八田をゆく



八田宗綱・知家の本領「八田」についての一考察

                  
                              小野寺 維道 2022.6



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第5章 笠間市大橋八田説

第3節 八田近辺の城館址について
   



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 八田の南方約 500 メートルの県道 61 号(日立笠間線)沿いに岡の宿がある。この裏山に要害があった。「水府志料」に「古館 りうがいと呼ぶ。外岡美濃守と云うもの居しといふ」とある。この要害は岡の宿館といい、また大橋城ともよばれる。外岡美濃守は江戸氏の家臣で戦国時代、佐竹氏と争った際、出城として所領西端部の守備のために築城したと伝わり、これ以外は不明であるという。
 周囲は涸沼川に囲まれた要害であり、館跡は水田面から比高 40m前後で形状は本丸と後館の二郭からなる。本丸はほぼ正方形で土塁は幅 3m、高さは内側で 1m余り、外側で 3mその外側を空堀、がめぐらされている。中はほぼ平坦で約 200 ㎡の広がりがある。土塁の西側を越えると後館といわれる広場にでる。ここは峯づたいに西側が高くやや傾斜地で本丸よりも幅が狭く、約 100 ㎡の広がりである。さらに峯づたいに登ると山頂の物見台に出るが、やや四方が開け、池野辺(東方面)の山々から福田方面(南)を一望することができる。城館に関する地名として、中内、館の前、馬場、籏鉾、門の入、籠(こもり)がある。(重要遺跡調査報告を要約)。
 

重要遺跡調査報告Ⅱ「岡の宿館跡略測図」より


 また大橋の東方面の池野辺には江戸氏の池野辺城(笠間市池野辺城の内)がある。岡の宿館は報告書で戦国時代の城としている。これは「水府志料」の言い伝えによるものと考えられるが、館の遺構を確認すると本丸部分は平安末期から鎌倉初期に多い正方形の本丸で堀、土塁とシンプルな形状であり、およそ戦国時代のものとは思えない。主郭(本丸)と後館の2つ合わせてみると、なんとも奇妙な形態である。後館は本丸の防御機能を向上させるために、あとでつくられたものかもしれないと考えてみたが、本丸が堀と土塁に囲まれているのに対し、後館は本丸より地面がやや高いものの堀、土塁はなく北西が崖になっており、防御能力は低くそうである。後館は何のための建物であっただろうか。

 この館を中世初期の館と見れば、外岡美濃守の城は別の場所にあったのではないだろうか。大橋権現台にある吉田神社の裏山は平地が多く戦国時代の城に似つかわしいような気がする。さて、岡の宿館が八田氏の館とすれば、知家が常陸守護に任命されているので、後館は守護所の可能性がある。岡の宿館に館下には三草作(みさざく)の地名がある。これは御正作(みしょうさく)の転訛で、領主が農民に請け負わせた一等田を表す。この土地にそれなりの在地領主がいたことを示している(論拠㋭)。
 館下を流れる涸沼川は真端(城里町)を水源とし大網(城里町)より来て、福田(笠間市)を流れ、笠間、宍戸を経て小鶴(茨城町)に至り、涸沼(茨城町・大洗町)に流れ込み、那珂川に合流して太平洋にたどりつく。江戸時代の大橋村あたりの川幅は約 10mという。
 大橋郷は陸路による交通の便もよく「水府志料」に江戸時代後期の記録では笠間道(現在の県道 61 号に近いと思われる)があり太田(常陸太田)石塚(城里町)あたりから大橋に至り、笠間、真壁、結城、下館への行き来ができると記されている。北にある中山峠を越えると日光道があり塩子(城里町)を通じて下野国へ入る。茂木、宇都宮を通過して日光へいくことができる。
 また八田に隣接する木葉下(あぼっけ)村(水戸市木葉下)にも鎌倉坂がありこちらも御家人たちの往来道であったのであろうか。

 

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八田鎮守八幡神社から岡の宿館を望む
(笠間市大橋)
 
岡の宿館跡碑  
余湖くんのHPより
城跡を見上げる 
南西側の堀と土塁
東南側の虎口と土塁 
本丸跡 東南虎口へ向け緩やかに傾斜
 本丸跡 北東の土塁
左側が本丸の土塁
右が後館の土盛り
後館跡から北西方向 
後館跡から本丸方向