八田をゆく



八田宗綱・知家の本領「八田」についての一考察

                  
                              小野寺 維道 2022.6



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第5章 笠間市大橋八田説

第2節 大橋八田について
   



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 大橋八田は笠間市北部の大橋に存在する。小字で「八田入」「八田宿」があるのでこれを含めて「八田」で「はった」と読ませ、現在は笠間市大橋八田地区と呼ばれている(論拠㋑)。江戸時代、大橋郷は八田、大宝内、羽衣、岡の宿からなる四つの山間の集落で、現在は平地には涸沼川が流れ、その両岸に水田地帯が広がる。
 八田の初見記事は「水府志料」(1804)の「八田宿」である。中世の記録はないが、古くからある地名で、その位置から大橋郷に属していたと考えられる。八田地区を包含する大橋に関する史料は、弘安二年(1279)常陸大田文に「奥郡」「大橋加津見澤十丁」とある。康永二年正月九日(1343)の鹿島神宮領田数注文案に「那珂西大橋・加津見沢四十一丁一反」(鹿島神宮文書)とあり、鹿島社領であった。康安二年正月七日(1362)佐竹義篤譲状写に「清音菴領、那珂西古内郷勝美沢村・大橋郷(平沢蔵人給分)」とある。
 加津見澤とあるのは大橋から北へ向かい中山峠越えた約 5km のところにある山間の集落である。現在は勝見沢と記し城里町に属している。江戸時代には勝見澤村とあり、村名の縁起がいいので旗竿、指物竿の竿が採られたという。さて、①②から、中世初期において大橋と勝見沢は奥郡に属していた。さらに奥郡は七郡に分かれ、両郷村はともに那珂西郡に含まれていた。当時大橋郷が那珂西郡の西端にあたり、西隣の福田村は笠間郡に属していたので大橋は郡境の集落になる。また大橋と勝見沢のあいだに山を挟んでいるが収穫量が都合して記されているので、両郷村は一帯とみなされていた。「水府志料」に「宍戸道 上青山より此村(勝見沢)を経て大橋より笠間に至る」とある。また勝見沢に鎌倉坂がある。これは鎌倉への往来道で古くから存在し、かつて御家人が勤仕などで往来した道か。両郷村は間に山があるが行き来はさほど苦にならなかったと考えられる。
 のころには佐竹領となり、勝見沢は古内郷の村になり、清音寺の寺領となった。大橋郷は佐竹家臣平沢蔵人の取り分となったことがわかる。

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八田の鎮守 八幡神社
(笠間市大橋)
 
勝見沢の鎌倉坂
(城里町勝見沢)
勝見沢経塚 
清音寺本堂
(城里町下古内)
清音寺宝篋印塔
右から佐竹義貞、復庵禅師、佐竹義篤