八田をゆく-第5章 笠間市大橋八田説-本領を笠間市八田としたときの東郡の動向②-鎌倉中期~-八田宗綱・八田知家の本領「八田」についての一考察


八田をゆく



八田宗綱・知家の本領「八田」についての一考察

                  
                              小野寺 維道 2022.6



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第5章 笠間市大橋八田説

第7節 本領を笠間市八田としたときの東郡の動向② -鎌倉中期~
   



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宇都宮氏・八田氏関係地図  『国土地理院図Vector』を使用




  さて、前節に続き笠間郡や八田、八田氏の動向について述べたい。大橋郷八田は知家その子である知重と受け継がれた。知重はあわせて父から常陸守護職を相伝し八田氏(小田)の惣領として常陸国南部の領地をも支配した。のちに、常陸大掾職に就いていた馬場資幹が亡くなったが、知重は常陸大掾職をも望んで資幹の子である馬場朝幹と相論を起こした。しかし安貞元年(1227)十二月、幕府から「非分之望」と裁定を受け、知重の野望は絶たれている。
 知重のあとの常陸守護職は泰知が早世し、その子の時知が幼少であったため、宍戸家周に引き継がれる。この際、守護所は宍戸領内に遷されたものか。またこののち八田氏の拠点は筑波郡三村(つくば市小田)へ移っていく。奥太郎泰知が守護職を受け継いだ時には小田氏を名乗り小田城に移っていたであろうか。
 八田は鎌倉期に他氏の笠間郡侵入を防ぐのに多大な貢献をしたが、鎌倉幕府崩壊後の建武四年十一月(1337)に「為笠間城凶徒等対治、又義春被打向之間、時幹同馳向畢」(烟田文書)とあり、笠間郡への佐竹氏侵入を許している。これは南北朝時代初期に、笠間氏が当初南朝方、佐竹氏は北朝方に与したため、笠間城を佐竹義篤の弟小瀬義春が攻め立てたものである。八田氏の子孫小田氏も当初南朝に与しており、この際、八田も佐竹氏の侵攻を受けたのであろう。康安二年正月七日(1362)には大橋郷が佐竹義篤の領地となっていることが確認できる。多気氏から譲り受け、八田氏の一所懸命の土地となった八田は、佐竹氏によって領有され、江戸氏の侵攻で出城が築かれ、そしてまた佐竹氏が領有することとなる。
 さて、大橋の八田に隣接する集落に大宝内という集落がある。由来はおそらく「大坊寺」でここには八田氏が関係している大きな寺があったのであろう。大橋には江戸時代に宝蔵寺、長国寺、普賢院、密蔵院、地福院、喜福院の六ケ寺が存在したが、すべて水戸藩の寺院整理により廃寺になっている。その後、小勝(城里町)にあった慈眼寺を大宝内に曳寺したが、無住となり明治初期に廃寺になったという。寺院が残っていれば八田氏に関する何かしらの伝承が残っていたかもしれない。とても残念である。

 

 

 

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吉田神社
(笠間市大橋)
 
吉田神社拝殿 
境内の石碑の欠片
  大宝内の水田
岡の宿館跡からの眺望
八田を流れる涸沼川 
岡の宿集落から南を望む
近森稲荷神社
かつて佐白山山頂にあった
煦路破瘕魔(黒袴)権現が宇迦之御魂神と合祀されている。