「なんで、あんなことしたんだよ」
最低限の身繕いをすると、越野は仙道の目も見ずに静かに尋ねた。再び二人きりになった部室に、越野の声はよく通った。
 「あんなこと」が何を指すかは、越野自身にも判然としなかった。菅平を部室に入れたこと。彼の理性を失った行為を止めなかったこと。自分を拘束して抵抗を封じたこと。それから、自分達の関係を知ってショックを受けているだろう菅平の気持ちを、却って逆撫でして煽るような言葉を投げ掛けたこと。それらを全部ひっくるめての、「あんなこと」であった。行為の最中、越野は彼が何を考えているか全く理解できなかったし、また、理解したいとも思わなかった。仙道にはもっと直接的に怒りをぶつけて激しく詰問しないことには気が済まないと思っていたのだが、しかし、菅平が去り際に言った言葉もまた、越野にとっては到底理解し難いものだった。なぜ、彼が仙道に感謝の言葉を口にする必要があるのか。怒りと不信感が渦巻いていたはずの頭の中に、その言葉は思いもよらない冷や水となり、新たな疑問が覆い被さって、越野はすっかり出鼻を挫かれた様相だった。
 仙道は既に身支度を整え終え、今は椅子に腰掛けて机に片肘を付き、ぼんやりと越野の問い掛けを聞いていた。応えはすぐには返らなかった。仙道は、越野の姿を目を細めて眺め、何度か緩い瞬きをしていた。
 越野は、仙道が自分の行為の理由についてあまり語りたくないのだとは察知した。しかし、彼の真意を聞くなら今しかないし、今、聞いておくほうがいい。越野は改めて覚悟を決め、今度は仙道の目を真っ直ぐ見据えて言った。
「……なんか言えよ」
見つめてくる恋人の瞳の真摯さに、仙道は頬を緩めて苦笑すると、頭を掻いた。それからしばし言葉に迷うように視線を巡らせた後、観念したのか、小さな溜息を吐いた。
「……分かった。言うけど、怒るなよ」
「怒るかどうかは聞いてから決める」
越野の言葉に、仙道は今度は白い歯を見せて、まいったな、と笑った。やがてその口元の笑みを徐々に収めると、ちょっとキツイようだけど、と前置きして、仙道は言葉を続けた。
「きっぱり諦めさせるのが、あいつにとっては一番いいんだろうな、って思ったんだよな。それには、悪いけど、見せ付けてやるのが一番いいと思って。……越野が、オレのものだってこと」
仙道は越野を見る目を一瞬細めると、雄の本能をちらとその眼に浮かべた。それは、熱いというよりは、むしろ悲しげな、冷たい色をしていた。仙道の表情はすぐに照れ隠しのような苦笑に戻ったが、越野はその視線に射抜かれて、心臓をずきんと掴まれたように感じた。そうしてそれに引っ張られて、仙道が行為の最中に囁いた言葉が思い出された。そう言えば、諦めさせてやれ、とかそんなことを言っていたような……。あの時は、切羽詰った状況に思考を押し流されて胸に引っかかった痛みの意味を追うことができなかったが、仙道がそういう意味でその言葉を言ったのなら、越野にも真っ向から反論するのは難しかった。自分の心が、身体が、どうしようもなく仙道を欲していることは、越野自身が一番深く理解していた。
「……そうは言っても、オレにだって拒否する権利はあるだろ。なにも腕まで縛らなくったって……」
越野が苦々しく言葉を搾り出すと、仙道は、言いたいことはもっとも、と言わんばかりに何度か頷き、
「ゴメン。あいつが越野の味知って、それで吹っ切れるんならまあいいかな、って思っちゃったんだよな。ホント悪かった」
そうして、眉毛を下げて顔の前で掌を合わせた。
 憎めない表情であっさり本音を口にされ、呆気に取られている越野を他所に、仙道は今度は悪戯っぽい笑みを作ると
「それとも、ケツ掘られた方が良かったか?」
尚も冗談のように続けた。さすがにその言葉には越野が表情を硬くする。
「お、お前、そういう問題じゃないだろ!」
「いや、そういう問題だ」
越野の大声にも動じず、仙道はあっさりと言い切った。それからやや声のトーンを落とし、目の前の越野に言い含めるように言葉を繋いだ。
「あのな、オレだって越野に惚れてるって意味じゃ、あいつと同じだ。あいつが、どんな欲求でお前の身体を見てたか、想像できないわけじゃない」
越野は今度こそ息を飲み、言葉を失った。仙道は僅かに唇を噛むと、誰に言うともなく言葉を漏らした。
「あいつの気持ちも、よく分かるんだよ……」
仙道は、近くも遠くもないどこかに目を遣った。
 仙道のその言葉に、越野は自分もまた同様のことを考えていたことをはっきりと思い出した。菅平の、同性に恋心を抱いてしまった葛藤や苦悩、その遣り場のない気持ちを、越野は確かに自分の記憶に重ねていた。他人事と思うには、あまりにも境遇は近く、記憶は深かった。自分が仙道への想いを菅平に投影してしまっていたのと同様に、仙道もまた、菅平の気持ちに否定できない何かを感じていたのだろうか、と思うと、越野は胸がしんしんと痛んだ。仙道が、それだけ自分のことを想ってくれているのだということは喜んでいいのかもしれないが、それ以上に、仙道が後輩の痛々しい恋心を切り捨てられず、最終的に静かな意志を実行したのだろうと想像でき、越野は悲しみにも似た息苦しさで胸が一杯になった。
「それで、あいつ『ありがとう』なんて……?」
菅平が去り際に残した言葉が、仙道の最大限の情けへの感謝だったのだろうかと思うと、越野はそれ以上言っていい言葉が見つからず、ただ顔を歪め、溜息を吐くしかなかった。そうして沈黙が訪れた二人の間に、仙道がのんびりした声を投げた。
「ま、貴重な経験だったな。越野、すげーエロかったぞ」
仙道が言い終わる前に、越野は仙道が座る椅子の脚を盛大に蹴り上げた。

 椅子から転げ落ちて打った後頭部をさすりながら、仙道が「じゃあそろそろ帰るか」と立ち上がったが、越野にはまだ聞きたいことが残っていた。
「ちょっと待て。もうちょっと聞かせて欲しい」
きょとんとした顔を向けた仙道に、越野が続ける。
「お前、あいつが初めにドア開けたとき……なんで、あんな冷静でいられたんだよ。オレには理解できねえ」
仙道は、しばし視線を動かさずに瞬きをし、記憶の中の映像を巻き戻しているような表情になった。それから、「ああ」と声を上げた。
「そうだな、とりあえず……あいつがドア開けたとき、越野すげーヤバイと思っただろ?」
「当たり前だ」
「なんでヤバイと思った?」
仙道の唐突な質問に、越野は眉を寄せ首を捻った。あんな場面で踏み込まれて、うろたえない人間がいるものだろうか。その上、キャプテンと副キャプテンが部室で……なんて。
「あ……」
そこまで思って、越野は小さく声を上げた。そのまま、思考を言葉にする。
「バスケ部が、ヤバイと思った。処分されて皆に迷惑かけるかも、って」
「だよな。オレも思った。でも、菅平だってバスケ部じゃん」
「……そうだけど」
「あれが先生とかだったらちょっと本気でヤバイけど、別に菅平だって好き好んで自分の部が処分沙汰になることを言い触らしたりしないだろうし、まあ大丈夫だな、って思ったんだよ。個人的に噂立てられるくらいならどうってことないし。だから、別に急いでどうこうする必要はなかった。あれがもし彦一とかだったら、またちょっと別の問題があるけど」
そう言うと、仙道は眉毛を下げて苦笑した。
 仙道の言い分を聞いて、その件に関しては一理ないわけではないとも思ったが、それにしても……と、越野はまた溜息を吐いた。確かに自分の方が、下半身を大幅に晒していて抜き差しならない状況ではあったが、だからといって自分がもし仙道の立ち位置だったとしても、同じ冷静さで思考できるだろうか。そう考えると、越野は身震いがする気分だった。改めて、この人間の神経のず太さに、驚くというよりは呆れるような気持ちだった。
「じゃあ、もしだれか先生だったらどうしてたんだよ」
「ああ、そんときは、オレが越野を無理矢理襲ったってことにしようと思ってた。越野は被害者なんで、処分はオレ一人で十分です、ってな」
言い切って屈託ない笑顔の仙道に対して、越野の顔からは見る見る血の気が引いた。
「ば……バカじゃねえのお前!お前と、オレと、どっちが部にとって大事かって言ったら……」
仙道が試合に出られない陵南バスケット部を想像して、越野は背筋が寒くなった。しかもそれが、自分との行為の責任を仙道が一人で被る形だとしたら……。越野は、仙道にも、部員達にも、どんな方法で責任を取ったらいいものか、最早想像すらつかなかった。頭の中の思考を映して顔を青くしている越野に、仙道は続けた。
「でも逆じゃ説得力ないだろ。大丈夫だって、オレ抜きじゃどうしても勝てない、ってなったら、多分早めに処分は解ける」
そして確信を持った笑みを浮かべ、肩をひょいと竦めた。越野は息を飲んだ。
「すげー自信……」
「どーも」
口元に笑みを残した仙道に、越野は更に質問を続ける。
「じゃあ、そもそも菅平を部室に入れたのはなんでだよ。あんときは、別に、菅平がどういう気持ちでいるかなんて分かんなかっただろ」
「ん? ああ……」
仙道は頭を掻いた。しばらく視線の動きを留めると、何かを思い出したのか楽しそうに笑い声を立てた。
「ゴメン。あれは、ちょっと成り行きに任せて、あいつがどう出るのか見てみたいかも、って思っちゃったんだよな。あの反応は完全に予想外だった。まさか、あの状況で中に入って来るとはな」
仙道の返答を聞いて、越野は面食らうと同時に、今日何度目かの溜息を重ねた。あの状況で、と言うなら、この仙道の方だ。仙道が、普段から突発的な出来事を面白がって受け容れる傾向にあるのは、越野も折々で知ってはいた。しかし、それをよりによってあの場面でやってしまうとは。仙道が何故そこまで未知の事象を楽観的に楽しめる気持ちを持てるのか、越野には理解の手掛かりすら見つからず、頭を抱えたいような気になった。ただ、理解はできなくても、それは仙道にとっては恐らくこれ以上なく自然な動機なのだろう、とも思えた。
「……その感覚は、理解できねえけど、何となくお前っぽいから許す」
「ゴメン。あとは、まあ、どうせなら共犯者にしちゃおうか、って考えも、ないわけじゃなかったけど、でも進んでやろうとは思わないよな。別に複数プレイ自体に興味あるわけでもないし」
「それを聞いて安心した」
仙道の言葉に、越野は今度こそ安堵の息を吐いた。言葉は率直に本心だった。今、仙道が言及するまで表立って意識はしなかったが、ここにきて仙道への不信感がすっかり晴れている自分に気づいたことで、初めて自分がそのことを多少なりとも心配していたのだと理解できた。仙道が根本的にそういう厄介な性癖だったらどうしたものかという不安は、ひとたび意識してしまえば、何のことはない、ひどく些細で取るに足りないものであって、自分がそのことを心配していたのかと思うと、幾らか気恥ずかしさも湧き起こった。しかし、だからこそ、はっきりとは自覚されずに意識の隅で燻っていたのかもしれない。越野は、そこまで考え、やっぱりきちんと仙道の考えを聞いて良かったと思った。そうして自身の不安は片付いたと思えたことで、ようやく、心に覆い被さっていたもう一つの重い蓋を開いた。
「あいつ、部活辞めたりしないよな……」
越野の、罪悪感に満ちた不安げな声に、仙道は動じる素振りもなく、のんびりと応えた。
「それは、あいつ次第だな。越野が心配することじゃない」
「……お前、それ、酷くないか?」
「それで辞めるくらいのやつなら、それまでだろ」
仙道は、言葉の内容には不釣合いな程穏やかな表情で言うと、越野の肩に右腕を回し、気にするな、と肩を叩いた。越野が
「……とりあえず、もう部室でいちゃつくのは無しな」
と恨めしそうに零すのを、
「それか、カギ掛けるかのどっちかだな」
仙道は大して応えてもいないような鷹揚な顔で返した。
















 翌日、菅平は朝練に来なかった。嫌な予感でざわざわ騒ぐ心を抱えて、越野はその日の授業がほとんど耳に入らなかった。空っぽの授業を終え、夕方からの本練習に祈るような気持ちで臨んだが、やはり菅平は姿を見せなかった。聞けば、今日は学校自体を無断欠席したらしい。一年生の中には、あいつに無断で休む度胸があったなんてな、と軽口を言う部員もあれば、また一人脱落か、と諦めたような冷めた目をする部員もあった。仙道は何かを気に留める様子もなく、至極普段通りに部活をこなしていた。
















 その更に翌日、越野の心配を他所に、菅平は朝練に現れた。が、その姿には居合わせた部員誰もが目を疑った。

 菅平は髪を切った。これまでの、身体の成長に心が追いついていないような、幼さの残った長めの髪をばっさりと切り落とし、見事に精悍な印象の短髪に変わっていた。すぐに周囲の一年生部員達に冷やかし半分で囲まれ、「もしかして失恋か?」とからかいの声が掛かる。その冗談に菅平は
「ああ、失恋だ」
きっぱりと応えた。力のあるその声は、先日までの彼の自信無げな声とは明らかに違う響きを持っていた。今度こそ、周囲の部員達が一斉にどよめき、そしてそれはすぐに手荒な歓迎に変わった。一年生に混じって二年の明治や上田も、荒っぽく菅平の肩や背中を叩きながら、「めげるな女は一杯いるぞ」「その髪魚住さんの真似か?」などと冗談を飛ばす。大勢に揉みくちゃにされる菅平の様子を、越野は呆気に取られて遠くから眺めていたが、やがて菅平と目が合うと、
「……似合ってるぞ」
と声を掛けた。どんな顔をしていいか分からず、越野は眩しいような表情になった。
 菅平は、明治に髪を乱されながら、気まずさに目を逸らすような会釈をし、それからもう一度、今度はしっかりそうと分かるように頭を下げた。
















 それからの菅平は、急成長という訳には決して行かないものの、部活に対しての迷いがなくなり、また、格上の相手に対しても臆することなくぶつかっていく度胸を徐々に身に付けてきたことで、地味ではあるが確かに成長を重ね始めていた。それは、これまで戸惑いながらも休まず続けていた基礎練習の賜物でもあり、それが顧問の田岡には嬉しいらしく、事あるごとに努力の大切さをまた滔々と説くのだった。
 あれで良かったのだとは、越野には何度振り返っても思えることはなかった。むしろ、思い出す度に後悔は深くなった。しかしそれでも、菅平が部活を辞めずに続けていることは、越野にとって一つの救いだった。菅平の方からあの日のことについて言ってくることはなかったし、それは越野も同じだった。仙道に至っては、すっかり記憶から抜け落ちてしまったかのように、菅平に対しても何も変わらない態度で接していた。

「なあ、仙道」
部活を終え、その日も最後まで部室に残った越野が、制服に着替えながら控え目に尋ねた。制服は、季節が進み、既に夏服から冬服へと替わっていた。
「菅平が、試合でちゃんと点取れるようになったら……ハイタッチくらいしてもバチ当たんねえかな」
恐る恐る繋いだ越野の言葉を聞き終えると、仙道は頬を緩めて楽しげな表情になった。そうしてひょいと肩を竦め、
「どうせなら、手加減しないで思いっきりやってやれ。その方が、あいつも試合の実感沸くだろ」
悪戯っぽく越野に視線を投げ、笑った。


-終-
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