そこに一歩ずつ近づくにつれ、この半年程で随分嗅ぎなれていたはずの部室の空気の中に、それとは違う異質な匂いが混じり、そしてより濃くなっていった。熱い呼気の湿度と、肌に滲んだ汗の匂い、そして唾液や粘膜の粘つくような濃密な匂い……。呼吸から意識へと嫌でも流れ込んでくる、生々しい行為の証。それがリアルであればあるほど、彼の現実感はむしろ薄く霞んで遠くに追いやられていくようだった。
その光景は、彼のよく知った現実とはかけ離れていた。目の前のその人は、言葉を失って強張らせた顔を必死で背けていた。清潔さを象徴するような白いシャツは乱れて胸元を露にし、シャツが影を落とすその肌は、うっすらと上気して淫らに透き通っていた。細身ながら鍛えられた筋肉で張り詰めた両脚の下には……制服のスラックスと、ベルトと、ずり下げられただけの下着が、引き締まった二つの足首の下で無造作に留まっていた。不安げな両手で必死に隠されている部分は、未だ赤黒い充血の名残を残し、先端から流れる透明な雫が光の反射に震えていた。
身体の中で、何かが形になったのが分かった。さっきまで濁った霧のように体内に漂い、時に激しい渦を巻いて心を騒がせ、形も出口もなく名付けることも出来なかった何かが、ひとかけらの核の周囲に一気に収束して、意識の上に落ちた。自分が何を望んでいたのかようやく理解できたのだと、彼は思った。そのまま、膝を折りこくりと喉を鳴らし、そして、ゆっくりと、ぎこちなく唇を開いた。
生徒達の人影が絶え、校舎の明かりが職員室と非常口だけになった午後九時過ぎ、体育館に隣接する部室棟に一つ、バスケットボール部の明かりだけが点いていた。全国大会への出場を望まれながらも夏のIH予選は県ベスト4という結果に終わった陵南では、既に三年生部員は部活を引退し、二年生を中心にした新体制がスタートしていた。次こそは全国へと意気込む部員達は、鬼顧問と名高い田岡茂一が指導する地獄の本練習を終えたあとも、疲労物質の塊と化した身体を引きずって施錠時刻ギリギリまで自主練習をする日々が続いた。
最後に体育館を施錠して部活日誌を書く当番は、当初二年生の間でローテーションを組む予定になっていたが、成り行き上、新しく副キャプテンになった越野が務めることが多かった。なんのことはない、単純に彼が最後まで自主練習していることが多いというだけなのだが。
「お前もたまには日誌書けよな、一応キャプテンなんだし」
部室の隅の机の上で、越野が日誌の表紙をバタンと閉じた。
「えー、オレが書くより越野のほうが読みやすいんだけど」
新体制になってキャプテンに指名された仙道だったが、着替えをしながらどこか他人事のような調子で返した。二人の他には誰もいなくなった狭い部室に、仙道の長閑な声が響く。普段はあまり遅くまで居残る方ではないが、時々こうして誰かの自主練に付き合うことはあった。そうでないときは、どこかで自分なりのトレーニングをしているか、陽気のいい日は釣りをしながら海を眺めているからしい。
「威張って言うな」
「自分で書くより誰かが書いたの読むほうが楽しいんだよね」
「それはオレだって同じだっての。あ、この福田の書いた日の日誌ちょっといいよな。淡々としてるんだけどちょっと毒入ってて」
「ああ、それな。オレも読んだ」
仙道がシャツのボタンを留めながら越野の座る椅子の傍らまで来ると、二人で頭を寄せて机の上の日誌を辿りだした。
と、近い位置で二人の視線がかち合う。一瞬の戸惑いのあと、越野は鼻を鳴らして忙しなく目を逸らし、それから照れ隠し代わりに苦々しく眉間を寄せた。所在無げな目許が微かに赤く染まっていることは、恐らくその一番近い相手以外には分からないような僅かさだった。
同じ部活で一年と数ヶ月を過ごし、気心の知れた友人関係という間柄ではあった。それは部内の誰もが知っていて、今更それについて何か言う者もない。だが、ここ最近になって、二人きりでいる時の表情や言葉にどこか甘やかなニュアンスが潜むようになったことは、誰も知ることのない隠微な事実だった。
「ん……ッ……」
仙道の目線に合わせて椅子から立ち上がった越野の唇に、仙道が当然のように自分の唇を重ねる。互いの腰に腕を回して引き寄せ合うより早く、二人は舌を深く絡ませて熱い唾液を貪った。口内の薄い粘膜を舌先でなぞられ、越野の唇から短い息が漏れる。その隙間を仙道が再び塞いでゆっくりと吸い上げると、越野は一瞬重力を見失うような幸福感を覚えて、仙道の広い背中に縋り付いた。
いつの頃からだったろう。いつも隣にいるこの大らかな友人から、越野は目が離せなくなっていた。バスケットをするにはこれ以上ないほど恵まれた、均整の取れた長身の身体としなやかな筋肉。ボールを自在に扱う手は、大きさに似合わない器用な長い指を備えていて、そのことに気づくとやけに越野の印象に残った。整った容貌から大人びて見られることも多かったが、気取りのない陽気な笑顔は晴れ渡った空と海を思わせるようで、そういうときには越野にも、神奈川で知らぬものはない屈指の天才プレイヤーというよりも、むしろ無邪気で気のいい同級生でしかなかった。笑いかけられると、嬉しかった。自分と一緒にいるとき、仙道が心から楽しんで時間を過ごしているということが分かると、言いようのない嬉しさで心が隙間なく満たされた。どことなくのんびりして柔らかく響く声は、廊下の一番端からだってすぐに聞き分けられた。仙道に何かあっても、あるいは何もなくても、一番近くで力になれる存在でいたいと思った。そう思うと、どんなことだって頑張れる気がした。
好きなんだろうな、と思った。所詮行き過ぎた友情でしかないと散々否定し苦しんで、道ならぬ恋に堕ちた自分を身が細るほど責めたあと、越野は結局、諦めて告白した。そうするほかないほど、気持ちに行き場がなくなってのことだった。幾度もの眠れない夜を過ごして疲れ切った越野の前で、だが仙道の返事は、なんのことはない、あっけないほど短い了承の言葉だった。
「じゃあ、付き合おうか。オレも越野が好きだ」
そして照れた笑顔で晴れやかに笑った。
「……どうする?誰もいないけど」
その柔らかい声で越野の耳元を甘く撫でながら、仙道の右手が越野のシャツのボタンへと伸びる。了承なく一つ、二つと外して、裸の胸へ指先を差し込めば、しっとりと汗を浮かせ始めた肌は、高鳴る鼓動がそのまま伝わってくるような熱さだった。気紛れに、胸の突起に指を掛けて弄ぶと、越野は耐え切れず背を反らして声を漏らした。
「さすがに、部室はまずいだろ……」
真面目な副キャプテンは、乱れ始めた息を殺すように密やかな声を絞り出した。と、越野の首筋に仙道の鼻で笑う吐息が触れた。胸を撫でていた右手が、そのまま躊躇いもなく下肢へと伸びる。一瞬身体を強張らせた越野に、喉の奥で詰まった笑いをくつくつと押さえながら
「こんなにしてて、よく言うよ」
仙道はのんびりと、楽しそうに言った。
陵南バスケットボール部に入って、約半年。一年生の控えセンターである菅平は、悩んでいた。いや、正確にはもう控えセンターではないと言わなければならなかった。夏までキャプテンとして部を引っ張り、試合でもその巨体とパワーで一際存在感を放っていた魚住は、既に部を引退し、もうチームにはいない。二年生の部員の中にはセンターをポジションとする選手はいなかったため、一年生とは言っても自分が正センターを務めなければいけない時期にきているということは、菅平自身もよく分かっていた。しかし、夏のIH予選で数分間出場した試合で、菅平は自分の力量がいかに及ばないか、チームの一員としてどれだけ力不足であるかを痛感せざるを得なかった。そのことも手伝って、魚住の後任として攻守の軸となるプレイをしなければいけない重圧は、彼にとってはこれまでの人生で経験したこともないような途方もないものだった。身長は、確かに平均数値よりはずっと高いが、かといって強豪校のセンターとしては特筆するほど高くはない。身体能力が特別抜きん出ているわけでもない。そして、彼はどちらかというと気が弱い方で、同学年の友人相手ですら、何か言いこめれらると言葉に詰まってしまうこともあるくらいだった。まして、ゴール下で自分より大きい選手達を相手に、闘争心むき出しで身体の張り合いをできるようなタイプでは、到底なかったのである。それでも、次の練習試合からでも、自分が魚住の抜けた穴をいくらかでも埋めなければならない。部員達や顧問の田岡は、こんな自分でもなんとか励まして、諦めないで努力することを説いてくれる。そのことが菅平にとっては救いでもあったが、同時にその期待に実力で応えられない自分の不甲斐なさとも直結していた。そうして、本当は誰も自分なんかに期待していないのだろう、早く諦めて他の有望な選手でも引き抜いてくれればいいのに、とさえ思うことがあって、またそうして逃げの思考に陥っている自分に気づく度、己の心の弱さや卑屈さを見せ付けられたようで気持ちが鬱々と沈むのだった。時には、翌日の部活を思うと胃から喉まで鉛の塊を詰め込まれたように重くなり、ほとんど吐き気に似た胸苦しさに襲われることもあった。
そういうとき、菅平は決まってある人の言葉を思い出した。
「魚住さんだって、一年の頃は大変だったって聞いたぞ。努力の結果は必ずついてくるから、周りのことは気にするな」
その時自分に向けられた真っ直ぐな笑顔や、力強く言い切った声のトーン、光の映った瞳の深い色が脳裏にくっきりと蘇ってきて、菅平は一つ溜息を吐いた。頑張らなきゃな、と思い直した。いつかは、あの人に信頼されるようなプレイヤーになって、同じコートで勝利の感動を分かち合いたい。部活から帰宅するなり床に置いたままだった鞄をようやく開いて、その日使ったTシャツやタオルを取り出そうとしたとき、菅平は小さく「あ」と声を上げた。
「Tシャツ、忘れてきた……」
恐らく、部室のロッカーに入れたまま置き忘れてきたのだろう。絞れるほどの汗で湿ったTシャツを翌日までそこに放置しておくことは、女子ではなくてもさすがに気が引けた。ロッカーが臭ったら嫌だな、という心配がまず初めに頭に浮かんだあと、あの人の清潔な黒髪と白い首筋が思い出された。そしてまた一つ溜息を吐いた。
「ちょっと忘れ物取りに行ってくる」
未だ着替えていなかった制服のまま、玄関越しにそう告げると、菅平は家の前庭に停めてある自分の自転車に跨った。