大山道(だいせんみち)

    大山道は霊山としての「大山への道」「大山寺への道」に由来する。
   その大山への道は各方面から集まり、やがてそれぞれ通過する地名を冠した「大山道」となって大山へと向かった。北から
   「坊領道」「尾高道」「溝口道」「横手道」「川床道」と呼ばれるようになった。
   この道は

 1.聖なる山、古代山岳宗教の聖地への道
    幕末安政頃まで、大山へは一般登山は認められず、一年に一度修行僧のみ登山が認められた。

   もともと大山はその急峻さ・厳しさから山岳宗教があり、後に渡来仏教と融合し、天台宗になったのは(806年)最澄が唐から
   帰国し、国家の庇護を受ける平安時代からである。 

 2.地蔵信仰の道
   大山寺本尊は地蔵菩薩と云われている。地蔵信仰での参詣も盛んに行われ、道中にも多くの石地蔵を残している。
   地蔵信仰は、次の牛馬と共に歩んだ道でもある。

 3.牛馬市
   その地蔵菩薩は平安末期に基好上人が「大山寺の地蔵菩薩は牛馬守護の仏である」と唱え、守り札を施与したのが始まりだとも。
   享保15年(1730)頃、大山寺山奉行 吉川右平太の尽力により博労座で「牛馬の市」が組織的に行われるようになり、以降大山の
   牛馬市は盛大となり中国三大牛馬市として栄えた。

 4.廻国行者の道
   江戸時代中期、来世の変身を願って日本六十六ヶ国の著名な社寺に法華経を書写して奉納巡拝したのが廻国行者たちであった。
   大山寺は元禄15年(1702)に設けられた「汗入郡三十三番札所」の一番霊場、さらに延享元年(1744)「伯耆三十三番札所」の
   十四番札所(阿弥陀堂)と十五番札所(中山観音堂)でもあったので、観音信仰の「札打」巡拝者の道でもあった。

 5.奥参りの道
   山陽地方の農民の間に「大山まいり」は「伊勢まいり」とともに、最も重んじられた行事であったと云う。一生に一度は「伊勢まいり」を
   乞い願っていたが、その前に身を清めに「奥まいり」への参拝を行ったと云う。
   「本まいり」の出来ない者は、せめて「奥まいり」だけでもと講を作って集団で大山へ向かったと云う。大山講は農業神としても信仰が
   深かった。
                 資料 鳥取県教育委員会文化財保護協会編 歴史の道調査報告書「大山道」
 

   近代まで我が国では、宗教登山以外に一般登山の思想はなく、猟師、樵、木地師が入山していた。
   また、「伊勢まいり」「奥まいり」や各地に残る「講」は、封建社会にあって農民は生涯領地から離れることが許されず、かろうじてこれら
   の宗教行事が大目にみられていた。しかし誰でも「…まいり」に行けるわけでなく、村々で積み立てを行い何年かに代表を決め、添え状
   を貰っての参加であって、過酷な状態に置かれていた農民にとっては宗教行事にとどまらず、ほんのひととき「自由」を甘受できる機会
   であり、別世界を回間みる機会でもあり、生涯の最大リクリエーションでもあった。

  生き残った大山道
  時代は変わり、近代化が叫ばれた日本では、時には森林伐採の道として、時には産業振興の道路として「道」の役割が大きく変貌して
  いった中で、かっての「五つの大山道」で唯一自然の状態を維持し、悠久の風格を残しているのは東大山を通過する「川床道」のみとなった。

  地蔵峠から一向・大山滝を経由し、大休峠から川床へ至る大山道が唯一旧来のままで残ったのは、山岳地帯であり、主要幹線道から
  外れた不便な部分にあったのが近代化への乗り遅れの要因であったにせよ、この歴史道の自然を大事に想い、守り続けた地元の人々や、
  県・町村の努力の賜でもあります。
  この川床道は今「中国自然歩道」として復活し、多くの人々に自然から、かけがえのない恩恵を与えている。


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