5− エノロジー その3

 あいにく筆者はまだまだ修行が足りず、仙人にはなれないでいる。霞を喰って生きるわけにはゆかないので、心ならずも俗世間に身を置いて生きてゆくための糧を得なければならない。そういうわけで、この原稿は独り寝の床でグラス片手に書くことになっているのである。さぞかしいいワインを飲んでるんだろうって? 意外にも今グラスに入っているのはカナディアンウイスキーである。樽で17年間熟成されたまろやかな味わい。この酒が醸されたころ自分はどんなだったろう。あのころは若かった。希望があった。自らの半生を省みて暗澹たる思いのうちに盃は進む。齢を重ねて素晴らしい熟成を遂げる酒がある一方で、徒らに年を経る者もある。ワインにも同じことが言えるのではないだろうか。

ワインの熟成
 通常、つくりたてのワインはあまりおいしくなく、ある程度熟成させることで価値が増す。しかし何もこれはワインに限ったことではない。ウイスキーやブランデーは古いほうが価値が上がることはご承知のとおりである。また、ラガービールというのがあるが、本来の意味は貯蔵したビールである。ビールは鮮度が大事だといってもそれは瓶や缶に詰めた後の話であり、やはりそれ以前には熟成が必要なのである。また、清酒もしぼりたてを飲むよりは、1年くらい熟成させたもののほうがおいしいと思う。
 どんな酒にも言えることは、エタノールと水の分子の水酸基どうしがうまく向き合って刺激性がなくなり、まろやかな味わいになることであろう。超音波をかけると酒が速くまろやかになるとかいう話もあるが、本当にまろやかな味わいは時間のみが作り上げるもののようである。酒に音楽を聴かせるというのもあるが、筆者は信じていない。若いころワイン蔵でFMラジオのクラシック音楽番組を聞きながら作業していたら、入ってきた観光客が勝手に納得していたこともあったが・・・。
 ワインの場合、エタノール以外にも多くの成分を含むため、熟成途上で多様な反応が起こる。まずは主としてワインを樽熟成している場合を想定して考えてみよう。樽材のオーク(oak、英語)あるいはシェーヌ(chene、フランス語)は樫と訳されることが多く、筆者も普通は樫樽という言葉を使っている(1)。しかし実はこれは完全な誤訳で、樫ではなく楢が正しい。樫は非常に固くて目が詰まっている木であるが、楢はもう少し柔らかく、より空気を通しやすい。したがって楢樽にワインを入れておくと樽材を通じて酸素が少しずつワインに溶け込み、種々の成分を酸化するのである。例えば、酒石酸は酸素と反応してケトン基を生じ、ワインに独特の香りを与える。
HOOC(CHOH)2COOH + 1/202 → HOOCCOCH2OHCOOH + H2O
HOOCCOCH2OHCOOH + 1/202 → HOOC(CO)2COOH + H2O
これがさらに酒石酸と反応して増えてゆく。
HOOC(CHOH)2COOH + HOOC(CO)2COOH → 2HOOCCOCH2OHCOOH
ただし、さらに酸化されるとシュウ酸になってしまい、香りが消失してしまう。栓を開けたまま何日もワインを放置しておくと香りがなくなっているが、これは香気成分が揮散することの他に、この酸化によるところも大きい。
 ポリフェノールも酸化される。タンニンが酸化されて収斂性が減少し、アントシアンが酸化されて紫色が褐色に変化してゆく。またエタノールの一部は酸化されて、エタナールになる。
 エステル化も重要である。発酵中に微生物作用でできるものを別にすれば、ワイン中の有機酸とエタノールが徐々にエステル化するのであるが、香りに影響を与えるのは揮発性の1塩基酸エステルである。酢酸エチルは少量でもワインに不快な香りをつけるので、ワイン中の酢酸は極力少ないほうがよい。
 ポリフェノールの重合も忘れてはならない。タンニンが重合して味わいがまろやかになり、アントシアンがタンニンと重合して色調が変化する。重合が進むと沈殿するので、年代物のワインは瓶の中で沈殿(オリ)を生じている。酒石酸がカリウムイオンと結びつき、酒石として沈殿する反応も同様にオリの原因となる。
 また樽材からはタンニンや香気成分(バニリンなど)が溶出してくる。香気成分は樽材の産地によって異なる。フランスの樽かアメリカの樽かはワインをグラスに注いで目の前に置かれただけでも漂ってくる香りの違いでわかる。フランス産の樽材の場合、フランスのどの地方のものかということも、飲んでみれば大抵わかるものである。
 上等なワインを樽熟成する期間は赤ワインで1年半から2年、白ワインで1年くらいであるが、この間に必要な作業がいくつかある。樽材を通してエタノール、水、香気成分等が少しずつ揮散するが、やがて樽の上部に隙間ができるほどの目減りになるので、ときどき同じ品質のワインを注ぎ足す必要がある。この作業をウイヤージュ(ouillage)と呼ぶ。また、酵母の死骸などのオリがあまり溜まってくるとワインに雑味をつける原因となるので、数ヶ月に1度上澄みだけをとって別の樽に移し替えることが必要となる。この作業をスーティラージュ(soutirage)と呼ぶ。またウイヤージュやスーティラージュの際には、必要に応じて亜硫酸を補う。
 ワインを樽に入れずにタンクで熟成させた場合にも、作業中に酸素に触れることがあって酸化反応が起こるし、エステル化や重合等も起こる。また、ワインを瓶に詰めた後は酸素が少なく酸化は起こりにくいが、エステル化や重合は進行する。なお、コルクは微量であるが通気性があるので、長年の間にはワインの酸化が進んでゆく。ちなみに「コルク樫」と呼ばれる植物は樽材の楢と同じくQuercus属に属し、微量ながら香気成分やタンニンをワインに与えるのである。

ワインの清澄化
 樽やタンクで熟成したワインはまだかなり濁っている。「これは農家の自家製のワインだから濁っているのを笑わないで下さい」と言っても漢詩を思い浮かべてくれる人はなかなかいないので、やはりワインは澄んでいたほうがよい。濾過をすればいいのだろうって? そう簡単なものでもない。濁りの原因となる物質をある程度除去しておかないと、ワインを瓶詰めした後、すぐにまた濁りを生じてしまうのである。
 濁りの原因としては、まずタンパク質が挙げられる。コロイド状になってワイン中に溶けているものが徐々に析出してくるのである。このタンパク質をあらかじめ無機質や他のタンパク質にくっつけて沈殿させてしまうことをコラージュ(collage、糊付け)、加える物質をコル(colle、糊)という。表1に代表的なコルを示す。
 銅や鉄などの金属も濁りの原因となることがある。これにはタンパク質の場合同様、毒をもって毒を制すで、フェロシアン化カリウムを加える。これによって銅や鉄が青色の錯塩となって沈殿してくるので、この作業のことを青いコラージュ(collage bleu)と呼ぶこともある。フェロシアン化カリウムはワインの酸で徐々に分解してシアン化水素を発生するので、あらかじめ分析して必要量を加え、ワイン中に残存しないようにしなければならない。
 濁りとは言えないが、酒石の沈殿も瓶詰め後に多量に起こるとやはり好ましくない。これは予めワインを冷却処理することで防ぐことができる。タンクに入れたワインを凍らない程度に冷却すれば将来沈殿するであろう酒石がここで沈殿してしまうのである。このとき、酒石の微細な結晶を種として加えれば酒石が種の周囲に析出しやすくなり、迅速に処理することができる。
 コラージュや冷却処理は度が過ぎるとワイン本来の旨味までをも損なってしまう恐れがある。清酒の黒シャブ中毒(酒質を落とすことがわかっていながらも、外観を重視するあまり、必要以上の活性炭添加がやめられなくなること)と同じ危険性をはらんでいるのである。

表1 ワインの清澄化に用いられる主なコル
種類物質名
無機質(鉱物)ベントナイト
動物タンパク(骨、皮)ゼラチン
動物タンパク(血液)ヘモグロビン、血清アルブミン
動物タンパク(卵)卵白アルブミンまたは卵白をそのまま
動物タンパク(乳)カゼイン

ワインの飲み頃
 以上に述べたように、ワインの成分は時々刻々と変化してゆき、この変化は瓶詰め後も続くことになる。そのためワインにはおのずと飲み頃の時期があるということになっている。ごく軽いワインはすぐに頂点に達して急速に下降するので早めに飲むが、上等な赤ワインは10年以上経って頂点に達してからも良い状態が長期間持続するので、飲み頃の期間が長期に及ぶ、こう書いてあるのが普通である。しかしどんなワインでもエタノールの水和やエステル化などが起こるし、どこでいちばん美味であると感じるかは畢竟個々人の好みによるものであろう。筆者は安物の白ワインが10年以上も売れ残っていたのを飲んでおいしかった経験を何度もしているし、逆にシャトー・ペトリュス(つい最近までボルドーでいちばん高価であったワイン)は若いほうがおいしいと思っている。もっともブドウの品質は毎年異なるし、醸造法も時代とともに変化している。自分の体調や精神状態にもよるので、同じ味には二度と出逢えないと言っても過言ではない。一期一会である。
 しかし何と言っても素敵な女性と二人で飲むワインがいちばんおいしいことだけは間違いない
(1)

1) 本多忠親:化学と生物 34, 799 (1996)

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