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翌日の朝にはいつものホテルからの連絡があって、あらためて投宿先としてのチェックインをすることとなった。そして、
『サンジが来てるんなら、俺、どうせ暇だしさ。』
何しろ、ルフィが籍を置く経営コンサルタント事務所の大ボスだ。その本人が来日していて、しかもご本人がルフィを傍に置きたがっているともなれば、連絡だの仕事だのが彼のPCへ転送されてくることはまずない。ということで、ルフィもちゃっかりとサンジにくっついて、豪華ホテルのインペリアル・スィートへと同行して来ていたりする。自宅の居心地が悪いというのでは決してないが、サービスのプロフェッショナルたち(それも三ツ星つきトップレベル)による"おもてなしの重奏攻撃"の最中に身を置ける贅沢は…やはり魅力なのだ。豪奢にしてセンスの良い、シックなエントランスロビーから二人が案内されたのは、昨年の来日時にもサンジが投宿していたのと同じ部屋。そういえば、奥にもう一つの部屋があるとは知らなくて、そこにいたゾロに気づかないまま、不安な心情をついつい素直に吐露した"あの時"をちろっと思い出す。
"あれってクリスマスだったんだっけ。"
季節は移って、もう半年近く経っていて、大きな窓から見渡せる空の色さえ、まるきり違う。さして荷物もない、だが、常連の、世界的に有名なビジネスマン。それは心地の良い人当たりと笑顔にて、部屋まで案内してくれた係のベルボーイさんが、やわらかな会釈を最後に退出してから、
「ところでお前。」
サンジはおもむろにルフィへと声を掛けて来た。
「ん? なに?」
「どういう格好だ、それ。」
というのが、明らかにサイズが違うと判る薄手の合物セーターを、シャツの上へと重ね着しているルフィであったから。はっきり言って、ここが日本でなかったなら、いわゆる"上流階級"云々を鼻にかけてるような志向のホテルであったなら、下手をすればフロントに低頭且つ鷹揚な慇懃無礼でもってして、追い返されていたかもしれないふざけた格好で。肩幅も袖丈も全然合っていないし、裾に至っては尻を隠すほど長い。それならそれで襟ぐりがボートネック並みに開いているかと思えば、この初夏には暑苦しいくらい首に添って詰まっていて、重ね着ならではな、下に着ているものが伺えない辺り、ファッションとは到底思えない。
「それって、もしかして…。」
「うん♪ ゾロのだよvv」
余っている袖の端。指の先っちょに引っ掛けて、奴凧のように引っ張って、つんと左右に広げて見せ、愛くるしい童顔をさも嬉しそうにほころばせて"にっこにこ"と応じる彼へ、サンジは"誰が褒めてるんだよ"と言わんばかり、逆にどっと呆れて見せる。
「服くらい、ちゃんとしたのを買って貰わないか。大体、お前の給料、毎月きちんと口座に振り込んでる筈だぞ?」
それも…自慢して言うのではないが、一応はどこで公言しても恥ずかしくはないだけのかなりの金額を設定してやってる筈だぞと、渋面を作るサンジへ、
「いや、買ってもらえてないんじゃなくてサ。」
ルフィはぶんぶんと首を横に振る。
「ゾロのを俺が勝手に着てるだけなんだって。でも最近は重ね着すると暑いから、そろそろ限界かもなって。」
そういう物差しで"限界"を決めるもんかねと、サンジはますます眉を寄せたが、ふと気がついたのが。
「? 俺の服ではそういうこと滅多にしなかったよな?」
「だって、サンジのだと重ねられるほどには余裕なかったし。第一、そこいらに脱ぎっ放しっての、やんなかったじゃん。」
「…おいおい。」
彼らの生活状況が暴露されまくっとりますが。
「見かけによらず、結構ズボラなんだな、あいつ。」
「ん〜、どうかな。男の人だし、あんなもんだって。」
俺だって男なんだが…と、思ったがわざわざ言うのは止よした。キャリアだとか立場だとか何だとか、あの青年と自分とは何かと違いすぎ、その違いとやらをルフィの口から明らかにされるのが…何となく気が引けたからだ。くるぶしまで埋まりそうなくらい分厚い絨毯の敷かれた、ゴージャスなメインルームのふかふかなソファー。外国からの客人へも十分に対応出来るようにというサイズで、小さなルフィにはこのまま簡易ベッドに出来るほど大きい。3人掛けのその真ん中、身体が沈むほどのクッションに嬉しそうに身を凭せかけつつ腰掛けた少年へ、
「昼間は何してるんだ?」
ルームサービスで前以て用意させておいたらしい、果物を盛った籠の中。仄かに冷えたラ・フランス…洋梨を手に取ると、傍らに準備されてあった優美なデザインのナイフで、するすると魔法のような器用さで、きれいに皮を剥きながらサンジが訊いてくる。
「んっとね、メールの転送と、掃除とか御飯の支度とかっていう家事と。」
ルフィはサンジのウェブ上の経理事務所の日本支局の派遣員という立場ではあるが、実際に…例えばクライアントとの交渉をするとか相談の応対をするとか、そうった"実務"は手掛けていない。また、職務の整理事務も別に担当者はいる。実際にやっていることはというと、サンジからの業務連絡メールを指定された担当者に転送したり、逆に担当者から送られて来たメールをサンジの元へと転送したり。ただそれだけというところか。だが、彼のポジションは実のところなかなか重要で、例えば、サンジが実務用個人用と幾つか使い分けているメールアドレスの内、即日開封するのはルフィからのものが届くとあるアドレスと限られていたりする。業務連絡であれ私的なものであれ、この少年からのものが優先されているため、これでも"社内"ではある意味"重要なキー・パーソン"なルフィなのである。(笑)
「あと、近所の地域教室で時々パソコンを教えるアルバイトしてるんだ。」
「パソコンの先生か?」
「そんな大層なもんじゃないよ。」
ルフィは首を横に振りながら笑って、
「何も知らないってトコから人に教えるっていうのは難しくって出来ないし。だから、判らないことがあったら訊いてねっていうサポート役なんだ。」
「ふ〜ん。」
真珠のような深みのある光沢をまとった白い皿へと、丁寧に切り分けられた洋梨を並べて、テーブルへ置く。細身でしゃれたデザインの銀のフォークを手渡され、ルフィは遠慮なく、水気の多い甘い果実を口にした。
「最初は同じマンションに住んでる仲良しな子が連れてってくれてさ。その延長みたいなもんで、時々遊びにって顔を出してるようなものだからお金は要らないって言ったんだけど、決まりですからって。お給料貰っちゃうと責任重大だからなって思ってさ。でもそれをゾロに言ったら、教室に来てる子たちは、今は遊び半分でも先々で俺に習ったやり方でパソコンを触ることになるから、いい加減なことを教えちゃいけないよって。お給料貰わなくたって、きちんと責任もって教える気持ちでいないとなって。」
「へぇ?」
それは意外だなと言いたげなサンジからの相槌へ、意を得たりとばかり、ルフィは大仰に頷いて見せながら、
「真面目だよぉ、ゾロは。子供が相手だからって"馬鹿だな"とかも言っちゃいけないって。本気じゃなくたってさ、年上の人から言われるとキツイんだぞって。子供にもよるけど、それでもサ、凄っごい意外なことで傷ついちゃうこともあるからなって。」
「なんか、見かけに拠んないな。」
「だろ? 俺もそう言ったらさ、えと…俺んこと、ずっと我慢させるような無神経をやってたからなって。ちょっとくらい出遅れても良いから、一旦止まって考えてみるくらいじゃないと、また同じ無神経で俺んコト傷つけちゃうかもしれないからって。」
なんだ、詰まるところ"のろけ"だったのかね。(笑)
"………。"
眸を頬を輝かせ、小さな手を振り、声を出して笑い、幸せそうに話すルフィ。嬉しかったとか楽しかったとか、彼が話すそういったものものを聞いてやるのがそのまま自分の楽しみでもあった筈なのだが。
「………。」
何故だろうか。どんな話の中にもすぐさま出て来る、あの従兄弟殿の名前や影、影響のようなものへ、苦いものをつい感じてしまう。そういえば、昨年の今頃だったか、ルフィがあの従兄弟殿の話をするようになってからというもの、何となく…些細ながらも何やら飲み込み切れないものを感じ始めてもいたよなと思い出す。
「? どうしたの?」
そういう仄かな苛立ちがつい表情に出たのか、ルフィがひょこんと小首を傾げて見せる。丁度、フォークの先に洋梨を刺したままでいて、
「…あ。お前、それ…。」
その手元を指さしながら、サンジは滑らかな動作で立ち上がった。
「え? …あ。」
小さな白い手にがっちり握られていたフォークを伝って、洋梨の果汁が手首にまで垂れていたのだ。
「お前、赤ちゃん握り、直したって言ってなかったか?」
人差し指で支える持ち方なら…いや待てよ。赤ちゃん握りの方が気がつきやすい筈ではなかろうか? まあ、どっちでも、気がつかないもんは気がつかないのだろうが。
「あやや。」
梨を皿へと戻し、滴しずくの伝った手を所在無げに宙に浮かせていると、傍らまで来てくれたサンジが、備え付けのおしぼりを広げ、手をくるっとくるみ込むようにして拭ってくれた。
「手がかかるとこはちっとも変わってないのな。」
「む〜っ。」
むくれて見せるが、事実だからしようがない。わしわしと外側を、続いて手を広げて内側と指の一本ずつを丁寧に拭われて、
「…セーターについてない?」
袖の外側、そちらへは垂れなかったか?と聞いてくる。
「大丈夫みたいだが。」
「これ、ゾロに言わないで着て来ちゃったんだ。いっつも気に入りのを勝手に着るだろって言われててさ。」
なのに、性懲りもなく今日も着てしまった彼であり、しかも汚してしまったら叱られるかもと、その割には笑って言うものだから、
「…大丈夫だ。汚しちゃいないよ。」
ふいと視線を逸らす。
「サンジ?」
やはりどこか訝おかしいと。ルフィにでさえ感じられることなのだから、これは些細な何かではなさそうだと。…本人がどういう物差しを使ってるかな、この子ってば。冗談はさておき、
「なあ、どうかしたのか? 具合とか悪いのか?」
この自分から視線や注意を逸らすなんて、まず滅多になかった彼だ。何かを気づかれまいとして気を遣っている。そうとしか思えなくって、顔を覗き込む。長い前髪の陰になって隠れている白い横顔。それをもっと覗き込もうと顔を寄せかけたその時だった。
「…な、なに?」
不意に。サンジが突然、顔を上げるのと同時にルフィの両方の手首を捕まえた。なめらかな、流れるようなその仕草は、相変わらず洗練されていて隙がない。だが、
「え?」
そのまま、どういう組み手技の応用なのか、あっと言う間に…実に手際よく、ソファーの広い座面の上へ押し倒されていたルフィーである。
「…サンジ?」
ふざけての事にしては真顔だし、何より、
「痛いっ。なあ、サンジ。痛いってば。」
押さえ付けられた手首。釘付けにされているからではなくて、キツく掴まれているその握力で、千切れそうなほどに痛む。こんな風に"痛さを伴う"力づくという行為をこの彼からされたことがないから尚のこと、一向に訳が判らなくて混乱しているルフィだったが、
「………っ!」
ふわっと身に迫って来た彼の匂いが、これまでにない熱さで首元の深みに触れ、耳の下に柔らかな感触が当たる。軽く吸いついてから、濡れた感触が耳朶の縁を這って、
「…あ、…。」
びくりっと、肩が、腕が、上体が震え、
「……や、サンジ、やだ…。」
その温かさが大好きで包まれると落ち着けて。そんな対象だった筈の匂いが、温みが、一瞬にして怖くなった。何かが違う。何かを奪われそうな、壊されそうな気がして怖い。
「やだっ。いや…離してっ! やだっ!!」
声を荒げながら、腕を振り払おうとし、胸板を反り返そうと力を入れるのだが、まるきり歯が立たない。ゾロとは違い、細身で軽い筈の彼だのに。何かしらのコツでもあるのか、どんなにもがいても胸の上へとのしかかった体はビクとも動かない。
「なあ、サンジ。やだって!」
抵抗が効かないことより、言うことを聞いてくれない、言葉が通じない彼だということが悲しくなった。どんな駄々や我儘でも聞いてくれたのに、それこそ命を懸けてでも守ってくれた彼だのに。そして、力づくという…尊厳の蹂躙などという下劣な行為には縁がない人だと思っていたのに。
「嫌だ…いや…。」
どこか金切り声に近かった抵抗の声が、細い悲鳴に変わって、半分泣き出しそうな声を上げ始めるルフィの、やはり耳元で小さなため息が洩れる。
「………サンジぃ。」
しゃくり上げる寸前という声を洩らすルフィの髪を、いつの間にか手首から離れていた手のひらがそぉっと梳いてくれていて、
「悪い。ちょっと試してみた。」
「………試す?」
やっと身を起こして退どいてくれて、隣りへと座り直しながらふわりと抱き起こしてくれた抱き方は、いつもの安心なやさしさのそれ。まだどこか、何が何やらという混乱の余燼が残る幼い顔を覗き込み、
「ちゃんと…って言い方も妙なもんだが、奴に手ぇ出して貰えてるみたいだな。」
目尻に滲んだものを指の腹で拭ってくれる彼の言葉は、ルフィの中で意味が分からぬままにくるくると撹拌されて。それが…ワンテンポほど遅れて理解に至ったから、
「………あ、えと///。」
たちまち真っ赤になる少年を胸元へと抱き寄せて、
「時々一緒に寝てたくらい、ぴっとりくっついてて平気だった俺が"怖かった"なんてのは、奴にだけかなり参ってる証拠だぞ? おい。」
からかうように"くつくつ"と笑うサンジだが、
「違うもん。あんな…。サンジ、あんな乱暴、これまでにしたことないじゃん。今みたいな抱っこの仕方じゃなかったし…、だからっ。」
耳まで赤くして懸命に反駁する愛しい子。その懸命さに、
"そうだな、少しくらいは疚しい意味での欲求も滲んでいたのかも知れないな"
と、ついつい内心で認めてしまうのも、いつもの伝で彼にはとことん弱い相性だから。確かめたかったのはホント。だがそれは、今、彼への説明にと口にしただけではなくって。ほんのこないだまで一緒に過ごした、あの優しく切ない日々にはもう戻れないのだろうかと、未練がましくもずっと思い続けていたから。だが、今、ようやく判ったような気がする。あの頃の自分たちは、お互い同士しか"同じ人間"はいなかった。他には判り合える者のない、誰もいない"独りぼっち"同士が肩を寄せ合っていただけのことだと。自分と居た頃は、サンジが仕事で家を空けると、借りの住まいに閉じ籠もってただひたすら帰りを待ってた彼なのに。今の彼は違うのだ。従兄弟殿にだけすっかり依存する訳でなく、昼間、家にいる時間も外へ出て何かしら彼なりに歩き始めている少年。ほんの半年ほど前までは、ルフィの側だけながら随分と気を遣って過ごしていたものが、今や、お互いの自立をそれぞれに成り立てせている間柄な二人なのだ、彼らは。
"癪ではあるが。"
もう戻れはしない。少なくともルフィはもう先へと踏み出している。本来の年齢からさして遠くまで掛け離れてはいなかった、間に合ったからこその素早い自己修正であり、喜んでやらねばいけないことだのに、何故だろう、何だか寂しくてやるせない。
"やっぱ、そんだけ年齢差があるということなんだろうか。"
以前、このシリーズの中でサンジ本人が言ったこと。いくら長い歳月を通り過ぎた身であれ、例えば"大人としての立場に立った上での経験"を積まない以上、大人にはなれない。その理屈で言えば、体が闊達に動いて、機転も利いていた、若々しいままだったサンジ自身もまた、いくら歳月を経ても老成はしない筈なのだが。その耳目で直接見聞きし、その肌で感じて経験した、様々な機微というもの、感情の蓄積は、それなりの精神的な老成というか、熟成のようなものを彼に齎(もたら)していたようで。準備不足なんか何のそのと胸を張って歩き始められるルフィの、幼さではない、真の若さが発揮する大胆さには到底及ばない自分であるらしいと認めざるを得ないサンジである。
"………。"
だが、当然のことながら表にはそんな気配は微塵も表さずに、
「そっか。貞操の危機を感じたか。そりゃ良いことだぞ。お前みたいに可愛い子は、女の子と同じように注意しないといかんからな。」
「もうっっ!」
どこまで本気の真剣なのだか。そんなことを言って、結局はルフィを笑わせてやる。………と、
「あ、メールだよ。」
「? そうだな。」
どこか怪訝そうに、サイドテーブルの上の携帯電話を手にする。今回の来日、ゾロが怪訝そうに感じていたその通り、仕事のためのものではないのになと、そう感じた彼だったからだが………。
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