、紙芝居してくれるんだよ。早く食べないと、紙芝居の時間がなくなっちゃうんだよ。真澄ちゃんのおねしょのせいでオヤツの時間が遅くなっちゃったんだからね」
 美香は昨日の一件で真澄に対して敵意めいた感情を抱いていたのだが、さっき真澄が淳子の手でおむつを取り替えられる場面に立ち会ってからは、今度は真澄のことを小馬鹿にするふうな態度を取るようになっていた。お互いの立場が逆転したことを肌で感じて、真澄のことを完全に見くだすようになったのだ。今や美香の中では、美香の隣でスカートの裾からおむつカバーを覗かせて床に座っている真澄は、保育実習の先生などではなく、自分と同じ年少クラスの園児、それも、まだおむつが外れなくて何をするにも愚図愚図してばかりの手のかかる妹みたいな存在になりさがっていた。
「いいわ。オヤツ、美香が食べさせてあげる。最初はミルクからよ。ほら、お口をあーんして」
 美香はそう言って、真澄の目の前にあるカップを持ち上げた。
「い、いい。自分で飲……」
 本来なら教え子である筈のずっと年下の幼児の手でミルクを飲まされる羞恥に、真澄は思わず首を振った。その拍子に、カップからミルクがこぼれ出し、真澄の口元から頬にかけてが白い条になり、顎先からミルクが滴り落ちる。
「あらあら、せっかく美香お姉ちゃんが飲ませてくれたミルクをこぼしちゃって。給食の時はオカズをこぼしてたし、やっぱり真澄ちゃんにはこれが必要ね」
 布団を干して教室に戻ってきた淳子が、顎先から滴り落ちるミルクの雫で制服の胸元を汚している真澄の姿を見るなり呆れたように言い、ジャージのポケットからレモン色の布地を取り出してさっと広げた。
「あ、よだれかけだ」
 真澄の後ろに立った淳子が広げた布地を見るなり、美香が声を弾ませた。
「そう、よだれかけよ。給食の時に真澄ちゃんがおかずをこぼして制服を少し汚しちゃったことを園長先生に話したら、お昼休みの後、近くのお店で生地を買ってきて真澄ちゃんの体に合うよう大きなサイズで作ってくださったのよ。園長先生、お裁縫がとってもお上手だから助かるわ。あとでちゃんとお礼を言っておきましょうね」
 淳子は美香に向かってというよりも真澄に言って聞かせるように説明して、レモンイエローのタオル地の周囲をフリルのレースで縁取りした大きなよだれかけを真澄の胸元に押し当て、二本の紐を首筋と背中にまわしてきゅっと結わえた。
「い、いや。よだれかけなんて恥ずかしい」
 自分の胸元を覆う羞恥に満ちた幼児の装いに、真澄は慌てて背中に手をまわした。けれど、淳子が強く結び留めたよだれかけの紐は簡単には外れない。
「勝手に外しちゃ駄目よ、真澄ちゃん。給食のオカズやオヤツのミルクで制服を汚しちゃうような子にはこれが要るんだから」
 真澄の両手を押さえつけて、淳子は、よだれかけの真ん中あたりに付いているウサギのアップリケを指先でつつきながら言った。
「でも、でも、ミルクを飲むのがへたでこぼしたんじゃありません。給食の時だって、食べ慣れない先割れスプーンを使ったからです。慣れたらオカズをこぼしたりなんかしません。あれは何かの間違いなんです。だから、だから、よだれかけなんて……」
「おねしょの時も『何かの間違いなんです。もう二度としません』とか言ってたけど、その後、お昼寝の間にも失敗しちゃったのは誰だったかしら。真澄ちゃんの『何かの間違いなんです』は当てにならないから、よだれかけを外してあげることはできないわね」
 真澄の抗弁を途中で遮って淳子はぴしゃりと決めつけ、美香の方に向き直って言った。
「はい、これで真澄ちゃんが少しくらいミルクをこぼしても大丈夫だから、残りを飲ませてあげてちょうだい」
「はーい。じゃ、雅美ちゃん、お姉ちゃんが続きを飲ませてあげるからね」
 美香が、両手で抱え持ったカップをあらためて真澄の唇に押し当ててそっと傾けた。
 しかし、年少クラスの幼児から小さな妹扱いされるのを拒んで真澄は唇を閉じたままだ。カップから流れ出たミルクは再び真澄の唇から顎先を濡らして制服の胸元に滴り落ちる。だが、さっきと違って今度はタオル地のよだれかけに薄いシミを作るばかりで、制服を濡らすことはなかった。
「ほら、よだれかけをしておいてよかったでしょ? 明日からは給食の時もよだれかけをしましょうね、真澄ちゃん」
 含み笑いを漏らしながら、淳子は真澄のよだれかけに広がるシミの周囲を指先でなぞって言った。




 真澄がさかんに両脚の内腿を擦り合わせ始めたのは、屈辱に満ちたオヤツの時間が終わり、淳子が園児たちを教室の前の方に集めて紙芝居を始めて間もなくのことだった。
「真澄ちゃん、ひょっとするとおしっこしたいんじゃないの? トイレは本当は休憩時間の間にすませとかなきゃいけないんだけど、このままおもらししちゃったら可哀想だから特別に許してあげる。すぐに行ってらっしゃい」
 紙芝居を途中でやめ、真澄のすぐ近くにやって来た淳子は、わざとのような優しげな声をかけた。そうして、
「あ、でも、トイレへ行くんだったら、おむつを外してあげなきゃいけないわね。じゃ、立っちして教室の隅へ行きましょう」
と、スカートの裾から少し見えているおむつカバーに今更気づいたようにわざと大声で言ってから、真澄を立たせようとする。
 けれど、真澄は力なく顔を伏せ、幼児がいやいやをするように弱々しく首を振るばかりだった。
「どうしたの、トイレへ行きたいんでしょう?」
 淳子は腰を深々と曲げて真澄の顔を真下から覗き込んだ。
 と、真澄が慌てて顔をそむける。
「あ、ひょっとして……」
 淳子は、そんな真澄の仕種に何か思い当たるところがあるような顔つきになると、園児用の小さな椅子に窮屈そうに腰かけている真澄のスカートの裾を捲り上げ、右手をおむつカバーの中に差し入れた。
「……やっぱりだ。お昼寝の後で取り替えてあげたおむつ、ぐっしょり濡れちゃってるわよ、真澄ちゃん」
 おむつカバーから引き抜いた人さし指の微かに濡れた指先を真澄の目の前に突きつけて、淳子は他の園児たちにも聞こえるように言った。
「え、真澄ちゃん、おもらししちゃってるの? おねむじゃないのに、おっきしてるのに、おもらししちゃったの?」
 いかにも興味津々といった顔で美香が淳子に訊いた。
「うん、そうなのよ。さっきはお昼寝でおねしょだったけど、今度はお目々が覚めてるのにおもらししちゃってるの。さっきのおねしょからあまり時間が経ってないのに、たくさん出ちゃってるみたいよ」
 淳子は人さし指をハンカチで拭きながら、さも困ったというふうな表情で応えた。
「じゃ、先生、美香たち紙芝居は我慢するから、真澄ちゃんのおむつを取り替えてあげて。紙芝居、おむつを取り替えた後でいいから」
 いかにも小さな妹を気遣ってというようにお姉さんぶって美香が言う。
「ありがとう、美香ちゃん。じゃ、ついでだからお願いしちゃうけど、もういちど真澄ちゃんの鞄を持って来てくれるかな」
「うん、わかった。新しいおむつが入ってる鞄だね」
 淳子に言われて美香は椅子からぱっと立ち上がると、大きな通園鞄の肩紐を両手でつかんで持ってきた。
 その間に淳子は真澄が腰かけている椅子のすぐ後ろにバスタオルを広げ、真澄の脇の下に両手を差し入れて抱き上げるようにして立たせた。と、真澄の体が妙な具合に捻れでもしたのか、おむつカバーの裾からおしっこの雫が二つ三つこぼれ出て太腿の内側を伝い落ちる。
「ゆっくり立っちしましょうね。真澄ちゃん、たくさんおしっこしちゃってるから、あまり急に体を動かすと、せっかくおむつが吸い取ったおしっこがおむつから滲み出て漏れちゃうからね」
 淳子は、真澄の内腿を伝い落ちるおしっこの雫を妖しく輝く瞳でみつめて言って真澄の手を引き、広げたばかりのバスタオルの上に横たわらせた。
「先生、はい、これ」
 淳子が床に膝をつくと、真澄の通園鞄を持ってきた美香が今度は、教室の隅に置いてあるポリバケツを両手で提げてきた。
「あら、いちいち言わなくてもちゃんと持ってきてくれたのね。本当に美香ちゃんはよく気のつくお姉ちゃんだわ。でも、重かったでしょう? さすが、お姉ちゃん、よく頑張ったわね。なのに真澄ちゃんは、体が大きいのにおむつを汚してばかり。困った子だよね」
 淳子は、洗剤を溶かした水を三分の一ほど満たし、真澄がおねしょで汚したおむつが入ったポリバケツを持ってきたことに驚いてみせ、美香の自尊心をくすぐった。もちろん、同時に真澄の羞恥を煽ることも忘れない。
「ね、先生、このおむつ、いつお洗濯するの?」
 淳子にバケツを手渡しながら、美香はふと気になったように尋ねた。
「あ、お洗濯はね、明日の朝一番にするのよ。洗剤を溶かしたお水の中におむつを浸しておくと汚れが取れやすくなるし、朝のうちにお洗濯をしてお昼過ぎまでお日様に当てておくとふかふかになるの。だから、今日汚しちゃったおむつは明日の朝にお洗濯するのよ」
 淳子はポリバケツを自分の傍らに置き、真澄の足首をつかんで高々と差し上げながら説明した。
「あのね、先生……」
 おむつカバーの前当てに続いて横羽根を開く淳子の手元を覗き込んで、美香は考え考え言った。
「……昨日まで、美香のおむつを取り替えてくれてありがとう。美香、おむつの時はわからなかったけど、先生が真澄ちゃんのおむつ取り替えるの見て大変だなーって思ったの。美香も昨日まで先生に大変なことさせてたんだよね。だから、ごめんなさい、先生」
「あらあら、何を言い出すのかと思ったら。でも、そんなこと気にしなくていいのよ、美香ちゃん。誰だっておむつの時はあるんだから、そんなこと気にしなくていいの。ほら、真澄ちゃんなんてこんなに体が大きいのに、まだおむつなのよ。おねしょだけじゃなくて、おもらしもしちゃうのよ。真澄ちゃんに比べたら美香ちゃんのは全然大変じゃなかったわよ。だから、気にしないの」
 淳子は穏やかな笑顔で言い、おしっこをたっぷり吸った真澄のおむつを指さして続けた。
「ほら、真澄ちゃん、体が大きいから、こんなにたくさんしちゃってる。美香ちゃんは少しだから大変じゃなかったよ。――でも、変ね。真澄ちゃん、お昼寝でおねしょしちゃってからまだ一時間も経ってないのに、こんなにたくさんしちゃうなんて」
「真澄ちゃん、おしっこが近いのかな」
「でも、おしっこが近いと、それだけ、一回ずつの量は少なくなるのが普通なのよ。おしっこが近くてこんなにたくさんしちゃうの、不思議よね」
 淳子は真澄の肌にべっとり貼り付いている布おむつを手元にたぐり寄せながら、さかんに不思議がってみせた。
 けれど、実は、何も不思議なことはない。淳子がお昼寝前の真澄に飲ませたミルクには、睡眠導入剤だけではなく、効き目が少し遅めに出てくるよう調合した利尿剤も混入していたのだ。そのせいで、ミルクを飲んでから二時間近くたった頃、ちょうど、お昼寝の目が覚めてオヤツを食べ終え、紙芝居が始まってすぐに、思いもしないほど激しい尿意が真澄を襲っていたのだ。しかも、尿意が高まってくるのに耐えかねてトイレへ駆け込むのが普通だが、真澄にはその余裕もなかった。昨夜、淳子は真澄に「眠っているうちにおもらししちゃいなさい」という暗示を与えていたが、今日はそれに加えて、お昼寝前の意識が朦朧としている真澄に対して「目が覚めている間でも、少しでもおしっこをしたくなったらトイレへ行かずにそのままおもらししちゃいなさいね」という暗示を与えていたのだった。睡眠導入剤と遅効性の利尿剤、それに淳子の強力な暗示という組み合わせの効果はてきめんだった。紙芝居が始まってすぐにおしっこをしたくなった真澄は恥ずかしいのを我慢して淳子にトイレへ行かせてくれるよう申し出るつもりだったが、おそるおそる手を挙げるうちに急激に尿意が高まってきて、暗示のせいでまるで我慢できずに、そのままおむつの中におもらしをしてしまったというわけだ。そうしてその後、まさか、目が覚めている間におむつを汚してしまったと言い出すこともできず、下腹部全体にじっとり濡れた感触が広がる中、どうしていいかわからないまま、小さい子がそうするように両脚の内腿をもじもじと摺り合わせていたのだった。淳子は、それが全て自分の仕組んだことなのに、そんなことはおくびにも出さず、わざとさかんに不思議がってみせるばかりだ。
「でも、真澄ちゃんのお母さんが替えのおむつをたくさん鞄に入れておいてくれてよかったわ。この調子じゃ、真澄ちゃん、お家に帰る時間になるまで何回おもらししちゃうかわからないものね」
 美香が手渡した新しい布おむつで真澄の下腹部を拭き清め、肌に付いていたおしっこの雫を吸い取った布おむつをポリバケツに投げ入れて、淳子は大げさに溜息をついてみせた。
「先生、大変だね。お洗濯しなきゃいけないおむつ、どんどん増えちゃうね」
 美香は、真澄の通園鞄から新しい布おむつを十枚、一枚ずつ数えながら淳子に渡して言った。
「そうね、でも、意外と大変じゃないのよ、おむつをお洗濯するの。そりゃ、枚数が多いと手間はかかるわよ。でも、お洗濯をして物干し場に干してお日様の光にあててふっくら乾くと、とってもいい香りになるじゃない? ふかふかほこほこして、お日様の匂いがするのよね、乾いたばかりのおむつって。そんなおむつを触ると、ちっとも大変じゃないって気がするのよ」
 淳子は、真澄のお尻とおむつカバーとの間に新しい動物柄の布おむつを敷き入れた。
 意識なく眠りこけているわけではなく、はっきり目が覚めているのにどうしても我慢できずに、それこそ本当に幼児のようにおもらしでおむつを汚してしまったショックに自失のあまり押し黙ったままだった真澄が、おむつの柔らかな感触に、瞳をぎゅっと閉じて体をびくっと震わせた。
「あ、美香のママも先生と同じようなこと言ってた。お洗濯して乾かしたばっかりのおむつ、とっても気持ちがいいんだって。だから、赤ちゃんのお肌にも優しいんだって」
 淳子が手慣れた様子でおむつカバーの横羽根を留め、その上に前当てを重ねてゆくと、真澄の下腹部を包み込んでいる布おむつが少しずつ見えなくなってゆく。それを名残惜しそうにじっとみつめて、美香が小さく頷いた。
「そうよ、ふかふかのおむつは気持ちいいのよ。真澄ちゃんも早くそんなふうに思えるようになるといいんだけどね。おむつは恥ずかしいけど、でも、気持ちいいものなんだよってわかったら、おむつをいやがらなくてすむようになるのにね」
 おむつカバーの裾からはみ出している布おむつを指先でおむつカバーの中に押し込み、おむつカバーの上から真澄のお尻をぽんぽんと叩いて淳子はもういちど言った。
「おむつは気持ちいいのよ。赤ちゃんじゃないのにおむつなんて恥ずかしい? でも、ふかふかの柔らかなおむつは気持ちいいでしょ? それに、赤ちゃんじゃないのにおむつなんて恥ずかしいと思ったら、自分のことを赤ちゃんだと思えばいいのよ。赤ちゃんだったらおむつなんて恥ずかしくないもの」
「あ、赤ちゃんなんかじゃない。……私、赤ちゃんじゃない」
 思いがけない失禁のショックに押し黙ったままだった真澄が、弱々しく首を振って淳子の言葉を否定した。黙ったままだと、なんだかそのまま徹底的に赤ちゃん扱いされてしまいそうな気がして、かすれ声を振り絞らざるを得なかった。
「うふふ。真澄ちゃんたら強がってあんなこと言ってるけど、美香ちゃんはどう思う? 真澄ちゃんのこと、赤ちゃんじゃないと思う?」
 淳子は真澄の両手を持って上半身だけ引き起こし、おむつのお尻をバスタオルの上にぺたんとつくような座り方をさせて、悪戯めいた表情で美香に言った。
「ううん。美香、真澄ちゃんは赤ちゃんだと思う。そりゃ、美香も昨日までおむつ汚してたけど、よだれかけはしなかったもん。おしっこ言えなかったけど、給食やミルクをこぼして制服を汚すことはなかったもん。それに、おむつを汚すのだって、保育園にいる間は一日に二回くらいしかなかったよ。なのに真澄ちゃん、お家に帰る時間になるまで、あと何回おむつを汚しちゃうのかわからないほどおもらししちゃうんでしょ? そんなの、美香よりも小っちゃい子だよ。年少さんの美香より小っちゃいんだから赤ちゃんだよ。美香の妹と一緒だよ」
 美香はその場に立ち上がり、バスタオルの上にぺたんと座ったままの真澄の顔を正面から見て言った。
 真澄は何か言いたそうにするが、美香が指摘したことは全て事実だから、一言も言い返せない。しかも、おもらしで汚してしまったおむつを美香の手を借りた淳子に取り替えられたばかりの状況では、どちらの立場が優位なのか考えるまでもない。
「そうね、真澄ちゃんは赤ちゃんよね。いくら本人が赤ちゃんなんかじゃないって言っても、本当は赤ちゃんよね。さっき、真澄ちゃんがなかなかお昼寝からおっきしなくて、オヤツがお預けになったから、みんなご機嫌斜めだったでしょう? でも、それって、みんなが真澄ちゃんのことを自分たちと同じ年少さんだと思うから腹が立ったのよね。もしも真澄ちゃんが本当は年少さんじゃなくて二歳児クラスさんとかだったらどうかしら? 小っちゃい子のすることだもの、あまり腹が立たないんじゃないかな」
 淳子は先ず真澄の表情を窺って、次に美香の顔を見て、最後に紙芝居の続きを待っている園児たちの方に振り向いて優しく言った。
「それに、みんなが楽しみにしていた紙芝居の最中に真澄ちゃんがおもらししちゃったから紙芝居は途中で止まってるんだけど、真澄ちゃんが自分よりも小っちゃい子だったら、みんな仕方ないやって思うんじゃないかな。ついさっき美香ちゃん、『紙芝居は我慢するから、真澄ちゃんのおむつを取り替えてあげて』って言ってくれたでしょ? それを聞いて先生、思ったの。あ、美香ちゃん、どんどんお姉ちゃんになっていってるって」
 美香ちゃん、どんどんお姉ちゃんになっていってる。そう感じているのは、淳子だけではない。実は、自分よりもずっと年下の美香から妹扱いされて羞恥の極みにある当の真澄も、そのことは身にしみて思い知らされていた。昨日の騒ぎで美香は真澄に対して激しい憎悪を抱いた。だから、園長と淳子の企みで真澄が園児扱いされるようになると、ここぞとばかりに真澄の羞恥を掻きたてるような言動を続けてきたのだ。なのに、いつのまにか真澄に向ける視線から棘々しさは薄らいでゆき、ついさっき「紙芝居は後でいいから真澄ちゃんのおむつを取り替えてあげて」と言った時は、それこそ本当に幼い妹を気遣う姉の表情そのままだった。家に妹がいて元々が面倒見のいい性格の美香だから、おねしょとおもらしを繰り返し、ミルクで保育園の制服をシミにしてしまう真澄の様子を目の当たりにしているうちに、次第次第に憎悪の念が消えていって、生来持ち合わせている母性本能めいた感情が胸の中を満たし始めたのだろう。
 だが、それはそれで却って真澄の羞恥を激しく掻きたてるひとになる。美香が憎悪にかられて真澄のことを責めたてるなら、どれだけ羞恥を煽られても真澄はそれを『罰』として受け止めることができる。美香にひどいことを言ってしまった報いを受けているのだと思えばこそ、幼児扱いされる羞恥と屈辱に耐えることができる。なのに、美香が憎悪をもって接するのではなく、幼いながらも母性本能をもって真澄に接するのであれば、真澄の感じる羞恥と屈辱は、他の何物でもない、文字通りの羞恥であり、あるがままの屈辱になってしまうのだ。母性本能で美香が真澄を妹扱いする時、真澄は美香の中では、それこそ一人では何もできない無力な妹になってしまうのだ。『罪に対する罰』ではない『慈愛』によって掻きたてられる羞恥と屈辱こそ、想像を絶する『責め』に他ならない。
 むろん、そんなことは園長も淳子も充分に承知している。承知しているからこそ、美香を、真澄の羞恥と屈辱を刺激してやまない存在――美香本人は意識していないだろうが、無邪気であるが故に却って真澄に狂おしいほどの羞恥と屈辱を与えることのできる有能な手下あるいはパートナーに仕立てることを企て、今まさにその企みを実践に移すそのさなかにあるのだった。



《 4 優しい隣人 》

 その後、夕方の職員会議が始まる午後六時までに、真澄は五回おもらしをして淳子と美香の手でおむつを取り替えられていた。どれも淳子が真澄に気づかれることなく与えた利尿剤と暗示のせいだが、真澄にしてみれば、まさか淳子がそんな仕打ちをするとは思いもしないから、恥ずかしい粗相の本当の原因を知る由もなかった。
 職員会議が終わり、最後まで残っていた園児を保護者が迎えに来るのを待って、園長を含め保育士たちがタンポポ保育園をあとにしたのは午後七時前のことだった。少し離れた所にあるマンションへ帰るために淳子の車に乗り込んだ真澄は保育園の制服とおむつを身に着けたままの姿だった。もちろん真澄はそんな姿で保育園の外に出ることを拒んだが、園長と淳子に「保育園児が通園する時は制服に決まってます」と強引に押し切られてしまったのだった。

「こんばんは、今お帰りですか」
 淳子がマンションのドアの前でバッグから鍵を取り出そうとしていたところへ、若い女性が背後から親しげに声をかけてきた。
「あ、三宅さんも今なの?」
 鍵を手にして振り返った淳子は、やはり親しげな笑顔で応じた。
「ええ。階段を昇り始めた時、踊り場にいる石田さんの後ろ姿が見えたんです。でも、すぐに追いついちゃいました。石田さんと一緒にいる子が階段を昇るのが遅かったからかな」
 淳子が「三宅さん」と呼んだ若い女性は、見知らぬ人物の出現におどおどした様子で立ちすくんでいる真澄の顔を優しそうな目で見おろして言った。
「あ、そうだ。紹介しておくわね。この子、私の姪っ子で田村真澄ちゃん。仲良くしてあげてね」
 淳子は、自分の背中に隠れようとする真澄の体を前の方に押しやって女性に言った。それから今度は、真澄に向かって、目の前の女性を掌で指ししめして紹介する。
「このお姉さんは、お隣のお部屋の三宅優子さん。優子お姉さんは大学の一年生で、幼稚園の先生になるためにお勉強してるのよ」
「ふうん、真澄ちゃんっていうんだ。あら、この制服、石田さんがお勤めのタンポポ保育園のかしら」
 淳子と同じくらい身長のある優子は、少し膝を折り、真澄と目の高さを合わせて微笑みかけたが、真澄の着ているセーラースーツがタンポポ保育園の制服だということに気がついて、少し驚いたような顔になった。
「そうなのよ。本当は別の保育園に通ってるんだけど、ちょっと事情があって、この子の母親が二週間ほど家を空けなきゃいけなくなったんで私が預かることになったの。それで、私が勤めている保育園の園長にお願いして、預かっている間だけ特別にこちらの保育園に入園させてもらうことにしたのよ」
 まさか、保育園児の制服を着た真澄を保育実習の短大生だと紹介できる筈もない。淳子は適当な事情をでっちあげ、しれっとした顔で説明した。それから、優子の表情に気づいて訊き返す。
「三宅さん、なんだかびっくりしたような顔をしてるけど、どうかしたの?」
「あ、ええ……石田さんと並んで階段を昇って行く真澄ちゃんの後ろ姿を見て、てっきり小学校の高学年くらいだと思ってたんです。なのに、保育園の制服を着てるのに気がついたから、保育園児にしては随分と発育がいいんだなって」
 ツインテールの髪型に、いかにも子供が着そうなセーラースーツに身を包んでいるから、まさか実は真澄が二十歳の短大生だと見抜ける筈もないが、かといって、身長が一メートル五十センチ近くあるから、保育園児だと思う者もいないだろう。優子の言うように、小学生くらいと思うのが普通の反応だ。
「ああ、そういうことか。そうね、初対面だと、誰でも真澄ちゃんの発育の良さにびっくりしちゃうのよね。でも、事情を説明したら納得してくれるかな。この子の母親、つまり私の姉はちょっと名の通った実業団バレーボールの選手だったのよ。しかも結婚した相手が同じ実業団クラブの男子選手で、そんな二人の血をひいた真澄ちゃんは生まれた時から発育が良くて、保育園の今は小学校の高学年くらいに見えるほど大きくなっちゃったのよ」
 淳子はひょいと肩をすくめ、わざと大げさに溜息をついてみせた。もちろん、淳子の説明は嘘だ。嘘だが、とりあえずの説得力はある。
「あ、そうだったんですか。両親がバレーボールの選手だったら、こんなに発育が良くても不思議じゃないかもしれないですよね。でも、真澄ちゃんが小学生じゃなくて保育園児だってわかって、ようやく納得しました」
 淳子の適当な説明に優子は何度も頷いた。が、今度は淳子の方が優子の言葉に疑問を抱く。
「あの、真澄ちゃんが小学生だとしたら何か納得できないことがあったの?」
 淳子は微かに首をかしげて優子に訊き返した。
「ええ。階段を昇る時、後ろにいる私からだと、石田さんや真澄ちゃんの姿を下から見上げる格好になるんですけど、そうすると、どうしても真澄ちゃんのスカートの中が見えちゃうんですよ。最初はあまり気にならなかったんですけど、何度も見えると、真澄ちゃんがスカートの下に着けてるのがパンツじゃなくておむつカバーだってわかってきたんです。それで、小学校の高学年なのにおむつだなんて変だなって思って。最近は小っちゃい子のおむつ離れが遅くなってるって大学の授業で聞いたことはあるんですけど、さすがに小学校の高学年でおむつ離れできないとしたら病気か何か原因があるのかなとか思っちゃって……でも、真澄ちゃんが保育園児だってわかったから、もういいんです。保育園に通うくらいの小っちゃな子だったらおむつ離れしてなくても不思議じゃないから」
 優子は、おむつカバーのせいで丸く膨らんだ真澄のスカートをちらと見て言った。
 優子の言葉と視線に真澄は顔をかっと熱くして、おどおどした様子で淳子の背後に隠れようとする。
「今さら恥ずかしがっても遅いわよ、真澄ちゃん。優子お姉さんは真澄ちゃんのおむつカバー、階段の下からずっと見てたんだから。ほら、隠れんぼしてないで、ちゃんとご挨拶なさい」
 淳子は真澄の体をもういちど優子の目の前に押しやった。
「じゃ、あらためて初めまして、真澄ちゃん。お姉さんは、この近くにある大学で幼稚園の先生になるために勉強しています。本当は短大でもいいんだけど、せっかくだから二種免許じゃなくて一種免許を取りたくて四年生の大学にしたの。――あ、こんな難しいお話、真澄ちゃんにはわからないよね。でも、お姉さん、小っちゃい子が大好きだから、お隣に真澄ちゃんが来てくれてとっても嬉しいわ。時々お部屋に遊びに行くから仲良く遊んでね」
 優子は穏やかな口調で言うと、親愛の情をしめすために人さし指の先で真澄の頬を優しくつついた。
 真澄は短大の二年生。保育士の資格を取るために勉強中だから、幼稚園教諭の免許がどんな区分になっているかも充分に承知している。しかも目の前の優子は大学の一年生。一つだけとはいえ、真澄の方が年上だ。そんな優子に保育園児扱いされるのは、美香たちに妹扱いされるのとはまた別の屈辱だった。しかし、本当の年齢を明かすことはできない。実は二十歳の短大生が保育園の制服に身を包まれ、キャンデー柄の生地でできたおむつカバーで下腹部を包み込まれていると知られたら、それこそ、表現しようのない羞恥だ。
「ほら、真澄ちゃんも優子お姉さんにご挨拶しなさい。ごめんなさいね、三宅さん。真澄ちゃん、人見知りしちゃうから」
 淳子は、固く口を閉ざしたままでいる真澄のお尻をぽんと叩いて言い、それでも真澄が押し黙ったままなのを見て取ると、真澄の耳元に唇を近づけて
「ちゃんとご挨拶しないと、真澄ちゃんの本当のお年を優子お姉さんに教えちゃうわよ。真澄ちゃんが本当は短大生だって知ったら優子お姉さん、どんな顔をするかしら」
と囁きかけた。
「……あ、あの、た、田村真澄です。タンポポほ、保育園に通っています。えと、な、仲良くしてください」
 淳子の脅し文句の効果はてきめんだった。真澄は屈辱に耐えながら保育園児として振る舞わざるを得なかった。
「はい、よくできました。これからも、誰にでもちゃんとご挨拶できるよう頑張ろうね」
 淳子はもういちどおむつカバーの上から真澄のお尻を優しくぽんと叩いて言い、優子の方に振り向いて続けた。
「それじゃ、本当に遠慮なんてしなくていいから、ちょくちょく部屋に遊びに来てちょうだいね。保育士と幼稚園教諭、厳密に言うと立場は違うけど、幼児教育に携わる者としていろいろ教えてあげられることはあるから。それに、真澄ちゃんも優子お姉さんと遊びたがってるに決まってるから」
「わかりました。じゃ、いつ行くか考えておきます。その時はよろしくね、真澄ちゃん」
 優子は朗らかな笑顔でぺこりと会釈して、自分の部屋に向かってコンクリートの共用廊下を歩き出した。
 真澄は、逃げ場がどこにもないことを痛いほど思い知らされた。保育園では園長や淳子から園児扱いされ、美香を初めとする園児たちからは妹扱いされることを宿命づけられた真澄が、今度は、保育園から淳子のマンションに帰ってきてからも、おむつの外れない保育園児として振る舞うことを宿命づけられた瞬間だった。




「さ、夕飯の前に、お着替えしましょうね。園長先生、真澄ちゃんにどんなお洋服を買ってきてくれたのかな」
 優子と別れて部屋に入った淳子は、真澄の肩から大きな通園鞄をおろすと、保育園から出る時に園長から「お昼休みの後、よだれかけの生地を買うために出かけた時、子供服のお店で買ってきたの。真澄ちゃんに着せてあげて」と言って渡された大きな紙袋の口を開け、中に入っている衣類を次々に引っ張り出して座卓の上に並べ始めた。
 座卓の上に並んだのは、華やかな色使いの生地でできた吊りスカートに、丸襟・パフスリーブの純白のブラウス、肩紐が幅の広いリボンになっているサンドレスと、ベビードールふうのパジャマだった。どれも、いかにも幼い女の子が喜びそうな可愛らしいデザインに仕立ててあった。もっとも、子供用とはいっても最近は発育のいい子供が増えてきて子供服のメーカーも大きめのサイズを揃えているから、真澄が着ても窮屈でなさそうなのは一目でわかる。そうしてもちろん、その他に替えの布おむつとおむつカバー。
「もう夜だから、サンドレスだとちょっと涼しいわね。ブラウスと吊りスカートの組み合わせにしましょうか」
 淳子は目の前の子供服をざっと見まわしてから、パステルピンクの生地に大きな花びらのアップリケをあしらった吊りスカートとブラウスを両手で掬い上げた。
「い、いや。そんな、小さな子供が着る洋服なんて……」
 真澄は両手の拳をぎゅっと握りしめて声を震わせた。
「何を言ってるの。せっかく園長先生が真澄ちゃんのために買ってきてくれた可愛いお洋服なのに。だいいち、これを着ないと、他に真澄ちゃんが着られるお洋服なんてないわよ。それとも、お家の中でもずっと制服を着ていたいの?」
「き、着る物ならあります。一昨日、このマンションへ来た時に持ってきた旅行鞄に着替えは入っています」
「でも、あれは大人のお洋服よ。保育園の真澄ちゃんには全然似合わないじゃない」
「保育園児じゃありません。わ、私、短大生です。保育園児になるために来たんじゃありません。保育実習のために来たんです!」
 最初はおずおずと言っていたのが次第に感情が高ぶってきたのか、遂に真澄は叫ぶような金切り声をあげた。
 が、淳子の方はいたって冷静だ。
「そう、真澄ちゃんがそんなに言うなら、大人のお洋服を着るといいわ。大人の格好をしたところを優子お姉さんに見てもらって真澄ちゃんの本当のお年を知ってもらうといいわ」
 冷静というよりも、冷たいといった方がふさわしい口調で淳子は言った。
「そ、そんな……」
 さっき出会ったばかりで真澄のことを保育園児だと思い込んでいる優子の顔が甦ってきて、真澄は言い淀んでしまう。
「わかったら、さ、お着替えしましょう。ほら、とっても可愛い吊りスカートよ。年少さんの真澄ちゃんにはとってもお似合いだわ」
「い、いや……そんなの、いや!」
「あらあら。あれもいや、これも駄目。そんな我儘ばかり言う聞き分けのない子だったのね、真澄ちゃんは。そんな子にはお仕置きが要るわね。こっちへいらっしゃい!」
 淳子は有無を言わさぬ強い調子で叱責すると、真澄の手首をつかんでリビングルームから廊下へ連れ出し、そのままドアを開けて、玄関の外へ連れて行った。
「ちゃんと反省するまで、そこに立ってなさい。私がドアを開けてあげるまで、自分がどれだけ聞き分けのない子か、じっくり反省するのよ!」
 真澄を外に放り出し、淳子はそう言い残して、玄関のドアをバタンと閉めてしまった。
「あ……」
 ようやく自分の置かれた状況に気づいた真澄は慌ててノブをまわしたが、ドアはぴくりともしない。
(や、やだ。こんな格好でこんな所に放り出されるなんて。こんな恥ずかしい格好を誰かに見られるなんて、そんなの、そんなの)真澄はドアに取り付けてあるインターフォンのボタンを押した。ピンポン、ピンポン。何度も何度もボタンを押して、そのたびにドアの中でチャイムの音が微かに聞こえる。なのに、ドアが開く気配はまるでない。
 しばらく途方にくれていると、誰かが階段を昇ってくるらしい足音が聞こえてきた。
 もう、なりふりかまっていられなかった。真澄は足音から逃げるように駆け出し、優子の部屋のインターフォンを押した。
『はい、どちら様でしょうか?』
 チャイムが一度だけ鳴って待つほどもなく、スピーカーから優子の声が聞こえた。
「あ、あの……真澄、田村真澄です」
 蚊の鳴くような声で真澄は名乗った。
『あら、真澄ちゃんなの? なんだか慌ててるみたいだけど、何かあったの?』
「お、お部屋に入れてください。優子さ……優子お姉ちゃんのお部屋に入れてください。お願いだから、早く……」
 真澄が言い終わらないうちにカチャリと音がして、優子の部屋の玄関ドアが内側から開いた。
「何があったのかわからないけど、とにかく、お入りなさい」
 ドアを大きく押し開けた優子は、真澄の肩を抱くようにして部屋の中に招き入れた。
「き、急にごめんなさい。あ、あの、淳子……淳子お姉ちゃんと……」
 タンタンと階段を昇ってきた足音が、今は共用廊下を歩くコツコツという音に変わっている。真澄は優子の胸に飛び込むようにして玄関の中に駆け込んだ。
「ひょっとすると、石田さんと喧嘩しちゃったのかな、真澄ちゃん。それで、私のところへ逃げてきちゃったんじゃないの?」
 向かい合わせになった真澄の背中に両手をまわし、真澄の体をきゅっと抱きしめて優子は言った。
「け、喧嘩じゃない。淳子……淳子お姉ちゃんが私にひどいことするから、私、ついつい言い返しちゃって……それで、淳子お姉ちゃん、私に外で反省しなさいって。でも、でも、お外は誰が来るかわからないのに、私、このマンション、誰も知ってる人がいないのに……」
 まだ残暑の厳しい九月とはいっても、日が暮れると、コンクリートの打ちっ放しのマンションの共用廊下にいるとひんやりしてくる。優子に抱きすくめられると、冷えた体がじんわり暖まってくるみたいで、そのぬくもりを体中に感じながら、真澄は鼻をすすりあげるようにして言った。
「でも、石田さんはひどいことをするような人には見えないけどな。保育士なだけあってとっても優しそうじゃない? ひょっとすると、真澄ちゃんが聞き分けのないことを言って石田さんに叱られたんじゃないのかな?」
 真澄の体を抱きしめたまま優子は優しく微笑んで言った。見ているだけで吸い込まれるような大きくて綺麗な瞳だ。
「ち、違うもん。淳子お姉ちゃんがひどいことするんだもん」
 真澄は幼児めいた言葉遣いで言った。自分の本当の年齢を優子に悟られまいとしてのことだが、優子に抱きすくめられてぬくぬくしているうちに、つい知らず知らずのうちに幼児めいた口調になってしまったというのも否めない。
「そう? じゃ、そういうことにしておいてあげる。真澄ちゃん、石田さん――淳子お姉ちゃんにひどいことされて、それで私のところへ逃げてきたのよね。いいわ、淳子お姉ちゃんが謝るまでここにいなさい。真澄ちゃんみたいな可愛い子、いつまでいてくれてもいいわよ。じゃ、そうと決まったらリビングルームへ行きましょう」
 優子はいったん真澄の体から手を離し、今度は脇の下に両手を差し入れて廊下の上に抱き上げた。

「真澄ちゃん、晩ごはん、まだだよね? すぐにオムライス作ってあげるから、ちょっとだけ待っててね」
 ダイニングを兼ねたリビングルームの椅子に真澄を座らせて、キッチンのカウンター越しに優子が言った。
「え? あの、でも……」
 思いがけない優子の言葉に、咄嗟にどう応えていいのかわからない真澄。
「遠慮なんてしなくていいわよ。せっかく私を頼って来てくれたお客様だもの、晩ごはんくらい御馳走させてちょうだい。お腹が空くと、淳子お姉ちゃんが『晩ごはんよ』って呼びにきたら真澄ちゃん、すぐに帰っちゃうでしょ? そうならないようお腹をいっぱいにしておくのよ」
 玉葱を炒めるいい匂いと一緒に優子の声が飛んでくる。
「でも、でも……」
「私のお家、遠い所にあるんだ。小さな町だから大学なんてなくってさ。でも私はどうしても四年制の大学に入りたかったから、この街へやって来てマンションを借りたの。でも、一人で住んでると寂しいのよね。そんなところへ真澄ちゃんみたいな可愛いお客様が来てくれたら、ついつい帰したくなくなっちゃっても仕方ないでしょ? だから、今夜は頑張ろうね。淳子お姉ちゃんがごめんなさいするまで絶対に帰っちゃ駄目だよ」
 バターの溶ける匂いが漂ってきて、玉子を熱いフライパンに流し込むジュッという音が聞こえる。
 それからしばらく待つと、ふわふわ玉子のオムライスが載った皿を二枚両手で持った優子がキッチンからダイニングルームの方へやって来た。
「はい、どうぞ。真澄ちゃんのお口に合うかどうか心配だけど、愛情はたっぷり注ぎ込んだつもりよ」
 優子がオムライスの皿をテーブルに置くと、バターと玉子とケチャップが混じり合ったなんともいえないいい匂いがふわっと漂い出す。
 その匂いを嗅いだ途端、真澄のお腹がぐーっと鳴った。
「や、やだ」
 真澄の顔が真っ赤に染まる。
「いいじゃない。子供はそのくらい素直な方が可愛いわ。さ、いただきましょう」
 優子はくすっと笑って真澄を促した。
 なんだか、真澄はほわっとした気持ちに包まれていた。同じように子供扱いされても、淳子ではなく優子の前だと、とても素直になれそうだった。なんだか、自分が本当に子供の頃に戻ったような気さえしてくる。
「いただきます!」
 幼児のふりをするのではなく、まるで本心からのように真澄は大きな声を出してスプーンを持ち上げた。
「どうぞ召し上がれ」
 優子がにこやかな表情で頷き返した。
 が、そんな和やかな雰囲気は長続きしなかった。優子お手製のオムライスを二口ほど食べたところで急に真澄がスプーンを取り落としたのだ。いったんテーブルの上に落ちたスプーンは、その後、騒々しい金属音を響かせて床まで落ちた。
「どうしたの、真澄ちゃん? どこか痛いの?」
 真澄が単に手を滑らせてスプーンを落としたのではないということは、テーブルの向かい側から真澄がオムライスを頬ばる様子を目を細めて眺めていた優子にはすぐわかった。単に手を滑らせたのではなく、もっと切羽詰まった理由、たとえば何かで手を切ったとか、オムライスに小石か何かが混入していてそれで歯を痛めたとか、そんな感じだった。しかも真澄の顔色が変わって体が小刻みに震えているから、心配は尚更だ。
 慌てて駆け寄った優子は真澄の両手の様子を確認し、半ば強引に唇を開かせて口の中の様子を確認し、額に手の甲を押し当てて体温に異常がないか調べた。が、どこにもおかしなところは見当たらない。なのに真澄は、心ここにあらずといった様子でぼんやりした瞳を精気なくさまよわせ、唇を噛みしめて体を震わせるばかりだ。
「ちょっと待っててね、真澄ちゃん。すぐに淳子お姉ちゃんを呼んでくるから、少しの間だけ待ってるのよ」
 何をどう処置していいのかわからず、優子は淳子を呼びにいくことに決めた。
「や、やだ。淳子……お姉ちゃんには内緒にしてて……」
 ダイニングルームを走り出ようとする優子の後ろ姿に向かって真澄が弱々しい声で懇願するように言った。
「あ、真澄ちゃん、大丈夫なの? お話できるの?」
 真澄の声に優子は脚を止め、くるりと踵を返して真澄のそばに戻ってきた。
「お願いだから、淳子お姉ちゃんには内緒にして。し、叱られるから……」
 真澄は今にも泣きだしそうな表情でそう言いながら、さかんに両脚の内腿を擦り合わせ続けた。
(叱られるから内緒にしといてほしい? それに、真澄ちゃんのこの仕種。――あっ、そうか)幼稚園の教諭を目指している優子には思い当たる節があった。優子は真澄の様子を窺いながら、さりげなく右手をおむつカバーの中に差し入れた。
 途端に、真澄の体がびくっと震える。同時に、優子の指先から、ぐっしょり濡れた布おむつの感触が伝わってきた。
 優子は右手をゆっくりおむつカバーから引き抜き、テーブルの上に常備しているウェットティッシュで指先を拭き清めてから、おどおどした様子でこちらの様子を窺っている真澄の目を覗き込んだ。
「真澄ちゃん、おむつ汚しちゃったんだね。晩ごはんの途中におむつ汚しちゃって、それを淳子お姉ちゃんに知られたらお行儀が悪いって叱られると思って、それで内緒にしといてって私に言ったんだね」
 おずおずと目をそらそうとする真澄の目をあらためて正面から覗き込んで、けれど優子は穏やかな声で言った。お昼寝前のミルクに淳子が混入した利尿剤の効果は夕方には消えていて、それまでの頻尿はおさまっていた。けれど、淳子が真澄に与えた強力な暗示の効果が薄れることはない。そのせいで、利尿剤のためではない自然な尿意にも耐えかねて、とうとう真澄は食事の途中におむつを汚してしまうという幼児そのままの醜態をさらしてしまったのだった。
 優子の目の前で真澄が小さくこくんと頷いた。
 細かいことを言えば、「お行儀が悪いと叱られる」のがいやで内緒にしてくれるよう懇願したのではない。おむつを汚してしまったことそのものを淳子に知られるのがいやだった。淳子の部屋を飛び出し、初めて会ったばかりの優子の部屋に転がり込んで、そこでオムライスを御馳走になりながらおむつを汚してしまったことを知られれば、淳子に何を言われるかしれたものではない。明日、保育園の園児たちにこのことを話しもするだろう。それが耐えられない真澄だった。
 けれど、濡れたおむつのまま優子の部屋にい続けられるわけがないことも真澄には痛いほどわかっていた。
「淳子お姉ちゃんには私が謝ってあげる。淳子お姉ちゃんのお部屋に帰るって言う真澄ちゃんを私が強引に引き留めたんだって説明してあげる。だから、真澄ちゃんは心配しなくていいんだよ」
 優子は真澄を椅子から抱きおろし、玄関でそうしたように、真澄の背中に両手をまわしてぎゅっと抱きしめた。
「……駄目だよ、そんなことしたら優子お姉ちゃんが淳子お姉ちゃんに叱られちゃうよ。真澄がいけないんだ。真澄がおむつ汚しちゃったからいけないんだ。だから、真澄が淳子お姉ちゃんにごめんなさいする」
 優子のぬくもりが胸の中に満ちてくる。真澄はまるで小さな子供のように言って、優子の胸に飛び込んだ。知らず知らずのうちに瞳を涙が潤ませ始めていた。だがそれは、悲しみや苦しみや寂しさのために流れる涙などではなく、今の真澄の気持ちを素直に表す温かい涙だった。



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