八田をゆく



八田宗綱・知家の本領「八田」についての一考察

                  
                              小野寺 維道 2022.6



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第5章 笠間市大橋八田説

第4節 宇都宮一族の笠間郡進出について
   



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宇都宮氏・八田氏関係地図  『国土地理院図Vector』を使用




 網野善彦氏は「荘園・公領と諸勢力の消長」の中で、平安時代末期の東郡(笠間郡)について「この郡の領主については、直接の史料は皆無であり、ただ嘉禎元年(1235)から『吾妻鏡』に現れる宇都宮朝綱の曾孫、笠間時朝の存在を手がかりに、宇都宮氏の勢力圏内にあったのではないか、と推測するほかない」としている。網野氏は茨城県史中世も担当されていて、「平安時代末期の常陸北下総荘園公領図」で東郡(笠間郡)は宇都宮氏の支配が及んだ地域と表示されている(論拠㋺)。  

網野善彦氏の研究『平安時代末期の常陸北下総荘園公領図』
「茨城県の歴史をさぐる」より
東郡は宇都宮氏の領地であるとしている

 現在の研究における、鎌倉時代初期の宇都宮一族の笠間郡進出については、諸説あるが、代表的なものを上げれば、鎌倉時代の初め徳蔵引布山(城里町)の衆徒と三白山(佐白山)正福寺(笠間市)が対立していた。両勢力は僧兵を交えた戦いとなり、徳蔵寺勢の兵が多かったため三白山正福寺は苦戦を強いられた。そこで、三白山座主生田坊は宇都宮頼綱に援軍を要請する。頼綱は弟の塩谷朝業(註1)を派遣し石井(笠間市石井)に陣を構えた。三白山勢は道案内をし、元久二年(1205)三月十二日に宇都宮勢は徳蔵布引山に攻め込んだ。徳蔵寺勢は羊のように逃げ回り宇都宮勢は徳蔵寺僧坊を破却した。朝業の武勇を間近に見た三白山勢は震え上がった。朝業は九月に三白山正福寺も破却し、佐白山南麓に城を築いて、次男である時朝に与え、笠間氏を称したという。
 また、それとほぼ同時期に笠間郡稲田には、親鸞聖人を西念寺に招いた宇都宮一族の稲田頼重がいた。頼重は宇都宮頼綱の猶子というが、尊卑分脈にその名は見つけられない。
 さらに、宇都宮氏が笠間に進出したとき、笠間郡には大蔵省保である笠間保があった。承久二年(1220)と推定される某右衛門少尉光重書状(経光卿記背表紙文書)に「常陸国笠間保」「当保三代相伝知行六十余年」とある。1234 年に光重は北白川院領へ寄進したうえ、鹿島社造営の負担もあるので納めることができないとしている。光重は三代にわたり保司を務めたと述べている。この文書の成立年代が正しいとすれば 1160 年には笠間保は立保していたのであろう。嘉元大田文(1306)によると,当保は大淵・片庭・石井原・黒栖の4郷からなっており,現在の笠間市大淵・片庭・石井・来栖に散在していたものと推測される。笠間には保司光重と笠間朝時がほぼ同時にいたことになる。だとすれば笠間保と笠間氏領は峻別されていたのであろうか。また両者のあいだに、土地に関する相論はなかったのであろうか。

(註1)
「笠間城記」は笠間時朝としているが、元久二年に時朝は幼少であり、実際に指揮を執ったのは頼綱の弟で、時朝の父である塩谷朝業と考えられる。


 

 

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引布山金剛光院徳蔵寺本堂
(城里町徳蔵)
 
  徳蔵寺大師堂
佐白山正福寺山門
(笠間市笠間)
正福寺本堂 
稲田山西念寺山門
(笠間市稲田)
西念寺山門 
親鸞聖人廟所
 教養上人墓標記
教養上人 法名を頼重房教養と称し 常陸下野の二ヶ国の領主 宇都宮弥三郎頼綱 法名実信房連生の末弟にして九郎頼重と申し 此の地に分封せられたり建歴(ママ)元年頼綱笠間時朝と協議し 親鸞聖人をこの地に屈請し奉り直弟子となる 法興房教念上人是なり御一宗興行に就いて功績す尠なからず 此の地に滅して永く芳績を護る 当時植樹して墓標となす(案内板より)
笠間城遠景