第2回目(1999年6月24日) 家族、それも、常態でない

 「家族」は、遠淑作品の大きなテーマの一つである。それも、いわゆる、夫婦がいて、子供がいて、というような「正常」な家族ではなくて、「畸形」(差別的だけど、あえて)なパターンの家族が多く登場する。
 例えば、西洋人の連れ子と江戸っ子の母(「山アラシのジレンマ」)、ホモの夫婦と施設からの養子(「グッナイ・ハニー」)、父親を亡くした一人暮らしの少女とその祖母の遺産である「自称サイボーグ」(「ミセス ウォルホードの遺産」)、養子に入った主人と結婚した年下の母親(「マダムとミスター」)、「代理母」を通じた兄と妹(「コアラの行進」)と様々。そのものずばり「家族ごっこ」というタイトルの作品も2つ。スイートホームの3姉妹や押しかけ娘のレヤ(「コットンフィールド」)もちょっと違うし、できちゃった結婚の中西夫妻(「追引町お騒がせ界隈」)もちょっと正当でない手続きを踏んでしまった家族の例。お見合いをした相手が熊だったり(「四百年前の約束」)、交通事故にあった挙げ句教え子の女子高生に憑いてしまったり(「彼と彼女の災難」)、幸せな結婚をしたはずが相手が白鳥だったり(「憂鬱な王様」)、不思議な「村」に迷い込んでしまったり(「誰かが待っている」)、結婚には必ずといっていいほど災難が付きまとう。こう露骨でないにしても、そういった要素をもつ家族は数多い。

 はじめから困難な要素が多いその家族が、頼るべき「血縁」のない家族が、それぞれ励ましあい、あたらしい「家庭」を作っていくのが、これら家族をめぐる遠淑作品の大きなテーマである。典型例として、日本人の姑と娘、アメリカ人の父の3人家族「だからパパには敵わない」を見てみよう。

「オヤジとわたしが並んでいても、誰も親子だとは思わない。だからオヤジは努力する。わたしは、努力する親子なんているんだろうかと思う」(「パパは恋人」)

 血縁のある親子は顔が似ている。しかし、ここに登場する親子は人種すら同じでない。血縁がある親子は、ただそれだけで親子である。しかし、そうでない植村家では、「努力」をしなければ親子関係を維持できない。娘の十子は、家出中ということもあり、そのような親子関係のあり方を冷ややかに見ている。
 そんな十子が潜り込んだのが、父親と喧嘩別れしている大学生。

「結局、血がつながっていようがいまいが、親子でも恋人でも、みんな別々の人間なんだから、そうそう解りゃしねえって事だ」(「パパは恋人」)

 血のつながりがあったからといって、それですべて解決するわけではない。いずれ「努力」が必要であることを、彼は告げる。そんな中、彼の父親が亡くなったとの報せがはいる。

「俺を父親は解ってくれなかったけど、俺も父親の事、なんにも解らない。解らないまま死んじまった。何をしてももう遅い。つまんない意地はってたら、おまえも俺みたいな事になるかもしれないんだぞ。いつかとか、そのうちなんて日はないんだ、絶対来ない。言わなきゃならないことはすぐ言え。自分の事を解ってほしいなら、相手の事も考えなきゃな」(「パパは恋人」)

 彼は、父親と解りあえるチャンスを、永遠に失ってしまう。「努力」を放棄して、そして、取り返しがつかなくなってしまう。人間が解り合う事は、確かに難しい。しかし、解り合おうとする「努力」がなければ、その時間はもう取り戻せない。

 このシーンは、グレースと母親の別れの場面を彷彿とさせる。久しぶりに会った母と娘。しかし、昔の思い出が尾を引き、冷たく母親に接するグレース。手を差し伸べる母親に対して、背を向けて立ち去るグレース。
 しかし、それが最後の出会いになる。後日、彼女のもとに、母親からのドレスが届けられる。

「あの時、差し出された手を取っていたなら」「こんな、心臓が破けるような思いは、しなくてよかったのかも」「こんなに後悔するのに、どうして人を許すことはむずかしいんだろう」「神様、力を貸して下さい。もう二度とこんな後悔はしないように」(「ニューイヤー」)

 遠藤淑子の家族に対する宣告には、実は残酷な要素が潜む。すなわち、他人は所詮他人である、と。しかし、それを乗り越えることによってこそ、真の人間関係が築ける、そのようにメッセージを発しているのではないだろうか。お互いを思いやり、助け合い、少しずつの我慢も必要なのかもしれない。しかし、そこにこそ、真の「家族」の生まれる可能性があるのかもしれない。有名な言葉を借りていえば、「である」家族から「する」家族へ。

「確かに本心隠して、演技してつきあってるのかもしれないけど、うれしいふりするのも、怒ってないふりするのも、その人が好きだからじゃない」(「星の階段」)

 ここで伊藤美佐がみごとに喝破しているように、その人が好きだから、だから努力をする。偽善、と言う人があるかもしれない。でも、それはきっと、人間にとって、とても大切なものなのだ。

「私達の家族をつなぐものは細くて頼りない。ほんのちょっとした事で切れてしまうかもしれなくて。そんな頼りない絆を大切に、大切にうちの家族はくらしてゆく。」(「うちのパパにかぎって(3)」)

 絆が頼りない、ということは、この現代社会においては、必然であるのかもしれない。だけど、「大切に」しなければいけないものは、いつまでも大切にしていかなければならないのではないだろうか。

「私と遠藤淑子」第1回目

「私と遠藤淑子」第3回目

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