農芸化学者のためのワイン講座


 
1.ブドウ栽培学 その1   化学と生物, 36(4), 254 (1998)

 2.ブドウ栽培学 その2   化学と生物, 36(5), 338 (1998)

 3.エノロジー その1   化学と生物, 36(6), 406 (1998)

 4.エノロジー その2   化学と生物, 36(7), 470 (1998)

 5.エノロジー その3   化学と生物, 36(8), 540 (1998)

 6.エノロジー その4   化学と生物, 36(9), 604 (1998)



1− ブドウ栽培学 その1

前口上
 昨年の初夏のこと,パリから日本へ帰って来て周囲を見回すと,なぜかみんなワインを飲んでいる.空前のワインブームである.殊に今まで日本人には飲みにくいとされていた赤ワインが人気である.これは赤ワインに含まれるポリフェノールが活性酸素の悪影響を抑え,三大疾病の予防につながるという情報によるところが大きい.日本人の生活習慣を考えると,果たして西欧各国の調査結果がそのまま当てはまるかどうかは怪しいが・・・.
 いきなりこんなことを書いたのは,ブームのあおりで好きな赤ワインが手に入らなくて困っているからである.まあ,当分の間は簡単に手に入る白ワイン,清酒の地酒,ウイスキー,ブランデー等を楽しむことにしよう.
 さて,とにもかくにもワインブーム,お茶やお花よりもワインの勉強だということで,各地でワイン学校が全盛である.筆者もカルチャースクールの講師やらワインセミナーやらと称して関東一円を走り回らされる羽目に陥ってしまった.教壇でワインの講義などするのは実に7年ぶりのことであるが,一般の人を対象にワインの話をしていていつも残念に思うのは,化学的あるいは生物学的なことを殆ど理解してもらえないことである.例えばブドウの糖分がアルコールに変わることを納得させるのにもなかなか骨が折れることを,皆さんご想像いただけるだろうか.
 その憂さ晴らしと言うわけでもないが,ここに「化学」と「生物」の素養のある読者の皆様を対象に,ワイン講座を開講させていただいた次第である.ここではフランスで学ぶブドウ栽培学viticultureとワイン醸造学oenologie
(1)について一通り紹介するが,文献の引用や詳しいデータの羅列は極力避け,気軽に読める内容とするつもりである.ここに述べる内容はワイン愛好家たる筆者個人が個人的な興味からフランスの書物や現地で得た知識の紹介であり,筆者がかつて日本のワイン会社にいたこととは関係ない.したがって,大好評だった(?)連載「パリ通信」に引き続き,ペンネームで執筆させていただくことにする.
 もっともこういう話なら,もっと専門的な勉強をした方に書いてもらったほうがいいに違いない.例えば筆者の高校の先輩で,ボルドー大学に留学したことがある偉い先生がいらっしゃる.その先生,実は美しい女性であるということはさておき,フランスで得た知見を方々で紹介されていて,筆者自身非常にためになった.しかし,この際難しいことはやめにして,気軽に読めるワイン講座を筆者のような素人が書くのもまた一興であろう.「パリ通信」の余韻を残しつつ,少しはためになる話を書くつもりであるので,引き続きご愛読いただければ幸いである.

ブドウの分類
 最近はワイン用のブドウ品種(セパージュcepage)の名前をいくつか知っている方も多いだろう.カベルネ・ソーヴィニョンCabernet Sauvignon,シャルドネChardonnay・・・.一方食卓に上るブドウ品種,デラウエア,巨峰,マスカット・・・.しかし,ワイン用のブドウと生食用のブドウとは,通常はまったく別のものなのである.まず表1Vitis属の主な種を記す.
 日常我々が目にするブドウはV. viniferaV. labrusca,あるいはこれらの交配種である.どこの国でも高級なワインは大抵はV. viniferaで作られるし,ヨーロッパではV. labruscaやその交配種で作ったものはワインとして認められないことすらある.これはV. labruscaで作ったワインは香味がV. viniferaで作られたヨーロッパの伝統的なワインとは大きく異なるためであるが,筆者自身ヨーロッパのワインに慣れてしまっていて,V. labruscaのワインなど飲めたものではない.もちろん他人の嗜好にまでケチを付ける気は毛頭ないが.
 さて,このV. labruscaを使った赤ワインを簡単に見破る方法がある.どうして赤ワインに限定したかというと,赤い色素であるアントシアンanthocyane(アントシアニジンanthocyanidine,英語では語尾にeがない)で判別するからである.図1に示したように,V. labruscaに限らず多くのアメリカ系のブドウおよびその交配種はグルコースが2個結合した色素を持つが,V. viniferaはグルコースを1個しか結合していない色素が殆どである.これらの判別はペーパークロマトグラフィーで容易になされる.
 ではV. viniferaなら何でもいいかと言うと,決してそうではない.V. viniferaで果粒が小さいものがワインに用いられる.粒が小さいと食べにくいからワインにしてしまうのだろうって? それも確かに一理ある.しかし粒が小さいことに必然性があるのであって,粒が大きいブドウはワインには向かない.ワインのアルコールは果汁の糖分から来るが,ワインの香気成分のかなりの部分が果皮から来るし,赤ワインの渋味は主に種子から抽出されるタンニンによるものである.粒が小さければそれだけ果皮や種子の割合が高くなり,香味が濃厚になるのである.
 台木については後述するが,表に示したV. ripariaV. rupestrisの他に,これらをもとにした様々な交配種が用いられている.
 いずれにせよ,これらのブドウには無数の品種がある.各品種の特徴を形態学的に記録する手法が発達しており,これをアンペログラフィーampelographieという.特に葉の形態は各品種毎の違いが著しく,葉脈の分岐と角度,長さ,葉の端のギザギザの様子などを詳細に調べるだけで品種を同定できる.フランスではそれぞれの地方で植えられる品種が数種類しかない場合が多く,少し慣れれば葉を一目見ただけで品種を当てられるようになる.

表1 Vitis属の代表的な種と品種の例
系統用途代表的な品種
V. vinifera欧亜系醸造用・生食用Cabernet Sauvignon(醸造用),Muscat(醸造・生食用
V. labruscaアメリカ系生食用Concord(生食用,ジュース用)
V. ripariaアメリカ系台木用Gloire de Montpellier
V. rupestrisアメリカ系台木用Rupestris du Lot


図1 V. viniferaのアントシアニジン(左)とアメリカ系ブドウに見られるジグルコシド(右)


フィロキセラと接ぎ木法
 旧約聖書の時代から19世紀まで,ヨーロッパ,中近東,北アフリカの人々はV. viniferaを植え,取り木や挿し木で苗を増やしてきた.大した連作障害も病害の大発生もなく,何千年もブドウを作り続けてきた.ところが1868年に報告されたたった1種の害虫によりブドウ畑の殆どが瞬く間に壊滅してしまい,従来の方法でV. viniferaを栽培することは二度とできなくなってしまった.その害虫はPhylloxera vastatrixという蛾の一種で,一般にもフィロキセラと呼ばれている.アメリカのVitisに寄生していたものがヨーロッパに持ち込まれて大発生したらしい.
 このフィロキセラは卵から成虫までの各ステージでブドウ樹のあちこちに寄生するが,アメリカ系のブドウとヨーロッパ系のブドウに対しては寄生の仕方が若干異なる.V. viniferaの場合,根が壊滅的な打撃を受け,枯死してしまうが,アメリカ系のブドウの根はフィロキセラに対して強く,簡単に枯死することはない.しかし,前述のようにアメリカ系のブドウでワインを作ってもヨーロッパの人々の口には合わない.そこで考え出されたのが,アメリカ系のブドウの幹をチョン切って,その上に従来から栽培していたV. viniferaを接ぎ木する方法である.これによって昔のような味のワインが再び各地で安定して作られるようになった.このチョン切られたアメリカ系のブドウ,あるいはそれを改良した交配種が台木である.
 ところで1868年というと明治元年である.明治時代,米の消費を減らすため,政府が清酒の代わりにワイン生産を奨励したことは意外と知られていない.今日でもワインの酒税が清酒よりも安いのはこのなごりであろう(実はアル添の有無という問題もあるが,ここでは触れない).
 明治政府の思惑に反して,実際にはワインを飲む習慣が日本に定着することはなかった.ワインが当時の日本人の味覚に合わなかったことも確かであるが,このワイン作りが頓挫した原因の一つがフィロキセラ禍なのである.

1)本多忠親:化学と生物,31,430 (1993)

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