八田をゆく



八田宗綱・知家の本領「八田」についての一考察

                  
                              小野寺 維道 2022.6



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第5章 笠間市大橋八田説

第6節 本領を笠間市八田としたときの東郡の動向① -平安末~鎌倉初期-
   



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宇都宮氏・八田氏関係地図  『国土地理院図Vector』を使用




 ここでは前項を踏まえ、東郡(笠間郡)が平安時代末から宇都宮氏の領地であったとして論じていきたい。東郡(笠間郡)は、もともとは常陸平氏の領地であったが、宗綱と多気致幹の娘との婚姻で、宗綱に譲られ宇都宮・八田一族の支配が及ぶ土地となった。であれば 13 世紀初頭に宇都宮一族の笠間氏、稲田氏が当地に赴くのは、ごく自然なことである。宇都宮氏が徳蔵寺、正福寺の争いに乗じ両寺院を破却し笠間朝時を笠間城に入植させたことは、郡内の二大宗教勢力をほぼ同時に排除し、笠間郡の安定的な統治を目指したものと考えることができる。この制圧は宗円から家督を継ぎ宇都宮に移住した宗綱、朝綱、頼綱三代が笠間やその周囲の状況をよく知っていたことと、八田知家、知重が笠間郡の北におり、ここから逐次、郡内の情報を宇都宮へもたらしてことで実現したのであろう。
 さらに、笠間保司右衛門尉光重は何者かという疑問が湧いてくる。どの文書も姓が記されていないのが残念である。先述のように1220 年の文書に「当保三代相伝知行六十余年」とあることから、三代にわたり保司を務め六十余年とあるので、1160 年ごろに笠間保は成立していた。

天福二年正月三日(1234 
笠間保司右衛門尉光重称寄進北白川院御領由之上、鹿嶋造営之間、不可進済申之、猶奏事由可責光重之由被仰下


同年正月二日
常陸笠間保間事、保司右衛門尉光重申状無其謂、可譴責之由仰下

同年正月十一日
常陸笠間保間事、以別仰・可被仰・光重之由被仰下云々

  保司光重は「右衛門尉」の官途から、光重はそれなりの地位にあった御家人であると考えられる。平安時代の末から宇都宮・八田氏が東郡(笠間郡)を領有していたとすれば、保司光重は八田一族の蓋然性がある。尊卑分脈をみれば宇都宮系図に光重がおり、八田知家の孫で小幡太郎と称し茨城町小幡に移り住んだと伝わる。



  保司光重と小幡(小田)光重の直接的な関連を示す一次史料は見つかっていないが、保司光重が八田氏だとすれば、笠間保司は一代目知家、二代目知重、三代目光重と受け継がれたことになる。知家が笠間保司初代だとすると、早い段階で八田から笠間へ進出していたことになり、知家の支配地は大橋郷だけではなかったと考えられる。また「笠間城記」に塩谷朝業が1205年に徳蔵寺攻めのとき、石井に陣を構えたとあるが、石井は笠間保内のため、これは実現できないであろうとする見解もある。しかし八田知家、知重が保司であれば、同族ゆえ、ここに陣を築くのは容易でことであったろう(論拠㋣)。今後のさらなる検証がまたれる。
 そして、八田(小田)知重の子に泰知がいる。泰知の通称に「奥太郎」とあるのは、奥郡の「奥」でかつて奥郡とよばれた那珂西郡に属した八田の地で生まれたことを示しているのではないのか(論拠㋠)。とすれば、八田および周囲の土地は知家に引き継がれた。そのあとは知重泰知と引き継がれたのではないか。
 このほかにも八田氏の領地は宇都宮一族にも多くの恩恵をもたらしたと考える。笠間氏が笠間城に入り支配権を確立していくなかで、自領北方に八田氏の領地があることは、八田が佐竹氏や大掾氏との緩衝地になりえたのである。また知家、知重が常陸守護職を拝命し、八田に常陸守護所があることで、周辺の在地領主はこの地に攻め入ることができなかったであろう。
 岡の宿館下を流れる涸沼川は笠間、宍戸と一族が発展した地域を流れ、物資の移動を容易にしたと思われる。また街道も岡の館から山を越え八田知家の領地であった下野国茂木、宇都宮朝綱が隠棲し歴代の墓がある尾羽の里(益子町)、その先の宇都宮氏の栄えた宇都宮へも安易に往来できたであろう。大橋郷の八田知家、長男知重。宍戸荘には知家の四男宍戸家政、茂木郡の三男茂木知基、笠間郡稲田の稲田頼重、笠間城主笠間時朝、一族がこの東郡(笠間郡)に集中することで郡内の領地経営を盤石なものとしたであろう

 

 

 

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笠間城址千人溜
(笠間市笠間)
 
登城道 
大手門跡
  本丸跡
天主跡
山頂付近の石垣
山頂石段
山頂に祀られている佐志能神社 
城址からの笠間の町並み
 笠間城址遠景
笠間稲荷神社前の門前町
2008年ころ