不純な動機:横浜市大“改革”の「ルサンチマン説」

 このような「不純な動機」を原動力に、“プラクティカルなリベラルアーツ”と3学部統合という「杜撰なグランドデザイン」に基づいた“改革”が失敗するのは火を見るよりも明らかです。その結果、真っ先に被害をこうむるのは教員や学生で、さらには、多くの有能な卒業生を送り出し、伝統と実績を営々と積み重ねることで築いてきた共有財産を、みすみす“ドブ”に捨てさせられる横浜市民です。・・・


 早くも下された“改革”失敗の判定
 横浜市大では、ここ数年のアレヨアレヨという間に、中田宏市長および横浜市官僚による暴力的“改革”(改悪)の嵐が吹き荒れ、憲法・教育基本法・学校教育法・教育公務員特例法等の法制度により、幾重にも保障されていたはずの「学問の自由と大学の自治」が徹底的に攻撃・蹂躙された結果、横浜市大はもはや到底、大学とは呼べない姿に変貌させられました。市長および横浜市当局は乱暴にも、「学問の自由と大学の自治」を担保していた教授会の人事権はもとより、教員の自主的な教学権(科目によっては、単位認定権・成績評価権[脚注1])までをも剥奪・侵害した上に、全教員に任期制や年俸制を強要するなどという、数年前には誰も想像しなかった(できなかった)事態に大学を追い込んだのです。現在、教員組合を中心に(絶望的な)抵抗が続けられていますが、市長指揮下の市当局は、(小泉自民党の選挙スローガンである)“改革を止めるな”とばかりに、大学のさらなる破壊と管理・統制の強化をねらっています。その結果、早くも今春には、「受験生の激減」と「教員の大量流出」という形で、この“改革”が失敗であったという判定が下されました[脚注2]。市大の学生の間からも、新カリキュラム等に対する不満の声が噴出しています[脚注3]
 この事実が世間に知れ渡ることを恐れた大学当局、および、とくに、2期目の選挙を半年後にひかえた中田市長は、大学のホームページやテレビ広報等を通じて、“リフォーム(改革)詐欺”顔負けの受験生向けプロパガンダに余念がありません。“市民派”市長・“改革派”市長の正体が、実は、“えせ市民派“・“ウソツキ”政治家・“不正直”政治家であったことがよく分かります[脚注4]

 横浜市大“改革”の「ルサンチマン説」
 “関内”(かんない、横浜市の本庁所在地)と市大教員との関係は、何十年も前の昔からギクシャクしていたという話ですが[脚注5]、「学問の自由と大学の自治」の理念のもとに運営されるべき大学の“特性”についてまったく無知・無理解な事務官僚が、関内から市大へと数年交代でパラシュート降下しては去っていきます。公立大学では、国立大学と異なり高等教育を専門とする官僚がいませんから、彼らはすべて、大学運営に関してはまったくのシロウトで、こういった連中が学問や高等教育とは無縁の部署(経済局・財政局・都市計画局など)を渡り歩いた後、パラシュート降下してくるわけです。
 今回送り込まれたのは、やたらに高圧的で上意下達を旨とする「役人の論理」を振り回すタイプの“辣腕”官僚氏(池田輝政総務部長、現在、泉区長に栄転)で、教授会が自分の思うように言うことを聞かなかったことに対していたくプライドを傷つけられ、どうも、このことで教員に対する“怨念”を、より一層深めたようなのです。じっさい、「部外秘」指定の公文書に、つぎのような“辣腕”官僚氏の驚くべき発言が残されています。「教員は現実は違うのに自身をスーパーマンだと思っている。なんでも出来ると思っている。そこに事務が配転してくればやる気がなくなる」、「教授会がごちゃごちゃいわなければ、すんなり決まる。その辺をはっきりするということだ」、「教員は横浜市に雇われているという意識がない。設置者がつくった制度を知らないで議論している。権限の構造がどうなっているかを教員は知らなければいけない」、あるいは、「教員は商品だ。商品が運営に口だして、商品の一部を運営のために時間を割くことは果たして教員のため、大学のためになるのか」等々です[脚注6]
 このほか、選挙受けねらいの“思い切った改革”に固執し、“偏差値38からの挑戦”を売り物にしている“反知性主義”(つまり、高等教育や学問の本質と価値についてハナハダシク“理解力不足”)の中田市長[脚注7]、および、大学院博士課程卒業(満期退学)後に不遇の浪人時代を長く送ってすっかり屈折したらしい橋爪大三郎東工大教授(「あり方懇座長」)[脚注8]の両者も、大学教員や大学に対して強烈な反感を抱いていることは明らかです。
 このように、横浜市大“改革”とは、“辣腕”官僚、市長、および、「あり方懇座長」の市大“改革”のキーパーソン3人の思いが、“反大学教員”の共通軸で共感しあった結果、異様な大学攻撃となって噴出したものと思われます。横浜市大の教員の間では、市大“改革”の動機/原動力として、この「ルサンチマン説」(なかでも、“辣腕”官僚氏の「怨念説」)が有力です[脚注9]

 市民の共有財産を“ドブ”に捨てる“改革”
 このような「不純な動機」を原動力に、“プラクティカルなリベラルアーツ”と3学部統合という「杜撰なグランドデザイン」に基づいた“改革”が失敗するのは火を見るよりも明らかです。その結果、真っ先に被害をこうむるのは教員や学生で、さらには、多くの有能な卒業生を送り出し、伝統と実績を営々と積み重ねることで築いてきた共有財産を、みすみす“ドブ”に捨てさせられる横浜市民です。
(2005.9.20作成)



[脚注1]
横浜市立大学教員組合週報  組合ウィークリー(2005.8.2) より
 (2)教員の教育研究条件に関する要求 3.英語教員の教育活動に対して大学教員にふさわしい権限(単位認定権、成績評価権)を与えるべく改善策を提示することをもとめる。現在英語教員は、現場の反対を押し切った「改革」に基づく授業を担わされ必死の努力を行っている。「改革」そのものを見直すことについて、今後現場の声を聞いて送球(ママ)に検討されるべきである。それはさておき、大学教員に単位認定権、成績評価権を与えずに強制されている現在の教育労働は、大学教員の教育活動に対する尊厳の無視に当たり、早急に改善策が示されるべきである。


[脚注2]
横浜市大入試、受験者数「激減」 永岑三千輝氏『大学改革日誌』(2005.2.4)
横浜市大、どうにも止まらぬ「教員流出」(2005.2.14)
平成17年度一般入試出願者の減少について 松井道昭(商学部)(2005.2.21)

 受験倍率の大幅な低下は、“改革”をめぐるゴタゴタが(教員だけでなく)受験生にも悪い影響を及ぼしたためと思われますが、松井教授は、ゴタゴタ要因以外に、(1)後期日程をなくしたこと、(2)募集方法と選抜方法を大幅に変えたこと、さらに大きな要因として、(3)市大改革のグランドデザイン(つまり、プラクティカルなリベラルアーツという意味不明な目標)が時宜に適っていないこと、および、(4)教員任期制と年俸制の強要により教員が意気阻喪していることをあげ、「今後、いま始まったばかりの出願者減にいっそう拍車のかかることが予想される」と指摘しています。


[脚注3]
05/7/23「横浜市立大学を考える市民の会」ブログ立ち上げにあたって(2005.8.2) より
 3 新カリキュラムの問題点  今年度からの新カリキュラムについては、新入生の受講できる科目が大幅に制限されるとともに、300人、400人という受講者をかかえる講義が続出し、教室の手当すらままならなかったり、コンピュータ実習での端末1台に学生3人といった状態であるようです。また、TOFEL500点といった画一化された進級条件の影響で、英語の授業の出席率が極端に低下しているといった情報(http://blog.livedoor.jp/ycu_press/archives/27390910.html)、も漏れ聞こえます。そもそも「教育に重点をおく」として学生本位をうたった改革が、このような事態を招いていることは異常であり、大学の実態を無視し、現場の教員の声を充分に反映しなかった拙速な「改革」の弊害であることは明らかです。カリキュラムについては、教育に関して充分な経験を積んだ教員の主導により速やかに見直しが行われる必要があると考えます。


横浜市大、「不透明な“競争的研究費”の配分方法と教養ゼミの崩壊状態」 永岑三千輝氏『大学改革日誌』 (2005.7.29) より
 この間、教養ゼミの学生諸君の何人かと話し合う機会があった。そこで驚いたのは、「出席しても何もカウントされない英語クラスには、ほとんど出ていない」という人が実に多いということだ。こうした事実は、関係者はすべて知っていることだろうが、直接の会話で何人かの学生から聞いて、その深刻な事態(いわばクラス崩壊状態)に驚いている。なん人かの話では、2-3人しか出席していないクラスが結構あるようだ。2-3人といえば、30人程度のクラスの1割というところか。システム自体、成績評価のあり方、進級条件(必然的に卒業条件に連動する・・仮進級させても問題を先延ばしするだけ、そのうちに制度設計の責任者たちは大学からいなくなってしまう、すでに大学改革推進本部は解散されている)自体を変更すべきではないかと感じるが、これも、上と同じように、3年ないし6年の中期計画だかなんだか、で決まっているということで突っ走るのであろうか。いきつくろころまでいくということか。


[脚注4]
中田市長 市大入学式で、またも、"大ウソ" 《市長として、大学の中身に口を出したことは一度もない》(2005.4.5)
中田市長は,“官僚的不誠実回答”をいつまでくりかえすのか?(2005.4.12)
横浜市立大学2教授、中田宏横浜市長の“ウソ発言”に「抗議文」を提出 (2005.4.27)
吉岡直人(横浜市立大学):中田市長の“大ウソ”発言「市大の中味に口を出したことは一度たりともありません」に対する「公開質問状」 (2005.5.9)
これではまるで“悪質詐欺” 中田宏編集長の「横浜市大PRビデオ」(2005.8.19)


[脚注5]
「今の市大の状況について」 緊急シンポジウム「市大の将来を考える」第1回市民集会基調報告 松井道昭(昭和42年卒・商学部教授)(2003.2.8)


[脚注6]
『部外秘資料』が語る,横浜市立大学の"独裁官僚"と似非民主制(2003.1.28)


[脚注7]
『自作自演の茶番劇・2』:神奈川新聞2004年1月30日付報道―コース設定を論議へ 横浜市大改革で専門委を置―(2004.2.3) より
中田 宏 (著)、『なせば成る―偏差値38からの挑戦』、講談社、2003年刊
 【目次】
  「バカ」?…だから、できる!
  本物の「欲張り」のすすめ
  無関心が世間を悪くする
  やりつづければ、成果は必ずついてくる
  やりたいときが、すべきとき
  成績のいい奴らだけが、社会を動かす愚
  困難はゲームと考える
  レベルが低いほど伸びる、という真理
  「見返す」のは快感
  だったらやれよ
  つねにアンテナを張りつづける
  えせエリートのルールなんかくそくらえ
  僕が考える「頭のいい人」〔ほか〕

同上書より(2005.9.20加筆)
成績のいい奴らだけが、社会を動かす愚
 テレビのニュースのインタビューに答えていたどこかの国立大学の学長は、とうとうと学校教育の現状を「ああでもない、こうでもない」といろいろ話している。
 僕はその話しを聞いて、生まれて初めて社会に対して「ピーン」ときた。
 「ヤバイ!こいつらに俺らの教育を考えさせたらダメだ!」・・・
 落ちこぼれたことのない人に、落ちこぼれの気持ちがわかるはずがない。
 「国立大学の学長ということは、幼いころから学校の成績はつねにトップの数パーセントに入っていただろう。あまり反抗せず、ましてや『なんで勉強するんだろう?』などという疑問も持たず、ただただ受験で勝ち進んできたのだろう……」・・・
 「そんな人たちが教育を考えるなんておかしい!」、僕はそう思った。「そうか、教育だけじゃなくて、ひと握りの"成績のいい奴ら"だけが杜会を動かしているんだ。それは絶対に間違っている!」とも思った。

「見返す」のは快感
 「エッ、ウソだろ?あれ、あの中田か!?」
 こういわれたときの快感は、なににも勝るものがあるのだ。

 もし、「私はできない。周りからもバカにされつづけてきた」という負い目を持っているとしたら、それは「見返す」絶好のチャンスだ。反対に、みんなに「できる」と思われている人は、失敗したときに失望されるだけ。
 そして、「見返す」ことによって得た快感を一度でも味わうことができれば、絶対的にそのあとの人生は変わる。
 これは、僕が自身の体験から、自信を持って断言できることだ。



書評 amazon.com.jp より
反知性主義, 2003/12/02
レビュアー: jupiterlee (プロフィールを見る)  

 中田横浜市長は2002年に37歳の若さで横浜市長に就任し、全国的な関心を呼びました。松下政経塾出身というのが大いに宣伝されましたが、青学2浪で偏差値38だったことは、あまり知られていないようです。中田市長は大学改革に積極的に乗り出しているとの報道がなされていますが、その方法に関しては、学問や高等教育の価値を理解していないのではないか、とアカデミズムから反感をもたれています。この本を読むと、中田市長は現場重視であると主張する一方で、企業にも官庁にも勤めた経験もないことが分かります。また、学校の詰め込み教育を批判するのは簡単ですが、努力して勉強してきたエリートや学歴に対する強烈な反感があることがうかがえます。若い浮動票を得るという目的からなのか、終始若者に語りかけるような調子で書かれた本ですが、経験のない若者の独りよがりな意見と受け取られないよう、現実の政策や行動で成果を出せるのだろうか、と不安に思わせる一冊でした。


[脚注8]
第3回「市大あり方懇」傍聴記−池田理事・橋爪座長の議事引回しを許さず、民主的・公正な運営と討論を求める−(2002.12.9)
学問の自由と大学の自治の敵,橋爪大三郎「あり方懇」座長の危険性(2002.12.11)
徹底論証:学問の自由と大学の自治の敵,橋爪大三郎「あり方懇」座長の危険性と国公立大学独立行政法人化の行き着く先(2003.1.10)

荻原昭英(S37卒):座長 東工大教授 橋爪大三郎氏への疑問(2003.1.28) より
大学院卒業後、講師、執筆活動?
 人格、学識、素質などそれなりの事情があったものだろうが、橋爪大三郎氏の大学、教授会、主任教授への怨みは深刻なものがある。浅薄な内容の本をたくさん書いても、テレビに出ても一匹狼的存在である。学者仲間や学会からは相手にされず、評価もされない。希望がかなえられなかった悲しさ、口惜しさから大学への怨みも日増しにつのってくる。その怨念、逆恨みが大学への悪口雑言、改革論となっているに過ぎない。


[脚注9]
松井道昭(横浜市立大学):横浜市立大学の改革をめぐる諸問題」(2004.3.28) より
 3.改革の動機 (4)ルサンティマン(怨恨)説 ことばに出していいにくいことだが、市大改革案の策定に関係した者は何かしら現市大を快く思っていないグループから成る考え方がこれである。これにははっきりした根拠があるわけでもない。しかし、上記(1)〜(3)の説が成り立ちにくい事情を考えると、単なる被害妄想として片付けられない面もある。