「菅、平……?」
越野は、浅く飲み込んだ呼吸を、吐き出すことができなかった。喉の奥が何かで詰まって、気道を塞ぐようだった。辛うじて漏れ出た短い糸のような息は、その一人の後輩の名前を声に乗せるにも足りず、ただかさついた子音の連なりにしかならなかった。身を焼くような熱であらゆる感覚が渾然となっていた体内から、冷えた理性がしんしんと下りてきて、目の前の非現実的とも言えるほど逼迫した状況を、形を持ったただ一つの現実として見せ付けていった。身体の周囲の空気は急激に熱を失って、汗を吸ったシャツが不意に冷たく身体に触れた。
 予想だにしなかった事態、と言うことはできなかった。学校の敷地内、生徒であれば誰でも入れる場所で、ドアの内鍵を掛けることすら忘れてただ行為に没頭していたのは、越野にとっては落ち度などという言葉は余りにも軽かった。よりによって部のキャプテンと副キャプテンが、しかも部室で、歪んだ性交渉に耽っていたということになれば、処罰は個人のみならず、バスケット部そのものへも及びかねない。越野の不安を真っ先に支配したのはそのことであり、また、それは行為の前に考えが及ばなかったわけでは、決してなかった。欲求に火がついてしまう前に押し留めなければいけなかったのはよく理解していたわけで、しかし後ろめたく思いながらも良識を意識の奥に遠く追いやり、身体の生理と差し迫る快楽に身を委ね、あるいはその非日常的な緊張感に微かながら否定しがたい刺激を感じていたのも、また事実だった。
 この状況を、一体どうしたら収めることができるのか、越野には想像すらつかなかった。言っていい言葉も見つからなかったし、それ以前に声を出すほどの呼吸が肺に入ってこなかった。それがほとんど意味を成さないと分かっていながらも、越野はシャツの裾で自身の前を幾らか隠した。手は、知らず、震えていた。ふと、一気に体温が下がった身体に、未だ深く穿たれているその部分の硬い熱が際立って感じられた。越野が背後の仙道の様子に意識をちらと向けた時
「ワリイ、今取り込み中。後にしてくんね?」
自分の耳のすぐ後ろではっきりした声が響き、越野は身体を小さくびくつかせた。その声は、言うなれば、学食のテーブルで友人に「ソース取って」とでも言うような、一切の動揺や気後れの欠片すら感じられない、越野の聞き慣れた、全く普段通りの仙道の声だった。身体は未だ繋がっていながら、自分の動揺とは懸け離れた所にあるその鷹揚な声に、越野は何が本当なのか分からなくなるような混乱を覚えた。仙道が何ら平静さを失っていないことが、何かの意図があってのことなのか、あるいはある種の心理作用の病的な欠落なのか、判断できるような余裕もなく、越野は間近に立ち尽くす後輩の顔も、背後に添う恋人の顔も見れずに、ただ視線を床に泳がせることしかできなかった。

「……越野さん……」
ようやく聞き取れるかどうかという程度の篭った声を吐き、虚ろな目を開いたままショックで身体を動かすことを忘れている様子の後輩に、仙道は、今度は緩く微笑して再び声を掛けた。
「なんだ、興味あるのか?」
幾らか鼻で笑ったその声には、穏やかながら微量の嘲りが含まれて、生来のどこか楽しげな響きを持ちながらも、相手の場違いを質すだけの有無を言わさぬ強さも備えていた。しかし、菅平はその問い掛けにも一切の反応を返さなかった。聞こえているのかいないのか、菅平の視線は相変わらずの空虚さで、ある一点を見つめたまま動こうとしない。
 これまで部活中に見せていた菅平の様子は「気弱」の一言で、誰かに声を掛けられても咄嗟に「すみません」と返答することが多いほどだ。まして、先輩の言葉を無視するなどという芸当は、菅平にできるはずもない。菅平の様子がどこかおかしいことに先に気づいたのは、仙道のようだった。
「……菅平?」
乾いた黒い穴かと思うほど、瞬きに揺れもしない瞳の中を伺うように、仙道が訝しげな小声を投げ掛けた時だった。飲み込んだ泥を吐き出すような、重く濁った声が室内に響いた。
「……近くに、行ってもいいですか……?」
その声色も、部活で聞き慣れている遠慮がちな菅平の声とはほとんど別人のようだった。しかし、意図の見えないような暗い声の奥には、彼らしい頼りなさや動揺も微かに見え隠れし、彼自身が今戸惑いの只中にあることも見て取れなくはなかった。ただ、相変わらず動かない瞳はその間にも仙道に向けられることはなく、なにかに囚われたようにじっと虚空の一箇所に据えられたままだった。
 菅平の声と言葉に一瞬身体を硬くした越野の様子を知ってか知らずか、仙道は再び微笑を漏らすと尚も楽しげに応えた。
「……へえ、案外度胸あるんだな。知らなかった」
仙道はその白い歯をちらと見せて笑うと、ドアを閉めるように菅平を顎で促した。

 越野には、二人のやり取りがほとんど理解不能だった。菅平が、これほどのショッキングな光景に、言葉を失い、身動きできずにいるのはまだ仕方ないと思うし理解できなくはない。それほど、到底起こり得ないような状況に出くわしてしまったのだから。しかし、それを逃げもせず、むしろ近くに来たいとは一体どういうことだ? 心の底で微かに蠢いた、言い難い身の危険に近いような感覚は必死に否定し意識の外に追い遣り、これから何が起ころうとしているのかを何とかして考えずに済む方法を、越野は懸命に探していた。肺に入らない浅い呼吸が喉をただ行き来し、酸欠で視界が白くちらついてくるようだった。仙道も仙道で、何故菅平を容認するような態度を取るのか。自分達のこんな卑猥極まりない姿を他人に晒して、平気でいられるとでもいうのか? 背後の仙道の身体が、自分の知っている仙道ではないような気がして、越野は胃の中に薄ら寒い風が吹くのを感じた。手を震わせていた動揺が、膝や足首をも震わせ始めた。それに気づいて身体を支えた仙道の腕も、今の越野にとっては、ただ身動きを制する枷のようにしか思えなかった。払いのけようとした手には、どうやってもまともな力が入らず、ただ仙道の腕に縋り付くような形にしかならなかった。
 ドアがゆっくりと閉まる音を聞き、それから、内鍵がかちゃりと落ちる音を聞いた。放心した身体を引きずるような重くぎこちない足音が、一歩、また一歩、と近づくのが越野にも分かった。菅平が視界に入らないようにあえて背けて俯かせていた視線に、彼の足元のスニーカーがちらと映り、越野は言いようのない恐ろしさでまた殊更に顔を背けた。仙道、一体どういうつもりなんだ? 頭の中でただ繰り返されるその叫びは、喉が詰まって声に出ることはなかった。

「越野さん……」
もう一度、うわ言のように呟くと、菅平は越野の前に崩れるように膝を折り、跪いた。菅平の視線が初めからずっと越野の、その身体にひたすら向けられていたことに十分に気づいた仙道が、ようやく笑みを収めて溜息混じりに口を開いた。
「菅、お前、越野が……好きなのか」
眉の上に、微かに困惑とも同情とも取れない苦々しさが浮かぶ。仙道の言葉に、越野の浅い呼吸が喉の奥に飲み込まれる音が響いた。越野が息を殺してその答えを待つ間にも、菅平は身動き一つ取らず、また視線を上げることもなく、ただ口だけを僅かに動かした。
「仙道さん、越野さんと……付き合ってるんですか?」
虚ろな口元から返ってきたのは、仙道からの質問への回答でもなく、会話が成立しているとは言い難い言葉だったが、仙道はそのことを気に留める様子もなく、そのまま悠長に応じた。
「ああ。オレは越野が好きだし、越野もな」
「……越野さん、ほんと……ですか?」
今度こそ名前を呼ばれて、越野は震える身を更に硬くした。もう、逃げられない。この状況に、自分も逃げようのない一員として対応しなければいけないと、越野は小さく覚悟を決めた。この期に及んで、またこんな異常な状況下でも、仙道にきっぱりと「好きだ」と言われて、特別な感情で胸が高鳴るのを否定できない自分に、ある種の自嘲を感じながらも、一度震える深呼吸をし、口を開いた。
「……ああ、そうだ。オレから、告った」
越野の声は、極度の緊張で少し掠れてはいたが、その言葉に迷いはなく、強い響きを持っていた。しかし、未だ菅平の顔を視界の中心に据えることはできず、越野は眉根を寄せて、息を殺し、床の一部をじっと見つめていた。
「……そうなんですね……」
その菅平は、消え入りそうな声を絞り出すと、じわじわと肩を落とした。そうして、越野が想像もしなかった、したくもなかった行動に出た。その虚ろな視線を眼前の越野の下半身に定めると、震える呼吸を徐々に荒くして、唇から紅い舌を覗かせた。彼の吐き出す湿った呼気が、シャツの隙間から越野の陰毛に触れた。
「なッ……や!」
言いようのない恐怖を感じた越野は、咄嗟に足を蹴り上げ抵抗しようとしたが、足首に絡みついている下着とスラックスがもたついて動きの自由を奪い、ただもぞもぞと身を捩らせるだけに終わった。菅平の顔を押しのけようとした腕は、信じがたいことに、背後の仙道によって手首を絡め取られて、片手で背中側に縫い付けられていた。
「仙道!どういうつもりだ!離せ!」
越野がありったけの声で叫ぶと、
「ストップ」
仙道はもう片方の手で越野の口元をそっと覆った。振り向いた越野の目に、仙道が苦笑いしているのが見えた。
「あんま騒ぐと他の奴が来るぞ」
穏やかにそう言うと、仙道は越野の口元を覆った手を、首筋から肩口へと滑らせ、心配しなくていいから、とでも言いたげに、何度かポンポンと触れた。
 越野には、仙道の言葉も行動も、全く意味が分からなかった。いくら同性だとしても、仮にも恋人が他の男に身体を触れられようとしているのを何故黙って見ていられるのか。何故、自分の身体をこの男の前に差し出そうとするのか。混乱と憤りで頭の中の血管が膨れ上がり、ガンガンと耳鳴りがするようだった。
「仙道、恨むぞ……」
あらん限りの怒りを込めて後ろの仙道をぎりぎり睨み上げると、仙道はその目にちらりとサディスティックな笑みを乗せて、言い放った。
「喘ぎ声、聞かせてやれよ。後でオカズにするって、さ」
歌でも歌うような軽やかさだった。そうして、今度は越野の耳元に触れる距離まで唇を寄せると、越野にだけ聞こえる密やかな、しかしぞくりとするような力を持った声で、こう囁いた。
「諦めさせてやれよ……」
その声には、微かな悲しさが滲んでいた。

 仙道の言葉に一瞬心臓を強く締め付けられ、越野がその痛みの意味を心に確かめようとした時、何かが越野の先端に触れた。それが前で跪く菅平の手だということを、越野は分かってはいてもどうしても認めたくなく、身を捩って必死に否定した。荒々しく震える呼吸が、すぐ触れそうな距離で行き来する。後ろの仙道にも前の菅平にも、もうどちらに抵抗したらいいか分からなくなって、越野はただ徒に首を振るしかなかった。
「や……いやだ……ッ!菅!」
熱く濡れた何かが、先端を撫で、越野は首を反らして悲しげな声を漏らした。それから、上下の唇が恐る恐る肉の先を咥え込むのを越野ははっきりと知覚した。
「いやだ……!菅平、何で……!」
越野は尚も身を捩ってそう言うと、ようやく、自分の両足の間で屈み込む菅平の頭を正視した。伏せられた黒い髪の下で、赤い唇がじわりじわりと動いていた。菅平は越野の言葉に、咥えた先端を幾らか開放すると、それでも唇を間近に据えたままで、詰まった喉を絞り出すように話し始めた。
「……オレ、越野さんにずっと憧れてました。越野さんのこと……好きでした。でも、だからって、どうしたらいいのか分からなくて……。でも、こんな越野さん見たら、オレ、ほんとはずっとこうしたかったんだって分かって……」
苦しげな言葉と呼吸の合間に、それでも菅平は手と舌先で必死に、愛おしそうに愛撫を続けた。言葉には、やがて涙を堪える呻きが混じった。
「オレ、気が弱くて、何か言われてもあんまり言い返せないし、越野さんみたいに思ったことしっかり言える人になりたいって思って……。部活が辛いときも、越野さんに、すごく励まされてました……。越野さんに会えるだけでもいいから、部活に行こう、って思えました。でも、オレ、越野さんのこと見ると、嬉しいんだけど、苦しくて……。どうしようもなくて、どうしたらいいか、分からなくて、苦しくて、情けない自分が、嫌になって……」
菅平の声は、半分以上涙声になっていた。舌先を動かす濡れた音に、洟を啜る音と、押し殺した嗚咽が混じった。その言葉を、越野もまた、胸を抉られるような気持ちで聞いた。
「菅、もう、いいから……もう……」
越野は唇を噛んだ。自分の胸のすぐ近くに、思い当たるものがないはずはなかった。気を緩めると泣きそうに歪む唇を、もう一度強く噛み締め直した。
 同性に特別な感情を抱いてしまう辛くやり場のない葛藤や自己嫌悪、苦痛は、誰よりも、越野自身のものであった。理性と感情の間で心を二つに引き裂かれるような苦悩も、それでも諦めきれずに微かな希望を抱いてしまう弱さも、越野が仙道に対して抱いて身を焦がしていた想いと何ら変わるものはなかった。自分は幸運にも想いが叶ってこうして仙道と秘密を共有しているものの、それはごく稀な奇跡的なケースであることは越野自身よく分かっていた。想いを告げても受け容れられないどころか、軽蔑され友人としての縁を切られてしまう恐れだってあったはずだ。仙道に他に恋人がいて、惨めな思いをすることもあったかもしれない。そう思うと、越野は菅平に自分の気持ちを重ねてしまうことを止められなかった。自分が嫌というほど味わった同じ苦しみを、まさか自分もこの気弱な後輩に抱かせてしまっていたなんて。自分の足元に屈み込み、嗚咽を堪えながら必死に愛撫を続ける後輩の姿は、状況の歯車がほんの少しずれていたら、あるいは、自分の姿でもあったかもしれないと思わされて、胸が締め上げられるように苦しくなった。
「分かったから、もう……」
言葉の続きは、震え、上ずって、声にならなかった。すると越野の身体の抵抗が弱まったのを機に、菅平が覚悟を決めたように小さく息を吸い、越野の芯を根本まで一気に咥え込んだ。越野は堪えきれず、明らかに涙声の混じった喘ぎを上げた。物理的な刺激で再び大きくなり始めていたそれは、菅平の柔らかい上顎の奥に当たり、苦しそうな呻きと共に喉の反射でぐうっと押し返されるのを越野は感じた。それから、奥歯の硬い塊が、がつりと先端に当たった。仙道の口の中では感じたことのない、ぎこちない不快感。菅平が、口淫行為をしたことも、されたこともないことが分かるようだった。だがそれは却って強烈に、そして生々しく、越野の意識を掻き乱した。菅平がただ不器用に、必死に、舌を絡ませ、唾液を流し、自分を愛撫し続けるのを、越野は声を低く殺して懸命にやり過ごした。
「越野は裏スジよりはカリかな。口の中に唾液溜めて、奥で締めるんだ」
状況をしばし静観していた仙道が、不意に口を開いた。唇の端に笑みを乗せているのが分かるような、緩やかな声だった。
「仙道、何を……、あ……!」
越野の中を貫いたまま留めていた自身を、仙道が再びゆっくりと動かし始めた。緊張で固まっていた内部の筋肉を、ずっしりとした熱い肉塊が少しずつ解していく。こんな状況にあっても、突き上げられる度、体内で息を潜めていた淫らな情感が強制的に掘り起こされるのを、越野は拒めなかった。呼吸を震わせ、背を反らし、あられもない声を漏らしながら、一度は熱が引いた身体に、再び手に負えない火が燻り始めるのを抗い難く感じていた。押し殺しても絶え間なく漏れ出る湿った吐息は、菅平が部室のドアを開ける以前に室内に満ちていたのと同じものになり始めていた。
「よく聞いとけよ。越野の声」
仙道が、越野の肩越しに、足元の菅平に言葉を落とす。その声には同情や嘲笑というよりも、何かの意志が含まれているようだった。
 仙道の言葉に菅平は反応を返さず、一度口の中で悲しげに息を詰まらせただけだった。が、すぐにその呼吸を飲み込んで、先程の仙道の助言をひっそりと思い出すように、口の中の唾液で越野を包み込みながら、喉の奥で先端を刺激し始めた。間もなく越野の漏らす声に、隠し切れない甘い響きが混じり始めたのは明らかだった。不器用ながらいくらか慣れ始めた菅平の愛撫と、越野の身体を十分に知り尽くした仙道の律動によって、越野の身体を縛っていた緊張は意識の奥に退き、悦楽によって確実に凌駕され始めていた。
 菅平も、最早自らの興奮を抑え切れなくなったようだった。左手で越野を愛撫する傍ら、右手ではもどかしそうに自分のジッパーを下げ、下着から自身を取り出すと、そのまま自らの右手で強く扱き始めた。その身体の振動は越野の下半身にも伝わり、越野はちらと足元に目を遣ったが、菅平の頭の下、その右手の中で隆起した剥き出しの肉茎が嫌でも視界に入り、咄嗟に顔を背けた。菅平のそれは、先端に未だ幼さを残しているようで、やはり自分のものとも、勿論仙道のものとも違って見え、第三者の他人と性行為を共にしているという現実を、改めて生々しく越野に突きつけた。自らの手による直接的な快が加わり、一層激しくなる菅平の呼吸が、鼻と口から絶え間なく漏れ、越野の薄い陰毛を荒々しく掠め続けた。
 そうして背後では、いやらしく濡れた音を立てて、仙道が越野の粘膜を容赦なく突き上げ続ける。
「菅、聞こえるか?この音。越野スゲー感じてるみたいだ。普段より締め付けてくる」
菅平の顔が、二人の結合部にごく近い位置にあることを分かった上での、仙道の言葉だった。菅平は、今度こそ苦痛で顔を歪めると、越野に絡ませていた舌の動きを数秒止めて、こみ上げる嗚咽を必死に飲み込もうとしていた。それは、最早咽頭反射でも何でもない、本当の咽び泣きだった。その苦しげな喉の動きが、越野にはこれ以上なく直接的に伝わってきて、ほとんど気が狂いそうな悲しみに襲われた。
「仙道、もう、やめろ……頼むから」
越野は顔を伏せた。涙が一筋、汗ばんだ頬を伝った。その頬に、仙道がゆっくりと唇を寄せて、静かに囁く。
「お前がイかなきゃ、終わらねえよ……」
残酷な言葉の意味とは裏腹に、仙道の声は、穏やかな悲しさに満ちていた。仙道は越野の頬の涙を舌先で舐め取った。

 菅平の口元は、唾液と、汗と、ついに溢れて流れ出した涙が滴り、顎から胸元までだらしなく濡らしていた。唇は絶え間ない摩擦で紅く充血し、汗に塗れた前髪は、乱れて額に張り付いていた。だがそんな形振りを構うこともなく、菅平はただ一心に、口の中の越野への愛撫と、右手の中の自分自身への慰めに没頭した。自らの中の種々の葛藤や、羞恥、それから、叶わなかった想い……入り混じって言葉にならないそれら全てをその手と舌の動きに変えて、必死に心を空洞にし、苦悩を手放そうとしているようにも見えた。唇の隙間から漏れる激しい呼吸には、時折切羽詰った呻きが混じり、彼の限界が近いことを知らせていた。
 そしてその愛撫を受ける越野も、二人の男に前後を攻められ続け、これまで経験したことのない強烈な性感をやり過ごす術はなかった。菅平の喉は越野の一番弱い所を刺激し続け、仙道はここにきて一層硬く熱いその形で、越野の快楽の根元を深く穿ち続けた。逃げ場のない熱を一秒毎に蓄え続ける下半身に、喉の奥の脳髄はむしろ甘くひりついて冷えていくようで、許容を超えた感覚に脳幹が悲鳴を上げているようだった。いっそ全てを忘れて愉悦の海に身を投げ出せたら楽にもなれただろうが、だが越野の理性はそれも許さなかった。自分に密かに想いを寄せていたというだけの、何の罪もない後輩を、このような卑劣な方法で辱めていること、それにもかかわらずただ必死に、愛しそうに吸い付いてくる彼の異様ともいえる様相が、越野の心に痛々しい楔を打ち、白く飛びそうになる意識を罪悪感の泥の中に引き留め続けた。押し寄せてますます強くなる快楽と、苛まれ続ける良心の間で、両極に引き裂かれ散り散りになりそうな意識をどうすることもできず、越野はひたすら悲痛な喘ぎを漏らし、身体を捩らせた。
 菅平の舌が、ふと動きを止めた。喉の奥がひくひくと震える。その振動はやがて身体全体に広がり、菅平は越野を口に深く含んだまま、苦しげな呻きを上げた。菅平の右手の指の隙間から、数滴、濁った雫が飛んだ。菅平は身体の痙攣を強くして、尚も数回右手で自身を強く扱き上げたあと、残りの粘液は掌を伝って床に流れた。その様子を、越野はほとんど悪夢でも見るように、細めた目の端に映した。現実として受け容れ難い、信じたくないという気持ちは、やがて鼻を掠めた独特の体液の臭いによって簡単に否定された。
 生理に支配されてしばし呆然とした菅平だったが、果てて脱力しようとする身体を尚も持ち直すと、またじわじわと舌と唇での愛撫を再開した。呆然とした表情は、今や虚ろというよりも、遠く恍惚としているようでもあった。自身の粘液でべっとりと濡れていることも忘れているのか、その右手で越野の嚢に下側から触れ、掌で包み込んだ。

 越野も、最早絶頂を待つばかりの身体を抱えて、ぼやけていく意識の片隅に先ほどの仙道の囁きを思い返していた。もし自分が達してしまえば、この尋常ならざる拘束状態を終える契機になるのかもしれない、と思うことは、微かながら望みと言えないこともなかったが、そんなことよりも今はとにかく、この後輩の顔の前、最悪の場合口の中で体液を放ってしまうことを、なんとしても避けたい一心だった。綯い交ぜの愉悦に支配され白く霞んでいく思考の中で、越野はその最悪の事態を避ける方法を必死に考えようとしたが、しかし希望は見出せなかった。両手首は相変わらず後ろで仙道にしっかりと掴まれており、目一杯身体を捩らせた所で微動だにしなかった。この異常な行為が始まってからずっと握り続けているというのに、その力は疲労の兆しさえ見えない。越野は唇を噛んだ。自分のチームのエースプレイヤーの握力を、こんな場面で実感しなければならないことを、恨めしく思った。そうしてその間にも、下半身の熱は刻一刻と確かな形に収束し始め、体内のあらゆる感覚や思考を巻き込みながら、その先端目掛けて一気に押し寄せようとしていた。目前に迫り来る快の塊に、越野はもう震える声を憚ることもできず、頭を振り、涙声を上げた。
「菅、離せ、もう、ヤバイから……離せ……!」
しかしその懇願を、菅平が聞き入れることはなかった。虚ろな目はそのままに、吸い付く唇の力を一層強めた。
「や……ああ!」
一瞬強く反った越野の首を、蛍光灯の青白い光が照らす。その口から諦めとも悲しみとも取れない声が溢れ出し、固く閉じた目蓋から涙が幾筋か押し出された。その雫は、肌に浮かんだ汗の粒と混じって頬を流れ、痙攣する身体の動きに振られて顎から滴り落ちた。あらん限りの喘ぎが絞り尽くされた後、越野の唇には、奥歯の隙間から漏れ出るような重い呻きと、荒い呼吸が残った。

 越野は、菅平の喉仏が、ゆっくりと上下する音を聞いた。菅平の舌は、精を放ち終えて徐々に失われていく硬さを惜しむように、未だ越野の先端にねっとりと巡らされていた。濁った粘液でぬめる唾液を、大切そうにもう一度飲み下し、菅平は口の中で越野の名前を一度呟いた。それから、先端の穴の窪みから包皮の襞の中、芯の根元まで、隙間なく丁寧に舌を這わせ、吸い上げた。全ての名残を舐め取らなければ気が済まないとでもいった様子で、既に弛緩し始めているそれを無心に口に含み、舌と唇で尚も愛撫し続けた。そうしてもう一度、口の中で越野の名を呼び、虚ろな目でその響きを味わっていた。
 後ろの仙道も、越野の内部で強く締め付ける律動に促され、越野の絶頂に間を置かず高みに達していた。そのまま二度、三度と突き上げた後、一度大きく息を吐き、腰の動きをゆっくりと収めた。しかし繋がりを解くことはせず、その代わりに越野の両手首を握っていた手を緩め、開放させた。
 三人の間には、それぞれの呼吸音と、菅平の舌が動く音だけが響いた。数秒の後、やがて菅平が名残惜しそうに、離れ難そうに、越野の下半身から手と唇を引き離すと、行き場を失った身体を持て余すように、その場に力なくへたり込んだ。しばし呆然とした表情を浮かべ、荒れた呼吸で肩を上下させていたが、そうするうちに幾らか理性が戻ってきたらしい。すでに力を失って項垂れている自分自身を下着の中に戻し、ジッパーを上げ、それから床に流れ落ちた自分の体液に目を落とした。しばらく俯いていたあと、ポケットの中からティッシュを何枚か取り出すと、床の液体をざっと拭き取って手の中に戻し、のっそりと身体を起こし、立ち上がった。その動きには、泥のような疲労の中にも、いくらか人間らしい意志が戻ってきているようにも見えた。そして重そうに歩き出したその足は、彼のロッカーの場所へと向かった。薄いスチールの扉がバタンと開く音が響く。それは、このバスケットボール部の部室にとって、ごくありふれた、普段の日常の音に違いなかった。ほんの一時間ほど前には何度も響いていたはずのその音に、越野は、どこか違う場所からここに戻ってきたような、不思議な感覚を覚えた。
 菅平はロッカーから柔らかく湿ったTシャツを取り出し、同じ音を出してロッカーの扉を閉めると、そのまま二人に背を向け、ドアの方へと足を向けた。足取りは重々しく沈んではいたが、覚束なく縺れたり、よろめいたりすることはなかった。十数分前に自分で掛けたドアの内鍵を今度は自分で外すと、振り返ろうともせず、ドアを開けて身体をくぐらせた。そうしてドアを閉める間際、菅平はちらと意識を後ろに向けたかと思うと、いくらか戸惑った後、僅かに口を開いた。
「……仙道さん、ありがとうございました」
そうして、会釈ともいえない程度、微かに頭を下げたかと思うと、すぐにドアを閉じた。部室棟の階段を駆け下りる足音が響き、遠くなっていった。


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