Furtwangler KeyWords

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マグネトフォン


★1941年11月30日 ドヴォルザーク/交響曲第9「新世界」 BPO フィルハーモニー レリーフ 30CD3036('86)
[店頭情報]
★1942年2月15日〜17日 R.シュトラウス/歌曲集&ドン・ファン BPO アンデルス(S) フィルハーモニー RRG録音 初出メロディアM10 41233ー4(80年頃)
▽ドイツ文化機関の資料によると38年頃K1モデルとして開発されたバイアス方式の「マグネトフォン」は、放送用K4モデルに改良され、さらに41年11月ころからBASF製セルローズアセテート磁気テープとAEG製ACバイアス方式テープレコーダー「マグネトフォン」R22モデル(77cm/秒で20-23分の録音が可能)を放送録音として利用しはじめたと思われる。(但し現在確認されているWFの最初のテープ録音は42年2月15日の「ドンファン」)当時巨匠の個人的"トーンマイスター"だったヘルムート・クルーガーとフリードリッヒ・シュナップ博士の手記などによると「フィルハーモニーホールにミキシング室を造り、テープレコーダーは大きすぎたので放送局に残し、その間に電話回線を設置し生中継したり、後日の再放送あるいはレコードとして市販する目的で録音した」という。43年頃からはK7モデルというステレオ機も開発され、 RRGの技術者たちは、ベルリン放送局ホールのステージから1メートル手前、高さ2メートルに一対のノイマン無指向性CV1マイク、その中央にモノラルマイクを据え付け、それらの信号をミキシングしたという。放送は中波や長波を使って、全国的(占領国を含む)に放送されたが、ベルリンではさらに良好な音質の超短波(FM)の放送も行われていた。「新世界」は現在では他の指揮者(カバスタ?)の44年の演奏とされるが、WFもこの当時積極的にこの曲を演奏していたのは事実である。[参考資料E]にある1942/3シーズンのVPO演奏会で1942年10月31日、11月1日に演奏されている。また、1944年3月16日にプラハでおこなわれた「政治作戦5周年記念祭(実際にはチェコ制圧記念祭)」でもアメリカ&チェコの民族音楽を取り入れたこの曲を「危険」を犯して演奏した)この演奏は明らかにテープ録音とみられ針音は入っていない。放送を通じて演奏会よりも多くの聴衆を獲得した巨匠は、45年1月のスイスへの亡命まで多くのテープ録音を後世に残し、その録音の多くはメロディアから発売された。
[私とclassic]△ちなみに私は「新世界」ではセルが好き!
1941年11月30日のディスコグラフィーへ


ナチスへの「協力疑惑」


★1942年4月19日 ベートーヴェン/第九 BPO フィルハーモニー RRG(ドイツ帝国放送ベルリン放送局)録音→1945年ソ連軍接収→1960年頃
メロディア盤発売(D010851-3=モスクワを訪れた旅行者が発見)→1968年6月メロディア盤からダビングした英ユニコーン盤発売(日本ではコロムビアDXM105-6、フォンタナPL1101など)
▽CDなどのデータではいまだに同年3月とあるが、ファンの間では、当時NHKで中継録音放送されたというデータから桧山氏が[参考資料@]で提起しているこの「ヒトラー生誕祝賀前夜祭」の実況盤と信じられている録音。この祝賀演奏会を何とか拒否しようとウィーンでの演奏会やリハーサルをスケジュールに入れたり、病欠にするために親しい医師に診断書を書いてもらったりとてを尽くしたが、抗しきれなかったようだ。
この日の式典は北はノルウェーから南はギリシャ、西は大西洋沿岸から東はドニエプロベトロフスクまですべての放送局が中継していたとされる。[参考資料D] また映像でも残されているのでフルトヴェングラーがいかにこの式典への出席を避けようとしていたかが感じられるかもしれない。
ともかく総統を祝賀するための演奏会の指揮台に立ち式典を成功させた(何をもって成功というかも問題だが・・)のは事実である。しかし、ドイツの国民がすべて心の中まで「忠誠」を誓っていたと考える人はいないように、個々の立場においては否応なく「信奉」を誓わされることだってあるはずだ。ナチス・ドイツを否定することとドイツの「文化的遺産」をも否定することとは違う。アメリカに亡命(逃げる)し、遠くから「批判の声」をあげるだけが芸術家の取るべき道とは思えない。
戦後の日本におけるすべての「戦前的なものの否定」もこのような一面的な見方と同列に思えるのだが・・。
1942年3月22日のディスコグラフィーへ


ユニコーン盤


★1943年2月7〜8日 シベリウス/ヴァイオリン協奏曲・交響詩「伝説」 ブラームス/交響曲第2 クーレンカンプ(Vn) フィルハーモニー RRG録音 Vn協=旧DDR所蔵 初出(Vn協)ユニコーンUNI107(69/08) 初出(伝説)M10-45909004(83年頃) ブラームス(private archive)未発売
▽68年当時の米フ協会長H・イリング氏が、ソ連のレコードコレクターからスポーツシャツと交換に2セット7枚組のメロディア盤を入手(合唱・運命・ベト4・ブラ4・ハイドン変奏曲・グレイト・フランク交響曲の7曲)し、英協会のミンチン氏に1セットを贈り、それを元にして英ハンター社が「ユニコーン」レーヴェルで発売したと桧山氏がレコ芸紙上で述べている。つまりユニコーン盤の大戦中の録音の大半はメロディア盤からの「板おこし」であり、現在のメロディアLPが割と手に入りやすい状況下においてはこのユニコーン盤は「モノ」としてのコレクター的価値はあっても、音質的には価値が乏しくなっている。(shin-pのこの資料室においては、巨匠の芸術をより良質な音源で聴くのが目的でありコレクター的な興味はあまりない−)
ただ上記シベリウスなどは、旧DDR放送の音源をもとにLP化した初出盤であり数少ないオリジナルといえる。伝説は80年代にはいってからはじめてメロディアで発売されたもので、ブラームスはプライヴェートなディスク録音機を使った録音しか確認されていない。(もし再生してもAT盤の41年ブルックナー程度の音質なのだろう−つまり一般的な「レコード鑑賞」としての価値はなし=コレクターは大喜び?!)すでに当時のミンチン氏が会長をしていた英協会(別のHUNT氏の英協会が活動中)やユニコーンは、東芝が原盤を使用して再発する以外には活動はないようだ。2001年発売された東芝の新WF全集は音質が以前のCD/LPと異なり良質のものとなっているため、新しくメロディアLP/CDから起こしてマスターに使った可能性がある。
1943年2月7日のディスコグラフィーへ

スイスへの亡命


★1945年1月23日 ブラームス/交響曲第1から第4楽章 BPO アドミラルパラスト RRG(ドイツ帝国放送ベルリン放送局)録音 TAHRA FURT1006
★1945年1月28日 ブラームス/交響曲第2 ベートーヴェン/レオノーレ3番 VPO ムジークフェライン DG ユニコーン(ブラームス) レオノーレ未発売
★1945年1月29日 フランク/交響曲二短調 VPO ムジークフェライン DG
▽スイスへの脱出当時のことはいろいろな書物で述べられているが、1月30日夕にウィーンからベルリンフィルに「転倒して後頭部を打ち脳震盪。数週間の絶対安静が必要。2月の演奏会に出席は不可能。」と電報を打ち、友人・知人宅を泊まりながら国境に近づき、スイスの入国の査証が有効になる2月7日に国境を越えたとされる。この当時、スイス国内ではフルトヴェングラーは「ナチ」とみなされていたこともあり、ゲシュタポもいずれはベルリンへ帰ってくると考え、積極的に出国を妨害しなかったとみられる。そして2月12日ジュネーブ、2月14日ローザンヌで演奏会を行なうが、2月20日ジュネーヴでのコンサートは地方当局によって禁止された。2月23日ヴィンタートーアー(当時は
シェルヘンが常任=1940年ウィンタートーアー交響楽団を演奏し、シェルヘンと初めてあったフルトヴェングラーはBPOを自分と半分づつ指揮しようと提案した。結局「共産主義者」とみられていたシェルヘンは当局から目をつけられていたことをフルトヴェングラーも悟り「アメリカへいったほうがよい」と手紙を出したそうだ。)ではブルックナーの3番が演奏された。それが1947年4月6日ローマでの演奏会までの最後の演奏会となった。[参考資料CE]
1945年1月28日のディスコグラフィーへ


メロディア盤


★1943年6月30日 ベートーベン/交響曲第4・第5 コリオラン序曲 BPO フィルハーモニー RRG(ドイツ帝国放送ベルリン放送局)録音→1945年ソ連軍接収→1959年頃第九など5点のメロディア盤初版発売(浅岡氏のリポートより)→1966年頃メロディア盤再発売(D010851-3=モスクワを訪れた旅行者が発見)→1968年6月メロディア盤からダビングした英ユニコーン盤発売→1989年SFBにモスクワ放送から返還されたテープによるDG盤発売(DG427777-2)→1993年ロシア・メロディア盤(LP=CDは1994年)を日本の「新世界レコード」が直輸入して正式発売 (欧米諸国でもロシアン・ディスクとして日本と同じような形で発売済み)→97年8月TAHRAからTAH272として旧西側に残されたコピーテープを使用した「運命」が発売
▼1959年頃からソ連・メロディアレーベルで発売されたとするフルトヴェングラーの戦時中の録音は上記のような変遷を経て、やっと現在では本家(?)メロディア盤CD/LPが日本で「正規」に入手し、聴けるようになった。
1989年のソ連崩壊の際SFB(自由ベルリン放送=帝国放送の著作権上の継承機関とされる)に返還されたテープは、モスクワ放送所蔵のテープからのデジタルコピーだった。その後91年に返還されたマグネトフォンテープも実はメロディア社に保存されている
オリジナルテープからのコピーで、いわゆる「本物」ではなかったという意見もある。ただ末端のファンにCDやLPが届くまでの製造には多くの「過程」が存在し、必ずしも「本物」(つまりオリジナル)からマスタリングしたものの音質がいいとは限らないのが実状である。日本で愛好者の多いムランヴィンスキーのメロディア初期LPなど、おそらくマグネトフォンで録音されたと思われる50年代の録音が、西側の録音と比べてあまりにもお粗末な音でしかないという事実もある。たしかにWFのメロディア初期盤LPは、テープが劣化する以前のものだが、製盤技術などを考慮すると「最高」といえるかどうかには疑問が残る。ベルリン放送局のテープから戦時中にコピーされフランクフルトなど旧西側に残されたテープを活用し良好な音質を示したTAH272等の例もある。初期盤のメロディア運命は管の音色にリアル感があり、その音はもはや求めようもないのだが、針音などを「雑音」と感じる向きにはよほど状態の良い盤でなければTAHRA盤を薦めざるを得ないだろう。ちなみにこのベートーヴェンにしても、いかに戦中当時の「最高の音質」とはいっても1950年半ば以降の西側の録音レベルから見ればAM放送とFM放送くらいの音質の差がある。そして実際にDG盤CDとメロディア盤CDを比較して「まったく違う」という印象はなかった。(もちろん新世界レコード社や日本フルトヴェングラー協会のご尽力には感謝!であるが・・)
また著作物に関する「本物」を云々するのであれば、国際法上どうであれ「ドイツの文化遺産」であるこれらの「テープ」をソ連が勝手に持ち去り、自国の体制が変わったとして「コピーテープ」を送り付け、さらに現在は国営ではなく営利企業であるメロディア社に「本物」があることに問題がないという人は少ないであろう。(それが戦争だ−といってしまえばそれまでだが)戦時中録音された記録が残っているにもかかわらず、いまだに存在が不明な「ブルックナー7番」(BPO)「ベートーヴェン1番」(以上VPO)や44年ステレオで録音された「名歌手」などを発掘し、返還してほしい。
[海賊版「考」]
1943年6月30日のディスコグラフィーへ


ティタニア・パラスト


★1947年5月25日 ベートーヴェン/田園・運命 BPO ティタニア RIAS録音 TAHRA
★1947年5月27日 ベートーヴェン/エグモント序曲 運命 BPO 英占領区ソ連管轄放送局スタジオ 東独VEB提供テープ G MG6006
▽現在では文化財保護待遇を受けているものの靴やジーンズやガスレンジを売る店舗も入居する建物となっているティタニアパラスト。
[参考資料E] 録音で聞く限り防音設備が不備で貧弱なホールを思い浮かべるが、写真で見ると近代的な造りで巨匠自身は「ロンドンのアルバートホールのほうがずっとひどい」と述べており、(巨匠にとって一番いいホールは「ブエノス・アイレスのテアトロ・コロン」とし、幾度もアルゼンチンに出向いた。)このホールには満足していたと思われる。ただそのままでは曲線が多く、客席間の狭いことで残響が短く舞台が狭いなど、コンサート会場としては難があったため巨匠の提言で相当の改造が行われたとされる。また当時は米軍の「娯楽場」としても使われていたため、たびたびトラブルがあったとされる。
またこの「1947年聖霊降臨祭の日曜日(5月25日)」の演奏会ではトーマス・マンの娘が「間に合わせのアンサンブルとナチズムの復活を思わせる熱狂」といった内容の記事をNYのヘラルドトリビューン紙に掲載し論争が続いた。
27日の録音については永らくティタニア収録とされていたが、独フ盤の解説などに上記の記載がある。
1947年5月25日のディスコグラフィーへ

以下次回更新をご期待ください
(今後は、「ストックホルム」などを掲載する予定です。ご期待ください!)
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