どしゃ降りの雨の中を夜通し走って明け方浜名湖S.A.に到着。霧がかかっていて残念ですが、晴れていれば絶景ポイントです。  まずは伊勢神宮の外宮(げくう)へ参拝。俗に「お伊勢さん」と親しまれた伊勢神宮の正式名称はただの神宮だそうで、内宮(ないくう)と外宮、その他125社の別宮から成り立っています。参拝はまず外宮からするのが習わしだそうで、祭神は豊受大神(とようけおおみかみ)。天照大神(あまてらすおおみかみ)の御饌(みけ・食事)を司る神様で、産業を守護する神様としても親しまれています。平成25(2013)年に第62回式年遷宮が行われる予定です。
     
 眠気をさますために二見浦(ふたみがうら)へ  有名な夫婦岩です  この岩にも名前がついていたようですが覚えていません。二見浦というと「蛤の ふたみに別れ ゆく秋ぞ」 という芭蕉の句を思い出しますね。
     
「 伊勢戦国時代村」(2000年現在)です  大門。私たちが訪れたのは開業して7年目の頃ですね。2008年10月からは「伊勢安土桃山文化村」となったようです。欽ちゃんが村長だとか。  戦国時代なのに、何故か黄金の道真公が…。 
     
 乗馬体験もできます 安土城の大手門?  原寸大で再現された五層七階の模擬天守です。 
     
 5階にある「信長バテレン会談」の間  上る途中には鬼武者も 最上階の黄金の間
     
  6階の展望台からは伊勢湾が一望できます。金の鯱には130枚もの金箔が使われているとか。 展望台からの眺望  まだまだ見どころはありますが、そろそろ日没です
     
  いよいよ伊勢の内宮ですね。大鳥居をくぐって五十鈴川にかかる宇治橋を渡ります。幅8.4m、長さ101.8mのこの橋は、橋脚以外は檜で造られているそうです。  内宮を囲むように流れる五十鈴川。一部御手洗場(みたらしば)として禊(みそぎ)の場にもなっています。   御厩(みうまや)です。皇室から献じられた神馬(しんめ)を飼育しています。 
     
 神楽殿です。参拝者が祈願する場所でもあり、神学を奏上する場所でもあります。最も立派な建物だったように記憶していますが、メインはここではありません。メインとなる場所はもっと地味で古風なんですよ。   内宮の中心となる正宮(しょうぐう)です。内宮は皇大神宮(こうたいじんぐう)と呼ばれ、天照大神(あまてらすおおみかみ)が祭られています。 
     
 裏参道を抜けて再び宇治橋を渡り、  御祭神を確かめてふと横を見ると、  おかげ横丁があります。ここには江戸から明治へかけての伊勢路の建築物が移築され、門前町の町並みが再現されています。老舗の名産品(赤福等)やちょっと面白い体験も…。
     
 時間がなかったのでフェリー乗り場へ  フェリーデッキ :鳥羽から伊良湖岬へ 伊良湖水道を航行中
     
 鳥羽へ向かう船とすれ違いました  伊良湖岬は眺望がよく、南国の風情があって、藤村の「やしの実」の歌碑もありましたが、私の頭に浮かんだのは麻続王(おみのおおきみ)の「うつせみの 命を惜しみ 波に濡れ 伊良湖の島の 玉藻刈り食(は)む」という歌でした。流刑になった王の切ない気持が伝わってきます。 


ここからは附けたり熊野です
1991年へタイムスリップ
写真と息子のサイズが違っています



「熊野へ参るには 紀路と伊勢路とどれ近し どれ遠し 広大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も遠からず」(「梁塵秘抄」より)

 
 
サンフラワー号で朝、那智勝浦へ到着しました 。  南国らしい風景でしょ
     
  最初に訪れたのは橋杭岩です。串本から大島へかけて700mにわたって40あまりの奇岩が一直線に並んでいます。特徴のある岩にはエボシ岩、カブト岩、ハサミ岩などと名前がつけられていて、春の大潮の時には弁天島まで歩いていけるそうです。成因についてはよくわかっていませんが、弘法大師の説話が伝わっています。それによると、昔弘法大師と天の邪鬼が串本と大島の間に一晩で橋をかける賭けをしたそうです。弘法大師が橋杭にする巨岩を並べ始めると、邪鬼は鶏の鳴き真似をし、驚いた弘法大師は途中で断念して帰ってしまったのだそうです。朝だと思ってしまったんですね。それで橋杭が途中までなんだとか。  
     
 次は本州最南端、潮岬です。北緯33度26分。八丈島とほぼ同緯度にあるため、年間の平均気温が15、6度と温暖な気候に恵まれています。ただよく台風の被害を受けますが、この時は穏やかな海が広がっていました。    串本を過ぎ、大辺路(おおへじ)と呼ばれた熊野街道を通って白浜の千畳敷へ。ここは「日本書紀」や「万葉集」に「牟婁(むろ)の湯」として登場する最も古い温泉があります。昔は天皇の行幸も多かったんですよ。
     
 三段壁洞窟入り口  中は暗くていい写真が撮れなかったので、絵葉書から抜粋してご紹介します。千畳敷の南に2kmにわたって続く断崖の下に海食洞窟があるのですが、崖の上から36mほどエレベーターで下りると、赤茶色の洞窟内に150mもの通路が続いています。昔熊野水軍の船隠し場だったところで、外海から荒波が打ち寄せる様は絶景です。 
     
 洞窟から外海を見たところ。熊野水軍は源氏につくか平氏につくかを闘鶏で決め、ここから壇ノ浦へ向けて船出していったのかもしれません。  翌日は勝浦へ戻り、まず紀の松島巡り。ですが、天候に恵まれず、この美しさはまさに絵葉書。    私がこの日見たかったのは山成島(やまなりじま)です。遊覧船からは遠くてよくみえませんでしたが、平維盛(たいらのこれもり)が入水したところです。
     
 紀の松島の近くに世界でも珍しい鯨の博物館があります。博物館のある太地町(たいじちょう)は日本捕鯨発祥の地で、古式捕鯨の歴史的な資料や絵図、用具などが展示されています。   さて、いよいよ那智山です。ここには熊野三山の一つである熊野那智大社や那智の大滝、西国第一番札所である青岸渡寺(せいがんとじ)があります。 
     
 まずは那智の滝を御神体とする飛瀧(ひろう)神社へ。ここは熊野那智大社の別宮です。 表参道の細く長い石段を上って 
     
 途中、開けたところにあるのが青岸渡寺の五重塔です  それからさらに登って、標高500mのところにあるのが熊野那智大社です。拝殿の後ろに権現造りの社殿が並んでいます。5棟ある朱塗りの建物がとてもきれいでしたよ。  
     
 この大楠は平重盛(たいらのしげもり)手植えによるものと伝えられていますが、真偽のほどはわかりません。  熊野牛王神璽(くまのごおうしんじ)です。熊野三山に伝わる悪魔退散、陰陽和合の護符で、朝廷でも重んじられましたが武家の間では起請文として用いられました(写真は那智大社のもの)。 
     
 旅の最後は熊野本宮大社へ  熊野古道です(この時はまだ世界遺産になっていませんでした)。  古色蒼然とした建物ですが、明治の水害の際、流出をまぬがれた古材を用いて再建したものだそうです。 
     
 境内には四社殿が建ち並びます。明治の水害以前には大斎原(おおゆのはら)に鎮座していましたが、水害以後現在の本宮町に移されました。熊野は今でも「陸の孤島」と呼ばれるほど交通の便の悪いところですが、平安時代には「熊野へ参らむと思へども 徒歩(かち)より参れば道遠し すぐれて山峻(きび)し 馬にて参れば苦行ならず 空より参らむ羽たべ(ください)若王子」と歌われるほど遠く険しいものでした。それでも後白河法皇は33回も詣でたんですよ。信仰の力ってすごいですね。  息子がまだ小さかったので熊野三山の最後の一つ熊野速玉大社(新宮)参拝を諦め、熊野灘で泳いで帰ってきました。あの時はまた行けると思っていたのですが…。 

2012年10月記

 
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